ニック・ロウ(Nick Lowe)、4年ぶりの来日公演が10月4日(水)大阪、6日(金)・7日(土)東京、9日(月・祝)横浜のビルボードライブで開催される。パブロックの第一人者としてパンク・ロックの成立に一役買い、エルヴィス・コステロをプロデュースし、ジョニー・キャッシュと充実した時間を過ごした彼の数奇なキャリアを、本人や関係者の証言も交えつつ振り返る。
1990年1月、41回目の誕生日まであと数カ月というところで、ニック・ロウは、インタビューを受けるべくBBCの撮影班をロンドン郊外のテラスハウスに迎え入れた。ロウには宣伝すべきニュー・アルバム『Party of One』があったが、彼には音楽業界での20年ものキャリアがあった。まずはブリンズリー・シュウォーツ。アメリカーナの影響をはっきりと打ち出していたが、英国外では(さらに言えば、英国内でも)インパクトを残すことはできずに終わった。そして、スティッフ・レコーズという支離滅裂なインディー・レーベルのハウス・プロデューサー。そこでロウは、英国初のパンク・シングルとして広く知られるダムド「New Rose」をプロデュースし、また、エルヴィス・コステロとの実りあるコラボレーションを開始。コステロの最初の5枚のアルバムをプロデュースし、傑作を連発している。ロウが書いたナンバー「(Whats So Funny Bout)Peace, Love and Understanding」はコステロの最も印象深い曲の一つとなり、さらには、ロウ自身もパンク/ニュー・ウェイヴの勃興と共にソロ活動をスタートさせており、「Cruel to Be Kind」「So It Goes」「I Love the Sound of Breaking Glass」といった彼の代表曲は今なおこの時代の不動のクラシックであり続けている。
だが、『Party of One』の頃には、ロウの曲がチャートに顔を出さなくなって5年が過ぎていた。彼は数年前に酒を断っていたが、すぐに再び飲み始めており、また、シンガーソングライターにして”ナッシュヴィル王室家”の姫(ジューン・カーター・キャッシュの実娘、すなわちジョニー・キャッシュの継娘)であったカーリーン・カーターとの10年に及ぶ結婚生活も、その正式な破綻が近づいていた。BBCの映像では、ロウは、顔に浮腫みややつれが見られ、40歳より老けて見えた。身に纏った燻んだ色のツィード・ジャケットは、定年が近い全寮制学校の校長から盗んだかのような代物だった。
ギターを爪弾きながら、ロウは、恐るべき義父についてや、若い頃にベイ・シティ・ローラーズのことを歌ったノベルティ・ソングを書いた試みといった、笑える自虐的な話をしてくれた。その後、話は年齢のことに及んだ。「40歳になって(この活動を)まだやってるなんて思ってもみなかったよ」彼は認めた。「ありえないね」。彼は煙草を深く吸い込み、突然物思いに耽り、視線を脇に逸らせた。あたかも、秘密の計画を明かすかどうか逡巡しているかのように。そして彼は微笑み、その瞳はいたずらっぽく輝いた。「でも実際は、そう、良くなっているとようやく思えるようになったよ……60歳になったら本当に良くなると思う。実際60歳になったら、とても素敵に見えるはずさ。それが一番大切なことだ。60歳になったら、血気盛んに見えると思う。
また新たなギャグが始まったかのように聞こえた。ロウは明らかにつまらなそうな顔をしていた。そして、インタビューでは、彼の作詞アプローチの特徴でもある、英国ならではの冷笑的な皮肉へと大きく傾きながら、もったいぶったかのような口ぶりで自身の作品に関する話を慎重に避けようとした。柄にもない尊大な態度がオチへと繋がるに違いない。
だが、そうではなかった。ロウが目を細めたのは煙のせいだった。彼は冗談を言っているのではなかった。彼は予測を立てていたのだ。「60歳になったら作曲のやり方が分かるようになるんだろう。ようやく上達し始めたところさ」。彼の笑顔は消えており、発言を強調すべく煙草で宙に向かってジャブを打った。
今から20年後のことを彼は明言した。「僕はキテいると思うよ。本当にマジでキテいるはずさ」。
「洗練されたシンガーソングライター」への変貌
20年後、ロウは同じ西ロンドンのテラスハウスのドアを開け、新たな訪問者を迎えた。ラフな格好の若いスタッフの予想どおりに、ロウは、今や60を通り越して70に近いが(編注:2023年時点で74歳)、素晴らしい見栄えである。高身長で、スリムで、小綺麗で、白いドレスシャツに裾を折り返した濃紺のジーンズを合わせ、茶色いコーデュロイのジャケットを羽織り、バディ・ホリーのような大きめの黒縁メガネをかけるという装い。今や完全に白くなった髪は、威厳のある解釈を施したオールバックへと流されている。
ロウはブレントフォードに住んでいる。かつてナイロン工場で知られた退屈な街だ。彼の家は、曰く、それほど古くはないとのことだが、彼は英国の基準で言っているのだ(建てられたのは1805年のこと)。近年ロウは、数ブロック先の別のテラスハウスで2人目の夫人ペータ・ワディントンと10代の息子ロイと共に暮らしている。
ロウは以前の住居を仕事場のようなものとして使用している。それは、ぎゅうぎゅう詰めの本棚(カール・マルクス伝記、ボクシング歴史図鑑、ウィリー・ディクソン『I Am the Blues』、ハンス・ファラダの『The Drinkers』といった小説など)、ジョニー・キャッシュのデビュー・アルバム(「ニックへ」というサインが書かれている)、洒落たジンクトップのダイニング・テーブルなど、味わい深くリフォームされた独身生活スタイルで彩られていた。エゴン・シーレを連想させるようなトップレス女性の不気味な絵画があり、その真向かいには、鈴を首に巻いた可愛い小型犬の絵が掲げられている。
『Party of One』以降のロウの音楽が「本当にマジでキテいる」かどうかは、「キテいる」の定義による部分があるだろう。インディ・レーベルに戻っていたロウは、新たなヒット・シングルを放つことはなかったゆえに、商業的な意味では”ノー”だ。だが、1994年の優れた作品『The Impossible Bird』を起点に、彼の技巧はアルバムごとに熟練度を増していった。その音楽は無駄が削ぎ落とされ、しばしばアコースティックで、彼がブリンズリー・シュウォーツで最初に探究したアメリカのルーツ音楽を含んでいた。BBCのインタビューで示された計画に驚くほどに忠実に、彼はポップスター予備軍から、控えめながらもより洗練された作風のシンガーソングライターへと滑らかに変貌したのだ。彼が新たに作った曲には、賛美歌のようなバラード(「Shelley My Love」)、ランディ・ニューマン風の辛辣な人物描写(コーラス部分に”これで遠慮なく彼女の心を傷つけることができる”という卑劣などんでん返しがある「I Trainde Her to Love Me」)、吟遊詩人のフォーク(「Indian Queens」)、そしてブレントフォード経由のメンフィス・ソウル(「High on a Hilltop」)などがあり、彼はそれらをあたかも既にスタンダードになっているかのようにクルーン唱法で歌い、聴き手に簡単にはそのルーツを特定をできないようにしている。
2021年の弾き語りライブ、2001年作『The Convincer』収録曲「Lately I've Let Things Slide」を披露
私がロウの家にほんの数分ほど滞在したところで、突然彼が言う。
池に沿った道を進みながら、ロウはフォリーを指し示す。
1977年のニック・ロウ。70年代半ば、スティッフ・レコーズと契約すると、彼は英国パンク・シーンの重要人物となった(Photo by DICKSON/REX SHUTTERSTOCK)
ロウの最新リリースは、不真面目であることの重要性を示すケーススタディである。それは4曲入りEPで、彼にとって5年ぶりの新曲となる—-つまりは大事件である。だが、近年のロウのバックを務めるグループは、ロス・ストレイトジャケッツというサーフ・ギター・バンドで、メンバー全員が演奏時にルチャリブレの覆面を被っている。ロウとストレイトジャケッツは、マネージャー(高名な音楽ジャーナリスト、ピーター・グラルニックの息子であるジェイク・グラルニック)とレコード・レーベル(ノース・カロライナを拠点とするインディ・レーベルYep Roc)が同じであったゆえに、第一印象ほどのおかしな組み合わせではない。だが、それでもかなりおかしい。ところで、ロウがツアーをする際、ステージ上では彼がメキシカン・プロレスのマスクを被っていない唯一の人物となり、それは、生涯に亘る積極果敢な真面目さの拒絶を知らしめる方法の一つであることは間違いなく、そのことにより、ニュージャージー州ジャージーシティのホワイト・イーグル・ホールで私の観たショウが、『ツイン・ピークス』のロードハウス・バーにいるかのような錯覚をしばしば起こさせたのだった。
「それがニックという男のカッコいいところなんだ。こうしたことも厭わないというところがね」。ロス・ストレイトジャケッツのギタリストの一翼を担い、グループの実質的なリーダーでもあるエディ・エンジェルが言う。「僕らは何も失うものはなかった。でも彼は違った。彼には名声があったんだ!」
2019年のライブ映像、ロス・ストレイトジャケッツと共演
両親のこと、ブリンズリー・シュウォーツという原点
翌日の午後、ロウが再びドライブを提案した。今回の目的地は、彼にとって個人的に意味のある場所というべきイギリス空軍博物館。それは、かつての飛行場にあった格納庫を再利用したものだった。ロウの父親ジェフリー・ドレイン・ロウは、第2次世界大戦中パイロットとしてドイツ爆撃を遂行し、イギリス空軍中佐にまで昇格した。彼はまた、現在博物館が設置されている飛行場ヘンドンで行われた航空ショーに出演したことがあった。年配女性に変装した彼は、しばしば観衆の中から飛び出てきて飛行機に飛び乗り、アクロバット飛行を始めるのだった。「かなりの酒を食らっていたそうだよ、後に父親が語ってくれたところによれば」ロウは言う。
ロウは、カッコいい親父の出立ちを具現化するのと同じように、別の親父モードにも容易く変身できる—-間抜けでわざとイラつかせる親父、例えば、大袈裟なアクセントや手振りで話を盛るような。あるいは、ここイギリス航空博物館でならば、第2次世界大戦マニアでヒストリー・チャンネル好きの親父がちょっとした講義をしたくてうずうずしているような。我々はチャスタイズ作戦と呼ばれる攻撃が行われた日に偶然訪れていた。それは、軍事作戦としては極めて英国的な名称であることに加え、ドイツのダムを破壊してルール渓谷を氾濫させることができる特殊な反跳爆弾が使用された作戦だった。ロウは、折り畳み椅子に座ってその話題に関するトークを聞く高齢者団体の前でしばし立ち止まると、やがてこの作戦に関する彼独自の詳細な説明を私の耳元で囁き始めた。
新たな曲を書こうとする際、しばしばロウはこの博物館を訪れ、ぶらぶらと歩き回り、格調高いいにしえの戦闘機を眺めるのだった。「親父はこれらに乗って勢いよく飛び立ったんだ」ロウはそう言って、輝くプロペラを有するホーカーハート爆撃機の前で立ち止まる。今なお男子学生のように感嘆しているかのようだ。「誇るべきことは何もないよ。彼からは何も聞き出すことができなかったんだ」。校外学習に来ていた本物の学童の一団がロウの前を通り過ぎる。彼に気づくことなく。
ロウの母パトリシアはショウビジネス一家の生まれで、家族はウェストエンド版ヴォードヴィルともいうべき英国大衆演芸場の演者だった。皿回しや曲芸犬といったものの世界だ。彼女の母親はダンサー、父親はピアノの神童で、(冗談抜きに)「the Dudevenile(ぞっとするような奴)」という名で知られていた。「まさに身の毛もよだつヴィクトリア様式さ」ロウは言う。「家族は彼をサーキットに帯同し、母は彼に常に半ズボンを履かせていた。大人になってもね。まるでAC/DCの奴みたいに! それが原因で彼は酒に溺れるようになったんだ」。
パトリシアは歌手(ローズマリー・クルーニーのようなスタイル)だったが、彼女のキャリアは戦争に妨げられた。婦人補助空軍に勤務していた際、飛行機の車輪で用を足すパイロットに対して忠告する上層部からの通達が、パトリシアを刺激してこの件について歌ったコミック・ソングを書かせることとなり、それが彼女をロウの父親と引き合わせた。「この曲は物議を醸し、彼女は呼び出され、当時飛行中隊隊長だった親父から厳しい叱責を受けた」ロウが言う。「でも、彼はその曲をとても面白いと思っていたんだ」。
ロウはヨルダンやキプロスの軍事基地で育った(彼は、ヨルダンのアンマンで若き日のフセイン国王とミニカーで遊んだことを記憶している。彼はロウの父親を気に入り、最新のスポーツカーに乗ってしばしば彼らの家を訪れていた)。子供の頃ロウはウクレレを持っていて、母は彼にいくつかのコードを教え、彼女のレコード・コレクションへと関心を向けさせた。フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、ペギー・リー、そしてロウのお気に入りの、信じられないほど魅惑的なテネシー・アーニー・フォード。彼はフォードの「Fatback Louisiana, U.S.A.」を独学で音声から覚えた。「まるでフランス語か何かのように聞こえたんだ。何が歌われているか分からなかったよ。歌詞は”あらゆる家がリッツというわけじゃないけど、お腹が空いた時は便利だ、だって食べ物でできているからね”といった感じだった。僕は思った、おぉ!”薬の代わりに黒目豆を摂る”だと。胸がむかむかするような響きの食べ物の歌なんだ」。
ロウは、英国中産階級によく見られる傾向の一つであるが、生来的な自己消失と多大な自信とを、そのいずれの人格的特徴も優位になることがないままで、融合させる才能を有している。彼は生粋の話し上手だが、彼自身もそれを自覚しており、それが彼に紆余曲折があり脱線もする25分の逸話をためらうことなく始めさせ、それは必ず華々しい形で実を結ぶのだ。そして同時に、それらの物語のほとんどが意図的にロウを貶め、彼をジョークのネタにすることとなる。
彼のミュージシャンとしての原点の物語をしよう。 それは、ロウがイングランドはサフォークの寄宿学校に送り込まれるところから始まるのだが、そこで彼は、1963年にクラスメートのブリンズリー・シュウォーツとバンドを結成している。ロウがベース担当を買って出ると、木工クラスの友人が彼に一本作ってあげたが、それはペンチでチューニングしなければならない代物だった。バンドは長く続かなかった。卒業時のロウには戦争特派員になるという夢があった。父と話しに基地へとやってくる、壮絶な人生を送る男たちに影響を受けたのだ。だが、地方新聞での刺激的ではない新人の仕事に就くと、彼はそれを続けられないと気づいた—-映画『ラブ・バッグ』のレビューを書くべく派遣されたロウは、上映中に酒を飲んで酔い潰れてしまった——そして代わりに、その時点でキッピントン・ロッジという新たな60年代ポップ・バンドでレコード契約を得ていたシュウォーツに、再び連絡を取った。ロウはバンドに加入し、スタジオで彼らのバックを務めていたスタジオ・ミュージシャンを排除するよう主張した。「僕は言ったんだ。『これで行くべきだ、みんな! 自分たちのレコードでは自分たちで演奏しなきゃいけないんだ。俺たちは一体どんなバンドなんだ?』」。その結果、彼らはセッション・ミュージシャンがいなければ酷い音しか出せないバンドだと判明し、すぐさまレーベルから切られた。
グループは粘り強く活動を続け、ついにはロンドンの話題のクラブで1週間に亘ってイエスの前座を務めるまでとなり、サウンド的にも、ザ・バンドやクロスビー・スティルス&ナッシュといったアメリカの影響源へと向かって変化していき、バンド名もブリンズリー・シュウォーツに改めた。ロウはベースを弾き、リード・ボーカリストになり、曲も作り始めた—-その中には「(Whats So Funny Bout) Peace, Love and Understanding」もあった。ブリンズリーズの1970年のデビューを後押しする英国での大々的な宣伝キャンペーン—-そこには、飛行機1台分の英国ジャーナリストをニューヨークへと飛ばし、バンドがヴァン・モリソンやクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスの前座として出演して悲惨な結果に終わった、フィルモア・イーストでのショウへと送り込むことも含まれていた——は、完全に裏目に出てしまい、バンドもそれが国民全体の笑いものとなったことを知った(メロディ・メイカー紙によると「史上最大のハッタリ」)。バンドは、パブロックという名で知られることとなったものの勃興によって、二度目のチャンスを手にした。それは、ドクター・フィールグッド、イアン・デュリー&ザ・ブロックヘッズ、The 101ers(ジョー・ストラマーの最初のグループ)といったバンドが作った短期ながら影響力があったロンドンのシーンであり、肥大し大仰となったプログレッシヴ・ロック時代に対する、歓迎すべき初心に帰る動きを示していた。「まさにパンク・ロックの前触れとなるものだった」ロウは言う。「そこには、他のことには目もくれない変わった奴らがたくさんいたんだ」。
1971年前後のこと、数年に亘るLSD過剰摂取の後、ロウはノイローゼのようなものに苛まれていた。パブロックの歴史本『No Sleep Till Canvey Island』でジャーナリストのウィル・バーチに語っているように。「僕は9カ月もの間、文字通り翻弄されていたんだ……。頭一面にシラミが湧いて、淋病にもかかった。僕はおぞましいヒッピー患者だったよ」。ロウは身なりを整え、髪を切り、LSDからアルコールへと切り替え(70年代初頭、それは解毒法と見なされていた)、勢いを盛り返していたブリンズリー・シュウォーツはパブで演奏するようになっていた。その優れたセンスによって、彼らはすぐさまシーンの寵児となった。彼らは、自作曲にNo.1ヒットのカバーを織り混ぜながら毎週新曲を披露した。リヴァプールの少年デクラン・マクマナス(後のエルヴィス・コステロ)がファンになり、ショウの後にロウのところに恐る恐る自己紹介に来た。「酷い模倣者たちがたくさんいたよ」ロウが白状する。「僕自身もこの表現を使っていた。ドン・ダ・ドン・ダ・ドン・ダ・ドンって鳴らす結構いいブルースなんかに『あぁ、あれはちょっとパブロックだね』って。パブロックと名付けるのは今では侮辱となりうる。でも、そもそもはとても楽しいものだったんだ」。
ニック・ロウとエルヴィス・コステロ、1986年撮影(Photo by ESTATE OF KEITH MORRIS/REDFERNS/GETTY IMAGES)
その活動期間に5枚のアルバムをリリースしてもなお、ブリンズリー・シュウォーツはメインストリームへと足を踏み入れることはできず、1975年にバンドは解散した。 ソロとなり縛られるものがなくなったロウは、ベイ・シティ・ローラーズのことを歌ったノヴェルティ・ソングを作り(日本でヒット!)、ドクター・フィールグッドのローディーとして全米をツアー。サンフランシスコでは、”&ザ・ニュース”が付く以前のヒューイ・ルイスと出会った。当時彼はクローヴァーというバンドのシンガーの一人で、そのレコードがどういうわけだかパブ・ロッカーたちの手に渡っていたのだ。ロウを通じて、クローヴァーの何人かのメンバーはコステロのデビュー・アルバム『My Aim Is True』にバック・バンドとして参加している。
「そんなシーンがあることさえ知らなかったよ」ルイスが筆者に語る。「ニックが僕らのファンだと挨拶してきたから、彼に飛び入りするよう誘ったんだ。あの当時は一晩に4公演やっていたから、出られる奴がいれば誰でも出していた。ニックが言ったんだ。『「Wine and Cigarettes」をやるのはどう?』って。これは、僕らもライブでやったことのない知られざる曲だった。ニックは完璧に演奏したよ。最終的には、彼とバンド全員をボリナスの母親の家に連れて行くまでになったんだ」。
UKパンクを支えたプロデューサー/ソングライター
フォルクスワーゲンに戻り、ロウが携帯電話をチェックすると—-”ニコラスの電話”という言葉が車にあったBluetoothのスクリーンに現れる—-こう言う。「ピートに電話を掛けてもいいかな。状況をチェックしたいんだ。さて、彼女がこれをどう料理するか」。彼が言ったのは妻ペータ・ワディントンのこと。彼らは筆者をディナーに招待してくれていて、彼女はロウに買ってきてもらいたい品物のちょっとしたリストを作っていたのだ。
二人が出会ったのは2000年、サム・フィリップスのドキュメンタリーの上映会でのことだった。ワディントンは当時グラフィック・デザイナーで、「古い音楽が大好きだから、僕は彼女に適しているかもしれないね」とロウが言う。彼女はすぐさま「自分なら僕のレコード・ジャケットをもっと素晴らしくできたという生意気な発言」によって彼を否定し(辛辣だが真っ当だった)、二人はやがてデートをするようになった。ロイが2005年に生まれ、ロウは熟年の育児に完全に没頭していたようだった。当初は自分のメルセデスをステーションワゴンに交換しなければならないという屈辱に不満を漏らしていたのだが(ロウは前回の結婚で生まれたカーリーン・カーターとの娘ティファニーの養育にも手を貸していた。ちなみに彼女は父親の姓を名乗っている)。
帰宅すると、ロウはディナーの準備にとりかかる。ツナとケイパーとフレッシュ・トマトのパスタだ。彼の料理の腕前は素晴らしいが、沸騰したお湯の入った小さすぎるポットに、まるでそれらが焚き付けの束であるかのように、心ここにあらずといった様子でスパゲティを一人分ずつ入れ始めた時は、少し怪しい感じがした。ワディントンは魅力的なピクシーカットの髪に、生気に充ちた隙のない目をしていた。後に彼女は、デザインの仕事を辞めてルイジアナ州ユーニスの田舎に移住した突拍子もない話を聞かせてくれた—-スワンプ・ポップに長年魅了されていた彼女は、飛び込みで地元ラジオ局を訪れ、そこの困惑したマネージャーが最終的にはショックから立ち直り、彼女をディスク・ジョッキーとして雇った。彼女曰くこの行動が腰の重いロウの興味をそそり、ほどなく二人の真剣交際が始まったという。
さて、キッキンカウンターの椅子に腰掛けながら、少し心配そうな面持ちでロウを眺めていた彼女が言う。「ニック、ちゃんと見てる?」
私の方を振り返ったワディントンは、ちょうど2日後に行われるロイヤル・ウェディングを観るかどうか僕に尋ねてくる。「ニックはそんなにワクワクしていないのよ」彼女がニヤリとしながら言う。「彼にとってはあまりに非伝統的なのよ。」
ロウが肩をすくめる。彼は最近『ザ・クラウン』のシーズン1を遅ればせながら楽しんでいる。ワディントンが彼にNetflixでチェックするよう説き伏せたものだ。
将来有望なドラマー、ロイは階下でうろうろしている。彼はボサボサの赤髪で、13歳にしては驚くほど礼儀正しくて話し上手だった。英国の音楽誌『Uncut』がカウンターの上に置かれていた。ロイはそれを手にして言った。「ほら見て、ジョン・ライドンだ」。 表紙は初期パブリック・イメージ・リミテッドの古い写真だった。ロウはざっと目を通し、意地悪く眉をひそめて言う。「今の彼は全然違うよ」。彼はパスタに戻り、フォークでかき混ぜる。「僕はジョンとはずっと関わらないようにしてきた。僕からするとあまりに短気だった。最終的にどう落ち着くのか分からないんだ。ピストルズの他のメンバーはみんないい奴だったよ」。
ロイが訊ねる「彼はまだ生きてるの?」
70年代半ば、ロウは突然自分がUKパンク・シーン勃興の場にいることに気づいた。パブロック小ブームの時からのマネージャー・コンビ、ジェイク・リヴィエラとデイヴ・ロビンソンが自身のレーベルを始めようとした時のことだった。パンクの草分けとなるスティッフ・レコーズである。当時27歳のロウは、その場にいるには歳を取りすぎていると既に感じていた。「ダムドの連中は僕のことを”おじさん(uncle)”あるいは”おやじ(dad)”と呼んでいたんだ」彼は言う。ロビンソンがマネージメントをしていた、南東イングランド出身の当時は無名シンガーソングライターであったグレアム・パーカーが回想する。「デイヴの夢は、レーベルを始め、逮捕されないような奴らだけと契約することだった。ニック・ロウとかね。俺は思ったよ、『そんなの時間の無駄だ』って。ニックのソングライティングについて知っていることは、彼が『We Love You Bay City Rollers』という曲を書いたことぐらいだった。その後ブリンズリー・シュウォーツを聴いたけど、それは椅子に腰掛けたボブ・ディランみたいなサウンドだった。そして、ニックが注目すべきソングライターになるとは全く思えなかったんだ」。
パーカーが懐疑的であったにもかかわらず、スティッフはコステロやマッドネス、ザ・ポーグス、そしてダムドのキャリアをスタートさせるのだった(ロウはパーカーの2枚の傑作アルバムもプロデュースすることとなる)。「音楽紙でスティッフ・レコーズに関する記事を読んでみたら、ニックがこのレーベルの全てだった——彼らの第一の、そして唯一のアーティストであり、彼らが前面に打ち出すハウス・プロデューサーであり、ついには僕のプロデューサーにもなったんだ」。コステロがEメールで言及している。このレーベルの最初のシングルは、ロウによる「So It Goes」。言葉を尽くした感染性のあるこのスティーリー・ダンもどきは、1978年にリリースされた彼のデビュー・フルアルバム『Jesus of Cool』に収録されることとなる(この自嘲的なタイトルは、アメリカの聴衆にはあまりにエッジが効き過ぎていると判断され、米国では代わりに『Pure Pop for New People』というタイトルが採用された)。
ロウはまた、ウェールズ出身のシンガー/ギタリスト、デイヴ・エドモンズと共にパワーポップ・バンド、ロックパイルを結成。そして1979年、この2人は各々同時に素晴らしいソロ・アルバム、ロウは『Labour of Lust』を、エドモンズは『Repeat When Necessary』をリリースしたが、それらは実質的にロックパイルのアルバムであり、『Speakerboxx / The Love Below』(訳註:米国ヒップホップ・デュオ、アウトキャストの2003年作。各々のソロ作をまとめて2枚組としてリリースされた)の戦略を25年も先取りしていた。『Labour of Lust』には、ロウの米国での最大のヒット曲である、辛辣ながらも甘美なポップソング「Cruel to Be Kind」が収録されている。そのMVには、カーターとの結婚式の映像が使用されており、エドモンズがリムジン運転手役を演じている。
自身のための作曲に勤しむのみならず、ロウは需要の高いプロデューサーになっており、スタジオでの急場しのぎのアプローチから”Basher(とにかくやらせる人)”というニックネームを得ていた。「ニックのプロデュース・スタイル(これが正しい表現かどうか分からないけど、僕には比較のしようがないので)は瞬間瞬間の大きな熱狂を曝け出すというもので、我々が何を演奏しようとそれが絶対的な”正解”であるという確信に満ちているように思えたよ」コステロが記している。さらには、プロデューサーである以上に、ロウは「常にソングライターであり、僕も多くのヒントを得てきた——彼の曲『When I Write the Book』と僕の『Everyday I Write the Book』みたいにね」。
ジョニー・キャッシュとの交流、後悔だらけの日々
ロウがカーターと出会ったのは、1978年のロンドンでのレコーディング・セッションでのことだった。彼女のデビューにあたり、エドモンズがプロデューサーとして招かれ、ロウはスタジオに顔を出してベースを弾いた。そしてその数日後、彼はカーターをデートに誘った。「私は『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演する彼を観に行ったのよ」彼女が回想する。「彼は、クエスチョンマークが一面に付いたリドラーのスーツを着て『I Love the Sound of Breaking Glass』を歌ったわ。私たちは気が合った。最初のデートで二人で曲を書いたのよ! まだキスもしていなかったのに」(皮肉にも、それは破局の歌「Too Many Teardrops」で、ロウの1982年のアルバム『Nick the Knife』に収録されている)。
ロウのようなカントリー・ミュージックの熱狂的信者にとって、未来の義理の両親と会うことは現実離れした体験であることが分かった。当時、ロウが言うには、彼は「とても英国的で、『スパイナル・タップ』のような奴」に見えたとのこと。長い髪、古着のシャツ、タイトなジーンズ。カーターの父にして1950年代のカントリー・ミュージックのスター、カール・スミスは「僕のことを疑いの目で見ていたよ」ロウが認める。「まるで村一番の愚か者が訪ねてきたみたいに」。最終的にスミスはロウを気に入り、エルヴィス・プレスリーにベビーカーであちこち連れ回されるカーリーンの映像を見せるまでとなった。
二人で初めてテネシー州ヘンダーソンヴィルのキャッシュ家を訪れた際、ジューン・カーター・キャッシュがロウをアンティークでいっぱいのベッドルームに案内してくれた。「まるでヴェルサイユ宮殿から持ってきたかのようだった。そして、巨大なベッドがあり、そこにシルクのパジャマを着たジョン(ジョニー・キャッシュ)が横たわっていて、客人たちを迎えていたんだ。僕は思った。『こんなにイカしていることがあるだろうか』。」ロウはついに畏怖を克服した。「ジョンは僕にとても良くしてくれた。フレンドリーで、優しくて」彼は言う。二人は夜更かしして、酔っ払いながらキャッシュがロウに薦める古いレコードを聴いた。マヘリア・ジャクソン、シスター・ロゼッタ・サープ、ジョニー・ホートン。後にキャッシュ家がシェパーズ・ブッシュのロウとカーリーンの家に滞在するのだが、そこでは、朝ジューンが部屋着のガウンとダイヤの指輪と宝石をあしらったターバンという装いで小さなキッチンまで降りてくるのだった。この時期キャッシュは、ロウの『Labour of Lust』からの曲「Without Love」のカバーを録音しており、まるでサン・スタジオのアウトテイクのようなサウンドを鳴らしていた。
ブリンズリー・シュウォーツ時代に不幸ながらもレコード業界の誇大宣伝と早々に出会った後、ロウは、パンク隆盛時には役立ったものの、音楽ビジネスに対してシニシズムを募らせていた。アーティストとして、プロデューサーとして「両陣営に足を突っ込みながら」活動しながら、彼はさらに距離を置くようになった。「レーベルの人間がアーティストについてボロクソに言っているのを耳にしたし、時折僕もそこに加わっていた。同時に、それによって自分がああいったポップの土俵にいる時間が終わるのを客観的に捉えることができたんだ。とにかく僕はかなりシニカルだったよ。決して受け入れることはなかったね」。
前妻カーリーン・カーターとニック・ロウ。カーターはジューン・カーター・キャッシュの娘であり、ジョニー・キャッシュの継娘(COURTESY OF NICK LOWE)
ロックパイルは1981年に解散した。その頃には、ロウの評価はポップの神童から酔っ払いの落ちこぼれへと変わり始めていた。コステロ、ロウ、イアン・デューリー、レックレス・エリックを擁した初期スティッフの英国パッケージ・ツアーでは——最後の2人はそれぞれ「Sex & Drug & Rock & Roll」「Whole Wide World」という話題のシングルをリリースしており、後者はロウのプロデュースだった——、各アーティストが順番にヘッドライナーになるよう毎晩出演順を変える計画だったが、ロウは、ライブ後に飲む時間をたっぷりと確保すべく、すぐさまトップバッターを定位置にした。1979年制作のロックパイル密着ドキュメンタリー『Born Fighters』を締め括る最後の数分で、エドモンズは、酔っ払ってろれつの回らないロウにある種の干渉を試み、毅然とした優しさをもってこの友人に懇願する。「そろそろひと休みしよう、友よ」
「僕は『後悔も少しはあった、言うほどではないが(Regrets, Ive had a few)』(訳註:フランク・シナトラ『My Way』の歌詞)みたいなことを言う奴じゃないよ」現在のロウが言う。「僕は後悔だらけなんだ」。その後、彼はその真意を詳しく述べている。「そうさ、僕は後悔すべきじゃないんだ。ずっと幸運だったよ。素晴らしい人たちと出会った。僕のヒーローたちであり、演奏する姿を見ることなどないと思っていた人たち。ましてや、会ったり、仕事をしたりなんて。中には親友になった人もいた。だから、信じられないぐらい幸運なんだ。だけど、本当に多くのチャンスがあったんだ……」。話が本筋から外れる。「あんなに怠惰じゃなければよかったよ。音楽そのものをもう少し学べただろうからね——音楽理論をもう少し知っていれば、自分が本当にやりたいものにより近づくことができただろう。ドラッグの摂取に費やした無駄な時間とお金のことを後悔している。しかし——」そして、彼は自身の鑑定に横槍を入れたいという衝動に含み笑いをする。「そう、それによってかなり興味深い状況に身を置くこともできた。さて……これからどうする?」
飛行機から見た夢の景色
ロウとカーターの婚姻が解消されてから数年後、キャッシュはまた一つロウの楽曲「The Beast in Me」を印象深くカバーし、それは彼の復活作『American Recordings』の中でも傑出した出来栄えとなった。ロウがWTFポッドキャストに出演した際、マーク・マロンは、あの歌詞が口には出せない心の闇を下地にしたものではないことに驚いている。だがロウは、後悔はさておき、脆弱な鉄格子の檻に閉じ込められた内なる悪魔と格闘したような感覚を抱いたことはない。実際彼は、義父の一人がシェパーズ・ブッシュを訪れる前に夜を徹してこの曲を書き、意図的にキャッシュの声を降臨させようと試みた。1990年のBBCのインタビューでは、翌朝キャッシュの前でこの曲をしわがれ声で歌った笑い話をしている。甲高い声を震わせながら、二日酔いで、恐れ慄きながら。「前夜、僕はジョニー・キャッシュだった……だけど、階下に降りてこの曲を歌った時は……こんなに弱々しい歌は聴いたことがなかったよ」。
ロウの自己消失の赤裸々な表明は、ブリル・ビルディング期のプロフェッショナリズムをもってアプローチした彼のソングライティングに、はっきりと見て取れる。「僕はいつも他人のために書いているんだ」。彼はそう言い、その後つけ加える「僕が崖っぷちにいて眼下を見ていた、とマークに思われたことはとても嬉しいよ。そして、不安な感情がどういうものかも分かっている、本当さ。だけど、僕は自分のことを歌う曲は作らないようにしているんだ」。
そうした理由もあって、ロウのレパートリーには時代を超えるクオリティがある。絶好調時の彼の曲は、その作者を匿名にさえするほどの熟練職人の域にまで達する。ロウがパーティばかりに興じていて、作品の出来にも波があった80年代に絞り込んだとしても、隠れた名曲のプレイリストが作れるし(「Ragin Eyes」「My Heart Hurts」「Raining Raining」「Crying in My Sleep」など)、それは蔵出しされた幻のクレイテスト・ヒッツ・アルバムのように響くことだろう。そして『The Impossible Bird』以降、かつての”Basher”が静謐を新たな轟音と捉えた時、音楽のより親密で寛いだ感覚が、ロウの歌声を、そして楽曲のウィットや構造的な複雑さをステージの前面へと押し出すのだ。目を閉じればすぐさまそのレコードが、シナトラ、サム・クック、ジョージ・ジョーンズ、ソロモン・バークなど、思春期に崇めた今は亡き神たちの精巧に作られたデモのごとく聴こえてくるだろう。
ブレントフォードでの最終日、我々は運河に沿って散歩した。上半身剥き出しの男がボートハウスのデッキで寝ている。彼の隣りでは、パイナップルから大きなナイフが突き出ている。ロウは、今週初めに逝去した女優マーゴット・キダーの話を持ち出す。彼らが付き合っていたのを知っていたかって? いや、知らなかった。彼女とはカーターとの破局後にロンドンで出会ったそうだ。かつて、ロサンゼルスで彼女の愛犬を連れてハイキングに出掛けた際、キダーは友人のルーディに会いに行こうと提案した。私有地の芝生にできた路を通ってきた二人は、犬と共に芝の上で日光浴をする男と出くわす。”ルーディ”は、ロウ曰く「ルドルフ・”忌々しい”・ヌレイエフ」だということが判明した。犬たちが遊び出す。キダーの愛犬ハリーは「前足が一本不自由だったから、常に何かをせがんでいるように見えた。そして年老いたヌレイエフの犬は酷い事故で後ろ足を負傷したダックスフントだったから、足を後ろに引きずっていて、まるで水生動物のアシカのようだった」。「アァ、カレラが一緒にいるのを見てごらん、なんてカヴァイイ!」とヌレイエフが言ったんだ、とロウがロシア訛りで語る。ロウは首を左右に振る。「人生であんなグロテスクなものを見たのは初めてだよ!」
ロウはキダーとは何年も話していなかった。彼女が公の場で神経衰弱を起こした後、90年代半ばにコンタクトを取ったが、返信はなかった。彼は今も酒を嗜んでいる—-ブレントンのパブを何軒も訪れた——が、かつてのようでなく、また、ロイが生まれた頃に喫煙も止めている。彼は近所のハウス・パーティで数曲歌っていたら、突然咳き込んだ。「止まらなくなったんだ」彼は言う。「最初は笑っていた。そして笑い事じゃなくなったんだ」。
ニック・ロウは80年代に西ロンドンのブレントフォードへと移住。その理由の一つはパブがたくさんあったからだ。「あの頃は熱心なパブ愛好者だったよ」と彼は言う。(Photo by JULIAN BROAD FOR ROLLING STONE)
その後、ロウの親友であり共同制作者でもあった2人、ドラマーのボビー・アーウィン、サウンド・エンジニア/共同プロデューサー/ツアー・マネージャーのニール・ブロックバンクが、相次いで亡くなった。いずれも癌で、アーウィンが2015年、ブロックバンクがその2年後だった。そのキャリアにおいて成功を収めた第2章において、ロウの構想に欠かせない男たちだった。ロウがスタジオでライブ・レコーディング(オーヴァーダビングとは対照的である)を行うようになった『The Impossible Bird』を手始めに、ブロックバンクは、まるでジャズ・セッションであるかのように演奏者にマイクをセッティングした。長年テキサスで暮らしてきた英国人のアーウィンは、米国のカントリーやソウル・ミュージックに対するロウの愛情を共有しており、ロウ曰く「こうしたカントリーの連中がいかに静かに演奏するか——そんな風に彼らはスウィングする」ということをすぐさま理解した。
彼らの死後、ロウは再びレコードを作ることができるのか分からなかった。ロス・ストレイトジャケッツとの共演によって彼は前を向くことができた。レコード・レーベルの周年コンサートで一緒に演奏した後、彼らはバック・バンドとしてロウとツアーを行い、また、生前のブロックバンクは、全てロウのカバーで固めたインスト・アルバム『Whats So Funny About Peace, Love and Los Straightjackets』でグループと共同作業を行なった。このアイディアはロス・ストレイトジャケッツを魅了した。というのも、彼らのお気に入りのサーフ・バンドの一つ、ザ・ベンチャーズも70年代にジム・クロウチの曲のみで同様のことをやっていたからだ(これが驚くほど素晴らしかった!)。6月に『Tokyo Bay/Crying Inside』EPをリリースした後、ロウとストレイトジャケッツは、来年リリース予定の2枚目のEPができるほどの素材を既に録音しており、3枚目についても早くも話し始めている(編注:両者は2019年に『Love Starvation / Trombone』、2020年に『Lay It on Me』というEP2作を発表)。ジャージー・シティで行なわれた、騒がしくてロック&ロール・レヴューのようなスタイルのライブは、火の出るような盛り上がりを見せた。
不思議なことに、キャリアの、あるいは、まさに人生の局面を思い描こうとしたら、しばしば、あらかじめ地図に記されていたかのように計画通りに事が進んでしまうことがある——20年後、僕はキテいる—-。だが、常に、必然的に、予想もしない場所に降り立つことになる。ロウの場合、音楽に関して言えば、彼は再び大きな音を鳴らすようになった。
ジャージー・シティ公演のアンコールで、ロウは旧友コステロの1977年の名曲「Alison」をカバーした。かつてコステロは、ロウがプロデュースしたこの曲を、スピナーズ「Ghetto Child」とロウが書いたブリンズリー・シュウォーツの曲「Don't Lose Your Grip On Love」を使用した「化学実験の結果」と称している。実験は成功した。この3曲の中でも「Alison」の出来栄えが突出しているからだ。とはいえ、コステロが”この世界は辛いだろ(I know this world is killing you)”と歌うあの有名なコーラスには、ロウのDNAがわずかに感じられるが。「Don't Lose Your Grip on Love」の同じ箇所の歌詞はこうだ「もっと高くもっと高く、ジェット機が大空を飛ぶように……」。
2023年、ニック・ロウとエルヴィス・コステロが「Alison」「(What's So Funny 'Bout) Peace, Love And Understanding?」を共に披露
このくだりは、ロウが語ってくれたヨルダンでの少年期の話を思い起こさせる。彼の父は、折に触れてパイロットにとっての"日曜のドライブ"に家族を連れて行き、ツイン・エンジンの小さなペンブロークで砂漠上空を飛行した。ロウは自分用のヘルメットを持っていて、父は彼をよく副操縦士席に座らせていた。あるフライトでのこと、それは夏の午後で——快晴の日で、雲一つない青空が広がっていた——、父は何も言わずに突如立ち上がり、ロウの母が座っている飛行機の後部へと歩いていった。
ロウは何が起こっているのか分からなかった。自動操縦のことを知らなかったのだ。だが、なぜだかパニックに陥ることもなく、しばらくしたら、コックピットとキャビンを隔てるカーテンを開け、そこに両親が向かい合って座っているのを目にした——この機体はそうした椅子の配置になっていたのだ—-。そしてニックは、ふらふらとそこに戻り、二人に加わった。彼らは窓が開けられるぐらいまで低空飛行した。ロウはその場面をよく覚えている。小さなカーテンが窓の外に出てそよ風にはためいていた。眼下にはベドウィン族のテントが見えた。かれらはちょうど死海を横切ったところだった。
「まるで夢みたいだろ?」ロウが言う。「いわゆる、夢だったんじゃないかと疑うような記憶だよ」。
三人はそこに座り、窓から外の景色を覗いていた。その間、機体は自ら大空を舞っていた。
From Rolling Stone US.
ニック・ロウ来日公演
2023年10月4日(水)ビルボードライブ大阪
開場16:30 開演17:30 / 開場19:30 開演20:30
サービスエリア¥10,000-
カジュアルエリア¥9,500-(1ドリンク付)
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2023年10月6日(金)ビルボードライブ東京
開場16:30 開演17:30 / 開場19:30 開演20:30
サービスエリア¥10,000-
カジュアルエリア¥9,500-(1ドリンク付)
2023年10月7日(土)ビルボードライブ東京
開場15:30 開演16:30 / 開場18:30 開演19:30
サービスエリア¥10,000-
カジュアルエリア¥9,500-(1ドリンク付)
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2023年10月9日(月・祝)ビルボードライブ横浜
開場15:30 開演16:30 / 開場18:30 開演19:30
サービスエリア¥10,000-
カジュアルエリア¥9,500-(1ドリンク付)
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(※US版記事:2018年11月初出)
1990年1月、41回目の誕生日まであと数カ月というところで、ニック・ロウは、インタビューを受けるべくBBCの撮影班をロンドン郊外のテラスハウスに迎え入れた。ロウには宣伝すべきニュー・アルバム『Party of One』があったが、彼には音楽業界での20年ものキャリアがあった。まずはブリンズリー・シュウォーツ。アメリカーナの影響をはっきりと打ち出していたが、英国外では(さらに言えば、英国内でも)インパクトを残すことはできずに終わった。そして、スティッフ・レコーズという支離滅裂なインディー・レーベルのハウス・プロデューサー。そこでロウは、英国初のパンク・シングルとして広く知られるダムド「New Rose」をプロデュースし、また、エルヴィス・コステロとの実りあるコラボレーションを開始。コステロの最初の5枚のアルバムをプロデュースし、傑作を連発している。ロウが書いたナンバー「(Whats So Funny Bout)Peace, Love and Understanding」はコステロの最も印象深い曲の一つとなり、さらには、ロウ自身もパンク/ニュー・ウェイヴの勃興と共にソロ活動をスタートさせており、「Cruel to Be Kind」「So It Goes」「I Love the Sound of Breaking Glass」といった彼の代表曲は今なおこの時代の不動のクラシックであり続けている。
だが、『Party of One』の頃には、ロウの曲がチャートに顔を出さなくなって5年が過ぎていた。彼は数年前に酒を断っていたが、すぐに再び飲み始めており、また、シンガーソングライターにして”ナッシュヴィル王室家”の姫(ジューン・カーター・キャッシュの実娘、すなわちジョニー・キャッシュの継娘)であったカーリーン・カーターとの10年に及ぶ結婚生活も、その正式な破綻が近づいていた。BBCの映像では、ロウは、顔に浮腫みややつれが見られ、40歳より老けて見えた。身に纏った燻んだ色のツィード・ジャケットは、定年が近い全寮制学校の校長から盗んだかのような代物だった。
そのふわふわしたモップ頭には既に白いものが混じり始めていた。
ギターを爪弾きながら、ロウは、恐るべき義父についてや、若い頃にベイ・シティ・ローラーズのことを歌ったノベルティ・ソングを書いた試みといった、笑える自虐的な話をしてくれた。その後、話は年齢のことに及んだ。「40歳になって(この活動を)まだやってるなんて思ってもみなかったよ」彼は認めた。「ありえないね」。彼は煙草を深く吸い込み、突然物思いに耽り、視線を脇に逸らせた。あたかも、秘密の計画を明かすかどうか逡巡しているかのように。そして彼は微笑み、その瞳はいたずらっぽく輝いた。「でも実際は、そう、良くなっているとようやく思えるようになったよ……60歳になったら本当に良くなると思う。実際60歳になったら、とても素敵に見えるはずさ。それが一番大切なことだ。60歳になったら、血気盛んに見えると思う。
さらには、僕の声も素晴らしい響きになっていくと思うよ」。
また新たなギャグが始まったかのように聞こえた。ロウは明らかにつまらなそうな顔をしていた。そして、インタビューでは、彼の作詞アプローチの特徴でもある、英国ならではの冷笑的な皮肉へと大きく傾きながら、もったいぶったかのような口ぶりで自身の作品に関する話を慎重に避けようとした。柄にもない尊大な態度がオチへと繋がるに違いない。
だが、そうではなかった。ロウが目を細めたのは煙のせいだった。彼は冗談を言っているのではなかった。彼は予測を立てていたのだ。「60歳になったら作曲のやり方が分かるようになるんだろう。ようやく上達し始めたところさ」。彼の笑顔は消えており、発言を強調すべく煙草で宙に向かってジャブを打った。
きっと自分に言い聞かせていたに違いない。
今から20年後のことを彼は明言した。「僕はキテいると思うよ。本当にマジでキテいるはずさ」。
「洗練されたシンガーソングライター」への変貌
20年後、ロウは同じ西ロンドンのテラスハウスのドアを開け、新たな訪問者を迎えた。ラフな格好の若いスタッフの予想どおりに、ロウは、今や60を通り越して70に近いが(編注:2023年時点で74歳)、素晴らしい見栄えである。高身長で、スリムで、小綺麗で、白いドレスシャツに裾を折り返した濃紺のジーンズを合わせ、茶色いコーデュロイのジャケットを羽織り、バディ・ホリーのような大きめの黒縁メガネをかけるという装い。今や完全に白くなった髪は、威厳のある解釈を施したオールバックへと流されている。
ロウはブレントフォードに住んでいる。かつてナイロン工場で知られた退屈な街だ。彼の家は、曰く、それほど古くはないとのことだが、彼は英国の基準で言っているのだ(建てられたのは1805年のこと)。近年ロウは、数ブロック先の別のテラスハウスで2人目の夫人ペータ・ワディントンと10代の息子ロイと共に暮らしている。
驚くべき幸運に恵まれ、カーティス・スタイガースによる「(Whats So Funny Bout) Peace, Love and Understanding」のカバーが、ホイットニー・ヒューストンのおかげでおよそ4000万枚を売り上げた1992年公開の映画『ボディガード』サウンドトラックに収録され、ちょうどその活動がより商業的でない方向に向かっていたロウに、思いがけない作詞作曲印税をもたらした。それにより彼の家族は快適な生活を維持することができた。
ロウは以前の住居を仕事場のようなものとして使用している。それは、ぎゅうぎゅう詰めの本棚(カール・マルクス伝記、ボクシング歴史図鑑、ウィリー・ディクソン『I Am the Blues』、ハンス・ファラダの『The Drinkers』といった小説など)、ジョニー・キャッシュのデビュー・アルバム(「ニックへ」というサインが書かれている)、洒落たジンクトップのダイニング・テーブルなど、味わい深くリフォームされた独身生活スタイルで彩られていた。エゴン・シーレを連想させるようなトップレス女性の不気味な絵画があり、その真向かいには、鈴を首に巻いた可愛い小型犬の絵が掲げられている。
『Party of One』以降のロウの音楽が「本当にマジでキテいる」かどうかは、「キテいる」の定義による部分があるだろう。インディ・レーベルに戻っていたロウは、新たなヒット・シングルを放つことはなかったゆえに、商業的な意味では”ノー”だ。だが、1994年の優れた作品『The Impossible Bird』を起点に、彼の技巧はアルバムごとに熟練度を増していった。その音楽は無駄が削ぎ落とされ、しばしばアコースティックで、彼がブリンズリー・シュウォーツで最初に探究したアメリカのルーツ音楽を含んでいた。BBCのインタビューで示された計画に驚くほどに忠実に、彼はポップスター予備軍から、控えめながらもより洗練された作風のシンガーソングライターへと滑らかに変貌したのだ。彼が新たに作った曲には、賛美歌のようなバラード(「Shelley My Love」)、ランディ・ニューマン風の辛辣な人物描写(コーラス部分に”これで遠慮なく彼女の心を傷つけることができる”という卑劣などんでん返しがある「I Trainde Her to Love Me」)、吟遊詩人のフォーク(「Indian Queens」)、そしてブレントフォード経由のメンフィス・ソウル(「High on a Hilltop」)などがあり、彼はそれらをあたかも既にスタンダードになっているかのようにクルーン唱法で歌い、聴き手に簡単にはそのルーツを特定をできないようにしている。
2021年の弾き語りライブ、2001年作『The Convincer』収録曲「Lately I've Let Things Slide」を披露
私がロウの家にほんの数分ほど滞在したところで、突然彼が言う。
「犬の散歩に行かなきゃいけないんだ。君も来るかい?」。我々はフォルクスワーゲン・ゴルフに乗り込み、彼のグレーと白のホイッペット犬ラリーが後部座席で丸くなると、近隣のガナーズベリー・パークへと車を走らせる。かつてロスチャイルド家の私有地だった場所だ。どんよりした曇り空で、ロウは傘を携帯しており、彼の首に犬の首輪が会議出席者の名札のように吊り下げられているのを除いては、かなり英国紳士に見える。彼は、目の前でラリーが一面をタンポポに覆われた芝生の上で飛び跳ねるのを眺めると、やがて素っ気ない口調で述べる。「ホイッペット犬の良いところは一つか二つある。まずは情が深い。でも愛情に飢えているわけではない。そして、とても速い——ご覧のとおり、ネズミ捕りなんだ——そして、首輪を外すと駆け回ることができる。だから、一日一回散歩に連れて行けばいいだけなんだ」。
池に沿った道を進みながら、ロウはフォリーを指し示す。
公園が私有地であった時代に建てられた模擬天守のことだ。そして、キャリアにおいて第2章と彼が呼ぶものへと転換していったことを話し出す。だが、すぐさま「キャリア」という言葉に対してクスクスと笑い出す。ロウは、いい形で進化を遂げた年長アーティストたちのことが念頭にあった。ボブ・ディランやポール・サイモンといった人たちのことだ。彼はそうしことをやりたいと思っていた。「60代へと押し進めてくれて、その後もずっとできる」ような活動を見つけ出したいと。「僕はお金持ちにはならないだろうけど、良いレコードを作ることはできるだろう。独自の道を歩みたいんだ」と。はっきりしている唯一のことは、懐メロ・ツアーで終わりたくないということだった。70年代のやんちゃな自分の”少し頭の薄くなったバージョン”を演じ、その一方で聴衆が「あぁ、なんとバカげたことか!」とクスクス笑うような……。ロウは大好きなルーツ・ミュージックのことを考え始めた。「でも、彼らの世界で演奏することにも興味はなかったよ」彼は言う。「真面目さは敵なんだ」。
1977年のニック・ロウ。70年代半ば、スティッフ・レコーズと契約すると、彼は英国パンク・シーンの重要人物となった(Photo by DICKSON/REX SHUTTERSTOCK)
ロウの最新リリースは、不真面目であることの重要性を示すケーススタディである。それは4曲入りEPで、彼にとって5年ぶりの新曲となる—-つまりは大事件である。だが、近年のロウのバックを務めるグループは、ロス・ストレイトジャケッツというサーフ・ギター・バンドで、メンバー全員が演奏時にルチャリブレの覆面を被っている。ロウとストレイトジャケッツは、マネージャー(高名な音楽ジャーナリスト、ピーター・グラルニックの息子であるジェイク・グラルニック)とレコード・レーベル(ノース・カロライナを拠点とするインディ・レーベルYep Roc)が同じであったゆえに、第一印象ほどのおかしな組み合わせではない。だが、それでもかなりおかしい。ところで、ロウがツアーをする際、ステージ上では彼がメキシカン・プロレスのマスクを被っていない唯一の人物となり、それは、生涯に亘る積極果敢な真面目さの拒絶を知らしめる方法の一つであることは間違いなく、そのことにより、ニュージャージー州ジャージーシティのホワイト・イーグル・ホールで私の観たショウが、『ツイン・ピークス』のロードハウス・バーにいるかのような錯覚をしばしば起こさせたのだった。
「それがニックという男のカッコいいところなんだ。こうしたことも厭わないというところがね」。ロス・ストレイトジャケッツのギタリストの一翼を担い、グループの実質的なリーダーでもあるエディ・エンジェルが言う。「僕らは何も失うものはなかった。でも彼は違った。彼には名声があったんだ!」
2019年のライブ映像、ロス・ストレイトジャケッツと共演
両親のこと、ブリンズリー・シュウォーツという原点
翌日の午後、ロウが再びドライブを提案した。今回の目的地は、彼にとって個人的に意味のある場所というべきイギリス空軍博物館。それは、かつての飛行場にあった格納庫を再利用したものだった。ロウの父親ジェフリー・ドレイン・ロウは、第2次世界大戦中パイロットとしてドイツ爆撃を遂行し、イギリス空軍中佐にまで昇格した。彼はまた、現在博物館が設置されている飛行場ヘンドンで行われた航空ショーに出演したことがあった。年配女性に変装した彼は、しばしば観衆の中から飛び出てきて飛行機に飛び乗り、アクロバット飛行を始めるのだった。「かなりの酒を食らっていたそうだよ、後に父親が語ってくれたところによれば」ロウは言う。
ロウは、カッコいい親父の出立ちを具現化するのと同じように、別の親父モードにも容易く変身できる—-間抜けでわざとイラつかせる親父、例えば、大袈裟なアクセントや手振りで話を盛るような。あるいは、ここイギリス航空博物館でならば、第2次世界大戦マニアでヒストリー・チャンネル好きの親父がちょっとした講義をしたくてうずうずしているような。我々はチャスタイズ作戦と呼ばれる攻撃が行われた日に偶然訪れていた。それは、軍事作戦としては極めて英国的な名称であることに加え、ドイツのダムを破壊してルール渓谷を氾濫させることができる特殊な反跳爆弾が使用された作戦だった。ロウは、折り畳み椅子に座ってその話題に関するトークを聞く高齢者団体の前でしばし立ち止まると、やがてこの作戦に関する彼独自の詳細な説明を私の耳元で囁き始めた。
新たな曲を書こうとする際、しばしばロウはこの博物館を訪れ、ぶらぶらと歩き回り、格調高いいにしえの戦闘機を眺めるのだった。「親父はこれらに乗って勢いよく飛び立ったんだ」ロウはそう言って、輝くプロペラを有するホーカーハート爆撃機の前で立ち止まる。今なお男子学生のように感嘆しているかのようだ。「誇るべきことは何もないよ。彼からは何も聞き出すことができなかったんだ」。校外学習に来ていた本物の学童の一団がロウの前を通り過ぎる。彼に気づくことなく。
ロウの母パトリシアはショウビジネス一家の生まれで、家族はウェストエンド版ヴォードヴィルともいうべき英国大衆演芸場の演者だった。皿回しや曲芸犬といったものの世界だ。彼女の母親はダンサー、父親はピアノの神童で、(冗談抜きに)「the Dudevenile(ぞっとするような奴)」という名で知られていた。「まさに身の毛もよだつヴィクトリア様式さ」ロウは言う。「家族は彼をサーキットに帯同し、母は彼に常に半ズボンを履かせていた。大人になってもね。まるでAC/DCの奴みたいに! それが原因で彼は酒に溺れるようになったんだ」。
パトリシアは歌手(ローズマリー・クルーニーのようなスタイル)だったが、彼女のキャリアは戦争に妨げられた。婦人補助空軍に勤務していた際、飛行機の車輪で用を足すパイロットに対して忠告する上層部からの通達が、パトリシアを刺激してこの件について歌ったコミック・ソングを書かせることとなり、それが彼女をロウの父親と引き合わせた。「この曲は物議を醸し、彼女は呼び出され、当時飛行中隊隊長だった親父から厳しい叱責を受けた」ロウが言う。「でも、彼はその曲をとても面白いと思っていたんだ」。
ロウはヨルダンやキプロスの軍事基地で育った(彼は、ヨルダンのアンマンで若き日のフセイン国王とミニカーで遊んだことを記憶している。彼はロウの父親を気に入り、最新のスポーツカーに乗ってしばしば彼らの家を訪れていた)。子供の頃ロウはウクレレを持っていて、母は彼にいくつかのコードを教え、彼女のレコード・コレクションへと関心を向けさせた。フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、ペギー・リー、そしてロウのお気に入りの、信じられないほど魅惑的なテネシー・アーニー・フォード。彼はフォードの「Fatback Louisiana, U.S.A.」を独学で音声から覚えた。「まるでフランス語か何かのように聞こえたんだ。何が歌われているか分からなかったよ。歌詞は”あらゆる家がリッツというわけじゃないけど、お腹が空いた時は便利だ、だって食べ物でできているからね”といった感じだった。僕は思った、おぉ!”薬の代わりに黒目豆を摂る”だと。胸がむかむかするような響きの食べ物の歌なんだ」。
ロウは、英国中産階級によく見られる傾向の一つであるが、生来的な自己消失と多大な自信とを、そのいずれの人格的特徴も優位になることがないままで、融合させる才能を有している。彼は生粋の話し上手だが、彼自身もそれを自覚しており、それが彼に紆余曲折があり脱線もする25分の逸話をためらうことなく始めさせ、それは必ず華々しい形で実を結ぶのだ。そして同時に、それらの物語のほとんどが意図的にロウを貶め、彼をジョークのネタにすることとなる。
彼のミュージシャンとしての原点の物語をしよう。 それは、ロウがイングランドはサフォークの寄宿学校に送り込まれるところから始まるのだが、そこで彼は、1963年にクラスメートのブリンズリー・シュウォーツとバンドを結成している。ロウがベース担当を買って出ると、木工クラスの友人が彼に一本作ってあげたが、それはペンチでチューニングしなければならない代物だった。バンドは長く続かなかった。卒業時のロウには戦争特派員になるという夢があった。父と話しに基地へとやってくる、壮絶な人生を送る男たちに影響を受けたのだ。だが、地方新聞での刺激的ではない新人の仕事に就くと、彼はそれを続けられないと気づいた—-映画『ラブ・バッグ』のレビューを書くべく派遣されたロウは、上映中に酒を飲んで酔い潰れてしまった——そして代わりに、その時点でキッピントン・ロッジという新たな60年代ポップ・バンドでレコード契約を得ていたシュウォーツに、再び連絡を取った。ロウはバンドに加入し、スタジオで彼らのバックを務めていたスタジオ・ミュージシャンを排除するよう主張した。「僕は言ったんだ。『これで行くべきだ、みんな! 自分たちのレコードでは自分たちで演奏しなきゃいけないんだ。俺たちは一体どんなバンドなんだ?』」。その結果、彼らはセッション・ミュージシャンがいなければ酷い音しか出せないバンドだと判明し、すぐさまレーベルから切られた。
グループは粘り強く活動を続け、ついにはロンドンの話題のクラブで1週間に亘ってイエスの前座を務めるまでとなり、サウンド的にも、ザ・バンドやクロスビー・スティルス&ナッシュといったアメリカの影響源へと向かって変化していき、バンド名もブリンズリー・シュウォーツに改めた。ロウはベースを弾き、リード・ボーカリストになり、曲も作り始めた—-その中には「(Whats So Funny Bout) Peace, Love and Understanding」もあった。ブリンズリーズの1970年のデビューを後押しする英国での大々的な宣伝キャンペーン—-そこには、飛行機1台分の英国ジャーナリストをニューヨークへと飛ばし、バンドがヴァン・モリソンやクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスの前座として出演して悲惨な結果に終わった、フィルモア・イーストでのショウへと送り込むことも含まれていた——は、完全に裏目に出てしまい、バンドもそれが国民全体の笑いものとなったことを知った(メロディ・メイカー紙によると「史上最大のハッタリ」)。バンドは、パブロックという名で知られることとなったものの勃興によって、二度目のチャンスを手にした。それは、ドクター・フィールグッド、イアン・デュリー&ザ・ブロックヘッズ、The 101ers(ジョー・ストラマーの最初のグループ)といったバンドが作った短期ながら影響力があったロンドンのシーンであり、肥大し大仰となったプログレッシヴ・ロック時代に対する、歓迎すべき初心に帰る動きを示していた。「まさにパンク・ロックの前触れとなるものだった」ロウは言う。「そこには、他のことには目もくれない変わった奴らがたくさんいたんだ」。
1971年前後のこと、数年に亘るLSD過剰摂取の後、ロウはノイローゼのようなものに苛まれていた。パブロックの歴史本『No Sleep Till Canvey Island』でジャーナリストのウィル・バーチに語っているように。「僕は9カ月もの間、文字通り翻弄されていたんだ……。頭一面にシラミが湧いて、淋病にもかかった。僕はおぞましいヒッピー患者だったよ」。ロウは身なりを整え、髪を切り、LSDからアルコールへと切り替え(70年代初頭、それは解毒法と見なされていた)、勢いを盛り返していたブリンズリー・シュウォーツはパブで演奏するようになっていた。その優れたセンスによって、彼らはすぐさまシーンの寵児となった。彼らは、自作曲にNo.1ヒットのカバーを織り混ぜながら毎週新曲を披露した。リヴァプールの少年デクラン・マクマナス(後のエルヴィス・コステロ)がファンになり、ショウの後にロウのところに恐る恐る自己紹介に来た。「酷い模倣者たちがたくさんいたよ」ロウが白状する。「僕自身もこの表現を使っていた。ドン・ダ・ドン・ダ・ドン・ダ・ドンって鳴らす結構いいブルースなんかに『あぁ、あれはちょっとパブロックだね』って。パブロックと名付けるのは今では侮辱となりうる。でも、そもそもはとても楽しいものだったんだ」。
ニック・ロウとエルヴィス・コステロ、1986年撮影(Photo by ESTATE OF KEITH MORRIS/REDFERNS/GETTY IMAGES)
その活動期間に5枚のアルバムをリリースしてもなお、ブリンズリー・シュウォーツはメインストリームへと足を踏み入れることはできず、1975年にバンドは解散した。 ソロとなり縛られるものがなくなったロウは、ベイ・シティ・ローラーズのことを歌ったノヴェルティ・ソングを作り(日本でヒット!)、ドクター・フィールグッドのローディーとして全米をツアー。サンフランシスコでは、”&ザ・ニュース”が付く以前のヒューイ・ルイスと出会った。当時彼はクローヴァーというバンドのシンガーの一人で、そのレコードがどういうわけだかパブ・ロッカーたちの手に渡っていたのだ。ロウを通じて、クローヴァーの何人かのメンバーはコステロのデビュー・アルバム『My Aim Is True』にバック・バンドとして参加している。
「そんなシーンがあることさえ知らなかったよ」ルイスが筆者に語る。「ニックが僕らのファンだと挨拶してきたから、彼に飛び入りするよう誘ったんだ。あの当時は一晩に4公演やっていたから、出られる奴がいれば誰でも出していた。ニックが言ったんだ。『「Wine and Cigarettes」をやるのはどう?』って。これは、僕らもライブでやったことのない知られざる曲だった。ニックは完璧に演奏したよ。最終的には、彼とバンド全員をボリナスの母親の家に連れて行くまでになったんだ」。
UKパンクを支えたプロデューサー/ソングライター
フォルクスワーゲンに戻り、ロウが携帯電話をチェックすると—-”ニコラスの電話”という言葉が車にあったBluetoothのスクリーンに現れる—-こう言う。「ピートに電話を掛けてもいいかな。状況をチェックしたいんだ。さて、彼女がこれをどう料理するか」。彼が言ったのは妻ペータ・ワディントンのこと。彼らは筆者をディナーに招待してくれていて、彼女はロウに買ってきてもらいたい品物のちょっとしたリストを作っていたのだ。
二人が出会ったのは2000年、サム・フィリップスのドキュメンタリーの上映会でのことだった。ワディントンは当時グラフィック・デザイナーで、「古い音楽が大好きだから、僕は彼女に適しているかもしれないね」とロウが言う。彼女はすぐさま「自分なら僕のレコード・ジャケットをもっと素晴らしくできたという生意気な発言」によって彼を否定し(辛辣だが真っ当だった)、二人はやがてデートをするようになった。ロイが2005年に生まれ、ロウは熟年の育児に完全に没頭していたようだった。当初は自分のメルセデスをステーションワゴンに交換しなければならないという屈辱に不満を漏らしていたのだが(ロウは前回の結婚で生まれたカーリーン・カーターとの娘ティファニーの養育にも手を貸していた。ちなみに彼女は父親の姓を名乗っている)。
帰宅すると、ロウはディナーの準備にとりかかる。ツナとケイパーとフレッシュ・トマトのパスタだ。彼の料理の腕前は素晴らしいが、沸騰したお湯の入った小さすぎるポットに、まるでそれらが焚き付けの束であるかのように、心ここにあらずといった様子でスパゲティを一人分ずつ入れ始めた時は、少し怪しい感じがした。ワディントンは魅力的なピクシーカットの髪に、生気に充ちた隙のない目をしていた。後に彼女は、デザインの仕事を辞めてルイジアナ州ユーニスの田舎に移住した突拍子もない話を聞かせてくれた—-スワンプ・ポップに長年魅了されていた彼女は、飛び込みで地元ラジオ局を訪れ、そこの困惑したマネージャーが最終的にはショックから立ち直り、彼女をディスク・ジョッキーとして雇った。彼女曰くこの行動が腰の重いロウの興味をそそり、ほどなく二人の真剣交際が始まったという。
さて、キッキンカウンターの椅子に腰掛けながら、少し心配そうな面持ちでロウを眺めていた彼女が言う。「ニック、ちゃんと見てる?」
私の方を振り返ったワディントンは、ちょうど2日後に行われるロイヤル・ウェディングを観るかどうか僕に尋ねてくる。「ニックはそんなにワクワクしていないのよ」彼女がニヤリとしながら言う。「彼にとってはあまりに非伝統的なのよ。」
ロウが肩をすくめる。彼は最近『ザ・クラウン』のシーズン1を遅ればせながら楽しんでいる。ワディントンが彼にNetflixでチェックするよう説き伏せたものだ。
将来有望なドラマー、ロイは階下でうろうろしている。彼はボサボサの赤髪で、13歳にしては驚くほど礼儀正しくて話し上手だった。英国の音楽誌『Uncut』がカウンターの上に置かれていた。ロイはそれを手にして言った。「ほら見て、ジョン・ライドンだ」。 表紙は初期パブリック・イメージ・リミテッドの古い写真だった。ロウはざっと目を通し、意地悪く眉をひそめて言う。「今の彼は全然違うよ」。彼はパスタに戻り、フォークでかき混ぜる。「僕はジョンとはずっと関わらないようにしてきた。僕からするとあまりに短気だった。最終的にどう落ち着くのか分からないんだ。ピストルズの他のメンバーはみんないい奴だったよ」。
ロイが訊ねる「彼はまだ生きてるの?」
70年代半ば、ロウは突然自分がUKパンク・シーン勃興の場にいることに気づいた。パブロック小ブームの時からのマネージャー・コンビ、ジェイク・リヴィエラとデイヴ・ロビンソンが自身のレーベルを始めようとした時のことだった。パンクの草分けとなるスティッフ・レコーズである。当時27歳のロウは、その場にいるには歳を取りすぎていると既に感じていた。「ダムドの連中は僕のことを”おじさん(uncle)”あるいは”おやじ(dad)”と呼んでいたんだ」彼は言う。ロビンソンがマネージメントをしていた、南東イングランド出身の当時は無名シンガーソングライターであったグレアム・パーカーが回想する。「デイヴの夢は、レーベルを始め、逮捕されないような奴らだけと契約することだった。ニック・ロウとかね。俺は思ったよ、『そんなの時間の無駄だ』って。ニックのソングライティングについて知っていることは、彼が『We Love You Bay City Rollers』という曲を書いたことぐらいだった。その後ブリンズリー・シュウォーツを聴いたけど、それは椅子に腰掛けたボブ・ディランみたいなサウンドだった。そして、ニックが注目すべきソングライターになるとは全く思えなかったんだ」。
パーカーが懐疑的であったにもかかわらず、スティッフはコステロやマッドネス、ザ・ポーグス、そしてダムドのキャリアをスタートさせるのだった(ロウはパーカーの2枚の傑作アルバムもプロデュースすることとなる)。「音楽紙でスティッフ・レコーズに関する記事を読んでみたら、ニックがこのレーベルの全てだった——彼らの第一の、そして唯一のアーティストであり、彼らが前面に打ち出すハウス・プロデューサーであり、ついには僕のプロデューサーにもなったんだ」。コステロがEメールで言及している。このレーベルの最初のシングルは、ロウによる「So It Goes」。言葉を尽くした感染性のあるこのスティーリー・ダンもどきは、1978年にリリースされた彼のデビュー・フルアルバム『Jesus of Cool』に収録されることとなる(この自嘲的なタイトルは、アメリカの聴衆にはあまりにエッジが効き過ぎていると判断され、米国では代わりに『Pure Pop for New People』というタイトルが採用された)。
ロウはまた、ウェールズ出身のシンガー/ギタリスト、デイヴ・エドモンズと共にパワーポップ・バンド、ロックパイルを結成。そして1979年、この2人は各々同時に素晴らしいソロ・アルバム、ロウは『Labour of Lust』を、エドモンズは『Repeat When Necessary』をリリースしたが、それらは実質的にロックパイルのアルバムであり、『Speakerboxx / The Love Below』(訳註:米国ヒップホップ・デュオ、アウトキャストの2003年作。各々のソロ作をまとめて2枚組としてリリースされた)の戦略を25年も先取りしていた。『Labour of Lust』には、ロウの米国での最大のヒット曲である、辛辣ながらも甘美なポップソング「Cruel to Be Kind」が収録されている。そのMVには、カーターとの結婚式の映像が使用されており、エドモンズがリムジン運転手役を演じている。
自身のための作曲に勤しむのみならず、ロウは需要の高いプロデューサーになっており、スタジオでの急場しのぎのアプローチから”Basher(とにかくやらせる人)”というニックネームを得ていた。「ニックのプロデュース・スタイル(これが正しい表現かどうか分からないけど、僕には比較のしようがないので)は瞬間瞬間の大きな熱狂を曝け出すというもので、我々が何を演奏しようとそれが絶対的な”正解”であるという確信に満ちているように思えたよ」コステロが記している。さらには、プロデューサーである以上に、ロウは「常にソングライターであり、僕も多くのヒントを得てきた——彼の曲『When I Write the Book』と僕の『Everyday I Write the Book』みたいにね」。
ジョニー・キャッシュとの交流、後悔だらけの日々
ロウがカーターと出会ったのは、1978年のロンドンでのレコーディング・セッションでのことだった。彼女のデビューにあたり、エドモンズがプロデューサーとして招かれ、ロウはスタジオに顔を出してベースを弾いた。そしてその数日後、彼はカーターをデートに誘った。「私は『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演する彼を観に行ったのよ」彼女が回想する。「彼は、クエスチョンマークが一面に付いたリドラーのスーツを着て『I Love the Sound of Breaking Glass』を歌ったわ。私たちは気が合った。最初のデートで二人で曲を書いたのよ! まだキスもしていなかったのに」(皮肉にも、それは破局の歌「Too Many Teardrops」で、ロウの1982年のアルバム『Nick the Knife』に収録されている)。
ロウのようなカントリー・ミュージックの熱狂的信者にとって、未来の義理の両親と会うことは現実離れした体験であることが分かった。当時、ロウが言うには、彼は「とても英国的で、『スパイナル・タップ』のような奴」に見えたとのこと。長い髪、古着のシャツ、タイトなジーンズ。カーターの父にして1950年代のカントリー・ミュージックのスター、カール・スミスは「僕のことを疑いの目で見ていたよ」ロウが認める。「まるで村一番の愚か者が訪ねてきたみたいに」。最終的にスミスはロウを気に入り、エルヴィス・プレスリーにベビーカーであちこち連れ回されるカーリーンの映像を見せるまでとなった。
二人で初めてテネシー州ヘンダーソンヴィルのキャッシュ家を訪れた際、ジューン・カーター・キャッシュがロウをアンティークでいっぱいのベッドルームに案内してくれた。「まるでヴェルサイユ宮殿から持ってきたかのようだった。そして、巨大なベッドがあり、そこにシルクのパジャマを着たジョン(ジョニー・キャッシュ)が横たわっていて、客人たちを迎えていたんだ。僕は思った。『こんなにイカしていることがあるだろうか』。」ロウはついに畏怖を克服した。「ジョンは僕にとても良くしてくれた。フレンドリーで、優しくて」彼は言う。二人は夜更かしして、酔っ払いながらキャッシュがロウに薦める古いレコードを聴いた。マヘリア・ジャクソン、シスター・ロゼッタ・サープ、ジョニー・ホートン。後にキャッシュ家がシェパーズ・ブッシュのロウとカーリーンの家に滞在するのだが、そこでは、朝ジューンが部屋着のガウンとダイヤの指輪と宝石をあしらったターバンという装いで小さなキッチンまで降りてくるのだった。この時期キャッシュは、ロウの『Labour of Lust』からの曲「Without Love」のカバーを録音しており、まるでサン・スタジオのアウトテイクのようなサウンドを鳴らしていた。
ブリンズリー・シュウォーツ時代に不幸ながらもレコード業界の誇大宣伝と早々に出会った後、ロウは、パンク隆盛時には役立ったものの、音楽ビジネスに対してシニシズムを募らせていた。アーティストとして、プロデューサーとして「両陣営に足を突っ込みながら」活動しながら、彼はさらに距離を置くようになった。「レーベルの人間がアーティストについてボロクソに言っているのを耳にしたし、時折僕もそこに加わっていた。同時に、それによって自分がああいったポップの土俵にいる時間が終わるのを客観的に捉えることができたんだ。とにかく僕はかなりシニカルだったよ。決して受け入れることはなかったね」。
前妻カーリーン・カーターとニック・ロウ。カーターはジューン・カーター・キャッシュの娘であり、ジョニー・キャッシュの継娘(COURTESY OF NICK LOWE)
ロックパイルは1981年に解散した。その頃には、ロウの評価はポップの神童から酔っ払いの落ちこぼれへと変わり始めていた。コステロ、ロウ、イアン・デューリー、レックレス・エリックを擁した初期スティッフの英国パッケージ・ツアーでは——最後の2人はそれぞれ「Sex & Drug & Rock & Roll」「Whole Wide World」という話題のシングルをリリースしており、後者はロウのプロデュースだった——、各アーティストが順番にヘッドライナーになるよう毎晩出演順を変える計画だったが、ロウは、ライブ後に飲む時間をたっぷりと確保すべく、すぐさまトップバッターを定位置にした。1979年制作のロックパイル密着ドキュメンタリー『Born Fighters』を締め括る最後の数分で、エドモンズは、酔っ払ってろれつの回らないロウにある種の干渉を試み、毅然とした優しさをもってこの友人に懇願する。「そろそろひと休みしよう、友よ」
「僕は『後悔も少しはあった、言うほどではないが(Regrets, Ive had a few)』(訳註:フランク・シナトラ『My Way』の歌詞)みたいなことを言う奴じゃないよ」現在のロウが言う。「僕は後悔だらけなんだ」。その後、彼はその真意を詳しく述べている。「そうさ、僕は後悔すべきじゃないんだ。ずっと幸運だったよ。素晴らしい人たちと出会った。僕のヒーローたちであり、演奏する姿を見ることなどないと思っていた人たち。ましてや、会ったり、仕事をしたりなんて。中には親友になった人もいた。だから、信じられないぐらい幸運なんだ。だけど、本当に多くのチャンスがあったんだ……」。話が本筋から外れる。「あんなに怠惰じゃなければよかったよ。音楽そのものをもう少し学べただろうからね——音楽理論をもう少し知っていれば、自分が本当にやりたいものにより近づくことができただろう。ドラッグの摂取に費やした無駄な時間とお金のことを後悔している。しかし——」そして、彼は自身の鑑定に横槍を入れたいという衝動に含み笑いをする。「そう、それによってかなり興味深い状況に身を置くこともできた。さて……これからどうする?」
飛行機から見た夢の景色
ロウとカーターの婚姻が解消されてから数年後、キャッシュはまた一つロウの楽曲「The Beast in Me」を印象深くカバーし、それは彼の復活作『American Recordings』の中でも傑出した出来栄えとなった。ロウがWTFポッドキャストに出演した際、マーク・マロンは、あの歌詞が口には出せない心の闇を下地にしたものではないことに驚いている。だがロウは、後悔はさておき、脆弱な鉄格子の檻に閉じ込められた内なる悪魔と格闘したような感覚を抱いたことはない。実際彼は、義父の一人がシェパーズ・ブッシュを訪れる前に夜を徹してこの曲を書き、意図的にキャッシュの声を降臨させようと試みた。1990年のBBCのインタビューでは、翌朝キャッシュの前でこの曲をしわがれ声で歌った笑い話をしている。甲高い声を震わせながら、二日酔いで、恐れ慄きながら。「前夜、僕はジョニー・キャッシュだった……だけど、階下に降りてこの曲を歌った時は……こんなに弱々しい歌は聴いたことがなかったよ」。
ロウの自己消失の赤裸々な表明は、ブリル・ビルディング期のプロフェッショナリズムをもってアプローチした彼のソングライティングに、はっきりと見て取れる。「僕はいつも他人のために書いているんだ」。彼はそう言い、その後つけ加える「僕が崖っぷちにいて眼下を見ていた、とマークに思われたことはとても嬉しいよ。そして、不安な感情がどういうものかも分かっている、本当さ。だけど、僕は自分のことを歌う曲は作らないようにしているんだ」。
そうした理由もあって、ロウのレパートリーには時代を超えるクオリティがある。絶好調時の彼の曲は、その作者を匿名にさえするほどの熟練職人の域にまで達する。ロウがパーティばかりに興じていて、作品の出来にも波があった80年代に絞り込んだとしても、隠れた名曲のプレイリストが作れるし(「Ragin Eyes」「My Heart Hurts」「Raining Raining」「Crying in My Sleep」など)、それは蔵出しされた幻のクレイテスト・ヒッツ・アルバムのように響くことだろう。そして『The Impossible Bird』以降、かつての”Basher”が静謐を新たな轟音と捉えた時、音楽のより親密で寛いだ感覚が、ロウの歌声を、そして楽曲のウィットや構造的な複雑さをステージの前面へと押し出すのだ。目を閉じればすぐさまそのレコードが、シナトラ、サム・クック、ジョージ・ジョーンズ、ソロモン・バークなど、思春期に崇めた今は亡き神たちの精巧に作られたデモのごとく聴こえてくるだろう。
ブレントフォードでの最終日、我々は運河に沿って散歩した。上半身剥き出しの男がボートハウスのデッキで寝ている。彼の隣りでは、パイナップルから大きなナイフが突き出ている。ロウは、今週初めに逝去した女優マーゴット・キダーの話を持ち出す。彼らが付き合っていたのを知っていたかって? いや、知らなかった。彼女とはカーターとの破局後にロンドンで出会ったそうだ。かつて、ロサンゼルスで彼女の愛犬を連れてハイキングに出掛けた際、キダーは友人のルーディに会いに行こうと提案した。私有地の芝生にできた路を通ってきた二人は、犬と共に芝の上で日光浴をする男と出くわす。”ルーディ”は、ロウ曰く「ルドルフ・”忌々しい”・ヌレイエフ」だということが判明した。犬たちが遊び出す。キダーの愛犬ハリーは「前足が一本不自由だったから、常に何かをせがんでいるように見えた。そして年老いたヌレイエフの犬は酷い事故で後ろ足を負傷したダックスフントだったから、足を後ろに引きずっていて、まるで水生動物のアシカのようだった」。「アァ、カレラが一緒にいるのを見てごらん、なんてカヴァイイ!」とヌレイエフが言ったんだ、とロウがロシア訛りで語る。ロウは首を左右に振る。「人生であんなグロテスクなものを見たのは初めてだよ!」
ロウはキダーとは何年も話していなかった。彼女が公の場で神経衰弱を起こした後、90年代半ばにコンタクトを取ったが、返信はなかった。彼は今も酒を嗜んでいる—-ブレントンのパブを何軒も訪れた——が、かつてのようでなく、また、ロイが生まれた頃に喫煙も止めている。彼は近所のハウス・パーティで数曲歌っていたら、突然咳き込んだ。「止まらなくなったんだ」彼は言う。「最初は笑っていた。そして笑い事じゃなくなったんだ」。
ニック・ロウは80年代に西ロンドンのブレントフォードへと移住。その理由の一つはパブがたくさんあったからだ。「あの頃は熱心なパブ愛好者だったよ」と彼は言う。(Photo by JULIAN BROAD FOR ROLLING STONE)
その後、ロウの親友であり共同制作者でもあった2人、ドラマーのボビー・アーウィン、サウンド・エンジニア/共同プロデューサー/ツアー・マネージャーのニール・ブロックバンクが、相次いで亡くなった。いずれも癌で、アーウィンが2015年、ブロックバンクがその2年後だった。そのキャリアにおいて成功を収めた第2章において、ロウの構想に欠かせない男たちだった。ロウがスタジオでライブ・レコーディング(オーヴァーダビングとは対照的である)を行うようになった『The Impossible Bird』を手始めに、ブロックバンクは、まるでジャズ・セッションであるかのように演奏者にマイクをセッティングした。長年テキサスで暮らしてきた英国人のアーウィンは、米国のカントリーやソウル・ミュージックに対するロウの愛情を共有しており、ロウ曰く「こうしたカントリーの連中がいかに静かに演奏するか——そんな風に彼らはスウィングする」ということをすぐさま理解した。
彼らの死後、ロウは再びレコードを作ることができるのか分からなかった。ロス・ストレイトジャケッツとの共演によって彼は前を向くことができた。レコード・レーベルの周年コンサートで一緒に演奏した後、彼らはバック・バンドとしてロウとツアーを行い、また、生前のブロックバンクは、全てロウのカバーで固めたインスト・アルバム『Whats So Funny About Peace, Love and Los Straightjackets』でグループと共同作業を行なった。このアイディアはロス・ストレイトジャケッツを魅了した。というのも、彼らのお気に入りのサーフ・バンドの一つ、ザ・ベンチャーズも70年代にジム・クロウチの曲のみで同様のことをやっていたからだ(これが驚くほど素晴らしかった!)。6月に『Tokyo Bay/Crying Inside』EPをリリースした後、ロウとストレイトジャケッツは、来年リリース予定の2枚目のEPができるほどの素材を既に録音しており、3枚目についても早くも話し始めている(編注:両者は2019年に『Love Starvation / Trombone』、2020年に『Lay It on Me』というEP2作を発表)。ジャージー・シティで行なわれた、騒がしくてロック&ロール・レヴューのようなスタイルのライブは、火の出るような盛り上がりを見せた。
不思議なことに、キャリアの、あるいは、まさに人生の局面を思い描こうとしたら、しばしば、あらかじめ地図に記されていたかのように計画通りに事が進んでしまうことがある——20年後、僕はキテいる—-。だが、常に、必然的に、予想もしない場所に降り立つことになる。ロウの場合、音楽に関して言えば、彼は再び大きな音を鳴らすようになった。
ジャージー・シティ公演のアンコールで、ロウは旧友コステロの1977年の名曲「Alison」をカバーした。かつてコステロは、ロウがプロデュースしたこの曲を、スピナーズ「Ghetto Child」とロウが書いたブリンズリー・シュウォーツの曲「Don't Lose Your Grip On Love」を使用した「化学実験の結果」と称している。実験は成功した。この3曲の中でも「Alison」の出来栄えが突出しているからだ。とはいえ、コステロが”この世界は辛いだろ(I know this world is killing you)”と歌うあの有名なコーラスには、ロウのDNAがわずかに感じられるが。「Don't Lose Your Grip on Love」の同じ箇所の歌詞はこうだ「もっと高くもっと高く、ジェット機が大空を飛ぶように……」。
2023年、ニック・ロウとエルヴィス・コステロが「Alison」「(What's So Funny 'Bout) Peace, Love And Understanding?」を共に披露
このくだりは、ロウが語ってくれたヨルダンでの少年期の話を思い起こさせる。彼の父は、折に触れてパイロットにとっての"日曜のドライブ"に家族を連れて行き、ツイン・エンジンの小さなペンブロークで砂漠上空を飛行した。ロウは自分用のヘルメットを持っていて、父は彼をよく副操縦士席に座らせていた。あるフライトでのこと、それは夏の午後で——快晴の日で、雲一つない青空が広がっていた——、父は何も言わずに突如立ち上がり、ロウの母が座っている飛行機の後部へと歩いていった。
ロウは何が起こっているのか分からなかった。自動操縦のことを知らなかったのだ。だが、なぜだかパニックに陥ることもなく、しばらくしたら、コックピットとキャビンを隔てるカーテンを開け、そこに両親が向かい合って座っているのを目にした——この機体はそうした椅子の配置になっていたのだ—-。そしてニックは、ふらふらとそこに戻り、二人に加わった。彼らは窓が開けられるぐらいまで低空飛行した。ロウはその場面をよく覚えている。小さなカーテンが窓の外に出てそよ風にはためいていた。眼下にはベドウィン族のテントが見えた。かれらはちょうど死海を横切ったところだった。
「まるで夢みたいだろ?」ロウが言う。「いわゆる、夢だったんじゃないかと疑うような記憶だよ」。
三人はそこに座り、窓から外の景色を覗いていた。その間、機体は自ら大空を舞っていた。
From Rolling Stone US.
ニック・ロウ来日公演
2023年10月4日(水)ビルボードライブ大阪
開場16:30 開演17:30 / 開場19:30 開演20:30
サービスエリア¥10,000-
カジュアルエリア¥9,500-(1ドリンク付)
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2023年10月6日(金)ビルボードライブ東京
開場16:30 開演17:30 / 開場19:30 開演20:30
サービスエリア¥10,000-
カジュアルエリア¥9,500-(1ドリンク付)
2023年10月7日(土)ビルボードライブ東京
開場15:30 開演16:30 / 開場18:30 開演19:30
サービスエリア¥10,000-
カジュアルエリア¥9,500-(1ドリンク付)
▶︎公演詳細・チケット購入はこちら
2023年10月9日(月・祝)ビルボードライブ横浜
開場15:30 開演16:30 / 開場18:30 開演19:30
サービスエリア¥10,000-
カジュアルエリア¥9,500-(1ドリンク付)
▶︎公演詳細・チケット購入はこちら
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