ナイジェリア出身のアフロビーツ/R&Bアーティスト、テムズ(Tems)のデビューアルバム『Born in the Wild』が大きな注目を集めている。タイラの記事も好評だったプロデューサー/DJ/ライターのaudiot909に、彼女と本作について解説してもらった。
テムズの名前を、あなたはまだ知らないかもしれない。しかし、彼女の才能はすでに世界の音楽シーンを席巻している。
あるときはタイラのアルバムに収録された「No.1」での見事な客演で。あるときは自身の知名度を引き上げたドレイクとのコラボレーション「Fountains」で。あるときは映画『ブラック・パンサー:ワカンダ・フォーエバー』のサウンドトラックに収録された、ボブ・マーリーの素晴らしいカバーで。
かつてナイジェリアの内向的な少女だったテムズは、今や世界のポップミュージックの最前線で才能を一際輝かせるアーティストとして成長を遂げた。もう世界の舞台で彼女のことを知らぬものはいない。
本稿では、テムズの待望のデビューアルバム『Born in the Wild』と、彼女を生み出したナイジェリアのアフロビーツについて解説していく。
テムズについて
テムズは1995年6月11日生まれのナイジェリアのシンガーソングライター。イングランドで誕生後、両親の離婚がきっかけで4歳でナイジェリアに移住した。学校でのいじめや家庭環境の変化など、困難な時期を過ごすうちに幼少期は内向的な性格になっていったという。今からは想像しづらいが、声にコンプレックスを持つ子供だったらしい。
そんな彼女に大きな影響を与えたのはアメリカのヒップホップとR&Bとの出会いだった。
《私の母親は音楽好きではなく、クリスチャン・ミュージック以外の音楽は聴かない人だったの。でも、自分がだんだん大きくなると、ウォークマンにCDを入れるようになったわ。デスティニーズ・チャイルドやリル・ウェイン……彼は私のアイドルのようなもの。そしてアリーヤね。初めてちゃんと歌えるようになったのは、12歳のときで、アリシア・キーズの「If I ain't Got You」だった》
※The FADERのインタビューより
その中でもリル・ウェインについてはこのように語っている。
《彼(リル・ウェイン)のような存在になりたかった。彼から学んだのは、自分自身を全面的に受け入れること。今の私の音楽があるのは、その過程を経たからこそよ》
※The NATIVEのインタビューより
彼女にとって音楽はセラピーの役割を果たしていたのは想像に難くなく、成長した彼女が音楽制作へ情熱を燃やすのは必然だった。
大学卒業後、自身のビジョンを共有できるプロデューサーを探し求めたが、彼女のクリエイティビティを満足させる者は現れなかった。そこで彼女が取った選択は、YouTubeのチュートリアルを活用し、自らビート制作を学び始めることだった。
「どのビートにも自分らしさを感じられなかった。
そんなテムズのアーティストとしての人生は2018年から始まる。
その年、彼女は音楽キャリアを追求するため仕事を辞め、シングル「Mr.Rebel」を発表。ナイジェリア国内から大きな反響を得るが、さらに飛躍したのは2020年。国内外で認知度を高めたあとリリースしたのがデビューEP『For Broken Ears』だ。R&Bとアフロビーツをハスキーで美しい声で歌い上げる、その卓越した音楽性は多くのリスナーを魅了した。
その後、同郷の大スターであるウィズキッドの「Essence」にフィーチャリングで参加。この楽曲はのちにジャスティン・ビーバーがリミックスに参加し、グラミー賞を始め、BBC 1Xtra Airplay Chartで1位、Billboard Hot 100で9位を獲得。この頃には国際的なスターとなっていた。
テムズの才能はスタジオワークのみに留まらない。2024年には、コーチェラやTiny Desk Concertにも出演。ここでも彼女の才能は遺憾なく発揮され、素晴らしい歌唱力とバンドアレンジされたアフロビーツは観たものの心を掴んで離さなかった。
この二つのパフォーマンスは、テムズの才能を知るうえでも最適の入口となっているのでぜひチェックしてほしい。
アフロビーツとは?
テムズがどのようなキャリアを築いてきたか説明し終えたところで、本稿で重要なキーワードになるアフロビーツに関して解説しよう。
まずこのアフロビーツという音楽を指し示す範囲はとても広い。いささか強引だが、アフロビーツとはナイジェリアのポピュラーミュージック全般を指し示す言葉であると、言い切ってしまってもいいかもしれない。
ここで、テムズのニューアルバムから一曲聴いてみよう。
アルバムにはR&Bやヒップホップの毛色が強い楽曲も多く収録されているが、この「Love Me JeJe」は、それらとは違うリズムを持ったトラックであることを感じ取れるだろうか。
この楽曲を読み解くうえでキーとなるのがクラーヴェ(※)と呼ばれるリズムで、カッカッ、カッカッカッと鳴っているリムショットがグルーヴの中心になっている。このクラーヴェを中心にベースライン、コード、歌、キックが構成されている……というイメージだ。
※もしくはクラーヴェの派生系(詳しくはリンク先を参照)
アフロビーツの全てにこのクラーヴェのリズムが入っているわけではないが、比較的多い傾向にある。そしてナイジェリアから見て外国人である我々が聴いて、アフロビーツの要素を感じ取りやすいのはこういった特徴を持つ楽曲だ。
もちろんこれだけでアフロビーツか否か決まるわけではなく、ナイジェリア現地の言葉や英語のアクセント(アフロビーツは英語詞も多い)、それらで紡ぐメロディやコード感、独特のリズムの訛りなど複数の要素でアフロビーツらしさ、つまりはナイジェリアの音楽の特徴を形成している……と理解していただければ幸いだ。昨今J-POPが海外からその高度なコードチェンジが注目される向きがあるが、シンプルな循環コードのJ-POPの名曲が星の数ほどあることを考えれば、高度なコードチェンジがJ-POPのマストの条件というわけではない、というのと同様だ。
アフロビーツの基本的な概要を説明したところで、興味を惹かれる動画を見つけたのでここで紹介したい。
動画の冒頭で出てくる《これはアフリカの文化的影響力とその音楽産業の台頭の物語です》というナレーションが、アフロビーツの立ち位置をうまく表している。さらに進めると、アフロビーツ・プロデューサーのSarzが非常に芯を捉えた表現をしており引用したい。
《Sarz曰く、アフロビーツの秘密は基本的に一つだけです。それは”ビート”。(~2:32)(中略)このサウンドは確かにアフリカ的だけど、同時に普遍的でもあるよね。誰もが聴いて、すぐに魅了されるような……(~3:48)》
アフリカ的でありながら、普遍的。このバランス感こそ、アフロビーツの真髄である。ナイジェリアのアーティストたちは自身のアイデンティティを反映しつつ、誰をも魅了するポップスを作り上げた。それがアフロビーツの正体だ。
そして注目すべきは、これほどの著名なプロデューサーがノートパソコン一つでグローバルヒットするような楽曲を数えきれないほど作り出しているということ。高価な機材なんて必要ない、必要なのは才能だけ。
上記の動画からクローズアップしたい点を取り上げて説明したが、実はYouTubeの日本語字幕をつければほぼ読めるはずなので、興味があればぜひ見てみてほしい。アフロビーツの熱とナイジェリアの空気感が伝わってくるはずだ。(※)
※動画内でも紹介されている通り、アフロビーツとアフロビートは全く違う音楽であることは付け加えておきたい。アフロビートの代表的アーティストであるフェラ・クティとテムズの楽曲を聴き比べると別の音楽であることがわかるはずだ。だが、全くの無関係というわけでもない。言ってしまえば若い世代のダンスホールレゲエのアーティストが、ボブ・マーリーをリスペクトしているようなもの。同じようにフェラ・クティはナイジェリアの広い世代から、自分たちの国が生んだ最も有名なアーティストとして尊敬され続けている。
デビューアルバム『Born in the Wild』各曲解説
テムズの歩みとアフロビーツの説明に続いて、いよいよアルバムの話をしたいと思う。全体の印象としてはアフロビーツの文脈で語ることもできるし、オルタナティブR&Bとしても語ることができるとも思った。
さっそく再生すると、1曲目からタイトル曲の「Born in the wild」が始まる。静謐なアコースティックギターのコードバッキングから囁くように紡がれる歌。
「野生に生まれ、荒野で育った
開放感についてあまり知らなかった
野生に生まれ、野生で育った、そう
あなたが私に野生を与えてくれた」
フックでこのように歌われるのだが、幼少期の閉塞的な環境から成長と共に開放されたことを歌っているのだろうか。シンプルながら繊細でとても美しい曲で、これ以上ないオープニングだ。
短いインタールード「Special Baby」を挟んで始まる「Burning」は静謐な空気をキープしながらスタートする。ここまでビートレスの楽曲が2曲続いたが、丁寧に処理されたドラムのサウンドに心惹かれる。
「自分の世界に閉じこもれば
自分自身を理解できるかも
過去にしがみつき、完全に狂うこともできる
でも私は罪を手放す
ただ私の翼を探しているだけ
もしそれがどこにあるか知っているなら
リムジンに乗って行くわ」
プリコーラスで歌われるこのような心情は、オープニングから引き続き幼少期の体験から成功に至る現在までを歌っているのかもしれない。ここまでパーソナルな内容を歌っているのが印象的だ。
4曲目の「Wickedest」。ここまではどこか儚げで夢見るようなニュアンスで歌っていたテムズだが、静かに、しかし力強く「Yeah, I'm the one that got the scene bangin'(そう、私がシーンを盛り上げているのよ)」と宣言する。
刻むビートはクラーヴェのアフロビーツ。ここまでビートレスで始まりR&Bのリズムと続き、リリックの内容も歌い方も儚げだったが、ここで一気に現実に向けて加速し始める。前曲から続くアンビエントなムードを、パッドでキープしている点も見逃せない。
ちなみに「Wickedest」の冒頭、ユニークな音響処理から始まるボイスサンプルはコートジボワールのカルテット、マジック・システムの「1er Gaou」からサンプリングされており、独特な彩りを与えている。
そのままアフロビーツの項でも挙げたシングル「Love Me JeJe」が始まる。ここまでの流れが恐ろしくスムーズで、時間がない方もぜひどうかここまで聴いてみてほしい。その頃にはテムズの描く世界に夢中になっているだろうから。突き抜けながらも上品なメジャーキーの楽曲がここで挟まれるのが素晴らしく、曇り空から差し込む陽光を浴びたような心地にさせてくれる。
実はこの曲には元ネタがあり、ナイジェリアのシンガー、セイ・ソディム(Seyi Sodimu)が1997年に発表した同名の曲を引用したもの。Tiny Desk Concertでもプレイする前に「ナイジェリアの老人たちはみんなこの曲が大好きなのよ」と語っている。
ギターの一見シンプルなバッキングも、美しいパッドやクラーヴェのリズムも絶妙なバランスで成り立っており、本楽曲をプロデュースしたGuilty BeatzとSpaxの高い作曲能力に驚かされる。
6曲目の「Get it Right」はナイジェリアのアサケ(Asake)をフィーチャーしたもの。アサケといえばアフロビーツにアマピアノの要素を取り入れ、世界的ヒットを作り上げた張本人。この楽曲ではシェイカー、ログドラムと呼ばれるベースなど、アマピアノのシンボルを取り入れたサウンドを聴くことができる。アサケはフック部分以降オートチューンをかけたボーカルで登場し、短いながらも存在感のあるフロウを披露している。
8曲目「Gansta」は少しこもった音色のギターのアルペジオと、ドラムとベースラインが絶妙に融合。その上で踊るテムズのボーカルラインは軽やかで力強く、ナイジェリアンポップス、そしてR&Bとして最高の出来栄えだ。
10曲目「Boy O Boy」はギターがメインの楽曲で、シンプルな楽器構成であると、より一層彼女のボーカリストとしての魅力に気付かされる。ここから15曲目「Me & U」までの構成がこれまた見事なので、ぜひアルバムの流れで聴いてみてほしい。
続いて展開される11曲目「Forever」はアルバム中、最も興味を引いたビートだ。一見するとオーソドックスなギターをフィーチャーしたR&Bであるが、スネアドラムの配置に独特の変則性がある。
テムズはナイジェリアの新世代の音楽シーンAlté(オルテ:FNMNLのコラムに詳しい)に出自があり、ビートの不規則さも相まってそのことを想起させられた。この楽曲はAlté CruiseというSpotifyのプレイリストに入っており(2024年6月現在)、アルバムが様々な文脈をもって語ることができる証左であるように思えた。
12曲目「Free Fall」。「私は天使じゃない、深みにはまりすぎた」という一節と共に柔らかいパッドから始まり、ギターのアルペジオがフェードイン。そしてそこからキックが入る瞬間のカタルシスは筆舌にし難い。
そして、ゲストのJ・コールのToxic(有毒)から始まるヴァースの鮮烈さたるやいなや。歌詞に関しては解釈の幅があると思うが、愛、失望、そして2人の関係を毒性に例えるなど、美しいコードの響きも相まって非常に耽美的な印象を受けた。再びクラーヴェのリズムが戻ってきてアフロビーツのグルーヴが宿る。筆者がアルバム中で最も好きな瞬間だ。
キックとスネアでクラーヴェのリズムを刻む14曲目「Turn Me Up」のあと、極めて重要な楽曲である「Me & U」が始まる。これが初めてプロデューサーのGuiltyBeatz(ギルティビーツ)と共作した楽曲らしく、本アルバムで彼は18曲中14曲でクレジットされるなど中核を担っている。彼の発言を引用しよう。
《僕たちは二人とも多才だ。どんなコードを弾いても、彼女がそれに共鳴すれば、曲にできる。いつでもどこでも曲を作れるんだ。計画なんてない。ただキーボードでコードを弾く。一つか二つは合わないかもしれないが、3回目くらいでぴたっとはまる》
《思うに、グルーヴが大切だ。独特でナイスなグルーヴが必要なんだよ。それはティンバランドの影響だ。彼のドラムを聴くと、頭や体を動かさずにはいられない。僕はそれをテムズのために特別なやり方で提供している。そしてそれがうまくいっているんだ。彼女もそれを気に入っている》
《いつも「今日は何が起こるかな」という感じだ。僕たちは子供みたいなもので、ただ自由に自分を表現するんだ》
※OkayAfricaのインタビューより
かつて自身のクリエイティビティを共有できるプロデューサーを見つけられなかったテムズだが、このガーナ出身のプロデューサーと出会ったことで、その才能をさらに飛躍させることになる。偶然かもしれないが、ついに創作上のパートナーを得て初めて制作した楽曲が「Me & U」というタイトルになったのも示唆的だ。
本アルバムで印象的なギターのフレーズを何度も聴くことになるが、本楽曲はその中でもベスト。そして四つ打ちのキックに対してクラップのリズムの刻み方が小気味よく絡み、順にベース、裏拍のバッキング、そしてログドラムと入ってくる。これはテムズなりのアマピアノへのアンサーの一つと考えても良いと思う。ただし、やはり南アフリカのアマピアノとはグルーヴがかなり違う。ナイジェリアとガーナの西アフリカのセンスだ。
シンプルなようでいて、洗練された美しさがある。とても上品な楽曲で、後半のアレンジがまた素晴らしい。「Love Me JeJe」「Free Fall」に続くアルバムのハイライトだ。
パーカッションとアトモスフェリックなパッドが絡む最終曲「Hold On」では、再び自身の幼年期を思わせるパーソナルな表現が出てくることに注目したい。
「これは暗闇の中にいる少女のため
これは正しいことをしようとしている人のため
これは日の出を待っている人のため
これは内なる声を持つ人のため
逃げる必要はない、突破できるのだから
私のすることすべてに守られていると知っている
目にするものに影響されない
常に前を向き、決して後ろは振り返らない」
彼女の出自を知った上でこのような表現を読むと、アルバムの印象がずいぶん変わることに同意いただけるはずだ。
そうしてアルバムは静かに静かに終わりを告げる。
総括:躍進するナイジェリアン・ポップス
静謐な夜の心地よさも、その先の太陽の輝きも知る、繊細さと力強さを併せ持ったアーティストとして充実した作品である。自身のアイデンティティを世界の最先端のポップスとして見事に昇華した本作は、躍進するナイジェリアの音楽シーンのレベルの高さを証明している。
テムズは諸外国ではすでにスターであるが、このアルバムは日本でも幅広くリスナーの心を捉えられるポテンシャルを持った作品だと思う。特にR&B/ヒップホップのファンには、アフロビーツ普及のきっかけになる特別な一枚になり得るだろう。
まもなく南アフリカのタイラがサマーソニックに来日するが、テムズも来年以降、夏フェスのラインナップ候補に挙げられても不思議ではない。それだけのポテンシャルを秘めたアーティストなのは、ライブ動画などを見れば納得していただけるだろうし、来日実現のためにもSNSや口コミ、クラブイベントに遊びに行くなどぜひ積極的に支援してほしい。
また、テムズのほかにも、ナイジェリアには素晴らしいアーティストがたくさんいる。ウィズキッドやバーナ・ボーイ、アサケ、テムズのファンにぜひ勧めたいAyra Starr(アイラ・スター)、動画中でアフロビーツの素晴らしさを説いてくれたSarz、Rema、Olamide……筆者が最近気に入っている顔ぶれを挙げるだけでも、あっという間に数えきれなくなるぐらいだ。上記アーティストの曲を聴いただけで非常に幅広く、そして素晴らしい才能がひしめき合っていることがわかるだろう。今回紹介したテムズのアルバムをきっかけに、日本でもアフロビーツの注目がさらに高まることを願っている。
※筆者より:アフロビーツというジャンル名はアーティストによっては忌避されることもあるが、日本で最も知られている呼称であるため、今回はアフロビーツで統一した。
テムズ
『Born In The Wild』
配信中 ※フィジカル盤発売は未定
再生・購入:https://lnk.to/Tems_BITW
audiot909(オーディオットナインオーナイン)
プロデューサー/DJ/ライター。 元々ハウスのDJだったが、2020年からアマピアノ制作に着⼿。 2023年11⽉にリリースした1stフルアルバム『JAPANESE AMAPIANO THE ALBUM』には、あっこゴリラ、荘⼦itらも参加。音楽活動と並⾏して執筆活動や現地プロデューサーへのインタビュー、ラジオ出演など様々なメディアにてアマピアノの魅⼒を発信し続けている。
https://www.instagram.com/audiot909/
https://x.com/lowtech808
※参考文献
《アフリカ人女性として初めてビルボードHOT100で1位を獲得、最も身近な真実を表現するTemsとは?》
《Temsー今最もアルバムを期待されているナイジェリアの若手筆頭》
《J-WAVE「SONAR MUSIC」で紹介した次世代のアフロビーツクイーン「Tems」~Next Queen of Nigerian Afrobeats~》
テムズの名前を、あなたはまだ知らないかもしれない。しかし、彼女の才能はすでに世界の音楽シーンを席巻している。
あるときはタイラのアルバムに収録された「No.1」での見事な客演で。あるときは自身の知名度を引き上げたドレイクとのコラボレーション「Fountains」で。あるときは映画『ブラック・パンサー:ワカンダ・フォーエバー』のサウンドトラックに収録された、ボブ・マーリーの素晴らしいカバーで。
かつてナイジェリアの内向的な少女だったテムズは、今や世界のポップミュージックの最前線で才能を一際輝かせるアーティストとして成長を遂げた。もう世界の舞台で彼女のことを知らぬものはいない。
本稿では、テムズの待望のデビューアルバム『Born in the Wild』と、彼女を生み出したナイジェリアのアフロビーツについて解説していく。
テムズについて
テムズは1995年6月11日生まれのナイジェリアのシンガーソングライター。イングランドで誕生後、両親の離婚がきっかけで4歳でナイジェリアに移住した。学校でのいじめや家庭環境の変化など、困難な時期を過ごすうちに幼少期は内向的な性格になっていったという。今からは想像しづらいが、声にコンプレックスを持つ子供だったらしい。
そんな彼女に大きな影響を与えたのはアメリカのヒップホップとR&Bとの出会いだった。
《私の母親は音楽好きではなく、クリスチャン・ミュージック以外の音楽は聴かない人だったの。でも、自分がだんだん大きくなると、ウォークマンにCDを入れるようになったわ。デスティニーズ・チャイルドやリル・ウェイン……彼は私のアイドルのようなもの。そしてアリーヤね。初めてちゃんと歌えるようになったのは、12歳のときで、アリシア・キーズの「If I ain't Got You」だった》
※The FADERのインタビューより
その中でもリル・ウェインについてはこのように語っている。
《彼(リル・ウェイン)のような存在になりたかった。彼から学んだのは、自分自身を全面的に受け入れること。今の私の音楽があるのは、その過程を経たからこそよ》
※The NATIVEのインタビューより
彼女にとって音楽はセラピーの役割を果たしていたのは想像に難くなく、成長した彼女が音楽制作へ情熱を燃やすのは必然だった。
大学卒業後、自身のビジョンを共有できるプロデューサーを探し求めたが、彼女のクリエイティビティを満足させる者は現れなかった。そこで彼女が取った選択は、YouTubeのチュートリアルを活用し、自らビート制作を学び始めることだった。
「どのビートにも自分らしさを感じられなかった。
だから、自分で音楽をプロデュースする方法を学ぶことにしたの」とテムズは語る。
そんなテムズのアーティストとしての人生は2018年から始まる。
その年、彼女は音楽キャリアを追求するため仕事を辞め、シングル「Mr.Rebel」を発表。ナイジェリア国内から大きな反響を得るが、さらに飛躍したのは2020年。国内外で認知度を高めたあとリリースしたのがデビューEP『For Broken Ears』だ。R&Bとアフロビーツをハスキーで美しい声で歌い上げる、その卓越した音楽性は多くのリスナーを魅了した。
その後、同郷の大スターであるウィズキッドの「Essence」にフィーチャリングで参加。この楽曲はのちにジャスティン・ビーバーがリミックスに参加し、グラミー賞を始め、BBC 1Xtra Airplay Chartで1位、Billboard Hot 100で9位を獲得。この頃には国際的なスターとなっていた。
テムズの才能はスタジオワークのみに留まらない。2024年には、コーチェラやTiny Desk Concertにも出演。ここでも彼女の才能は遺憾なく発揮され、素晴らしい歌唱力とバンドアレンジされたアフロビーツは観たものの心を掴んで離さなかった。
この二つのパフォーマンスは、テムズの才能を知るうえでも最適の入口となっているのでぜひチェックしてほしい。
アフロビーツとは?
テムズがどのようなキャリアを築いてきたか説明し終えたところで、本稿で重要なキーワードになるアフロビーツに関して解説しよう。
まずこのアフロビーツという音楽を指し示す範囲はとても広い。いささか強引だが、アフロビーツとはナイジェリアのポピュラーミュージック全般を指し示す言葉であると、言い切ってしまってもいいかもしれない。
ここで、テムズのニューアルバムから一曲聴いてみよう。
アルバムにはR&Bやヒップホップの毛色が強い楽曲も多く収録されているが、この「Love Me JeJe」は、それらとは違うリズムを持ったトラックであることを感じ取れるだろうか。
この楽曲を読み解くうえでキーとなるのがクラーヴェ(※)と呼ばれるリズムで、カッカッ、カッカッカッと鳴っているリムショットがグルーヴの中心になっている。このクラーヴェを中心にベースライン、コード、歌、キックが構成されている……というイメージだ。
※もしくはクラーヴェの派生系(詳しくはリンク先を参照)
アフロビーツの全てにこのクラーヴェのリズムが入っているわけではないが、比較的多い傾向にある。そしてナイジェリアから見て外国人である我々が聴いて、アフロビーツの要素を感じ取りやすいのはこういった特徴を持つ楽曲だ。
もちろんこれだけでアフロビーツか否か決まるわけではなく、ナイジェリア現地の言葉や英語のアクセント(アフロビーツは英語詞も多い)、それらで紡ぐメロディやコード感、独特のリズムの訛りなど複数の要素でアフロビーツらしさ、つまりはナイジェリアの音楽の特徴を形成している……と理解していただければ幸いだ。昨今J-POPが海外からその高度なコードチェンジが注目される向きがあるが、シンプルな循環コードのJ-POPの名曲が星の数ほどあることを考えれば、高度なコードチェンジがJ-POPのマストの条件というわけではない、というのと同様だ。
アフロビーツの基本的な概要を説明したところで、興味を惹かれる動画を見つけたのでここで紹介したい。
動画の冒頭で出てくる《これはアフリカの文化的影響力とその音楽産業の台頭の物語です》というナレーションが、アフロビーツの立ち位置をうまく表している。さらに進めると、アフロビーツ・プロデューサーのSarzが非常に芯を捉えた表現をしており引用したい。
《Sarz曰く、アフロビーツの秘密は基本的に一つだけです。それは”ビート”。(~2:32)(中略)このサウンドは確かにアフリカ的だけど、同時に普遍的でもあるよね。誰もが聴いて、すぐに魅了されるような……(~3:48)》
アフリカ的でありながら、普遍的。このバランス感こそ、アフロビーツの真髄である。ナイジェリアのアーティストたちは自身のアイデンティティを反映しつつ、誰をも魅了するポップスを作り上げた。それがアフロビーツの正体だ。
そして注目すべきは、これほどの著名なプロデューサーがノートパソコン一つでグローバルヒットするような楽曲を数えきれないほど作り出しているということ。高価な機材なんて必要ない、必要なのは才能だけ。
言葉はなくとも雄弁に物語っているように思えた。
上記の動画からクローズアップしたい点を取り上げて説明したが、実はYouTubeの日本語字幕をつければほぼ読めるはずなので、興味があればぜひ見てみてほしい。アフロビーツの熱とナイジェリアの空気感が伝わってくるはずだ。(※)
※動画内でも紹介されている通り、アフロビーツとアフロビートは全く違う音楽であることは付け加えておきたい。アフロビートの代表的アーティストであるフェラ・クティとテムズの楽曲を聴き比べると別の音楽であることがわかるはずだ。だが、全くの無関係というわけでもない。言ってしまえば若い世代のダンスホールレゲエのアーティストが、ボブ・マーリーをリスペクトしているようなもの。同じようにフェラ・クティはナイジェリアの広い世代から、自分たちの国が生んだ最も有名なアーティストとして尊敬され続けている。
デビューアルバム『Born in the Wild』各曲解説
テムズの歩みとアフロビーツの説明に続いて、いよいよアルバムの話をしたいと思う。全体の印象としてはアフロビーツの文脈で語ることもできるし、オルタナティブR&Bとしても語ることができるとも思った。
さっそく再生すると、1曲目からタイトル曲の「Born in the wild」が始まる。静謐なアコースティックギターのコードバッキングから囁くように紡がれる歌。
「野生に生まれ、荒野で育った
開放感についてあまり知らなかった
野生に生まれ、野生で育った、そう
あなたが私に野生を与えてくれた」
フックでこのように歌われるのだが、幼少期の閉塞的な環境から成長と共に開放されたことを歌っているのだろうか。シンプルながら繊細でとても美しい曲で、これ以上ないオープニングだ。
短いインタールード「Special Baby」を挟んで始まる「Burning」は静謐な空気をキープしながらスタートする。ここまでビートレスの楽曲が2曲続いたが、丁寧に処理されたドラムのサウンドに心惹かれる。
「自分の世界に閉じこもれば
自分自身を理解できるかも
過去にしがみつき、完全に狂うこともできる
でも私は罪を手放す
ただ私の翼を探しているだけ
もしそれがどこにあるか知っているなら
リムジンに乗って行くわ」
プリコーラスで歌われるこのような心情は、オープニングから引き続き幼少期の体験から成功に至る現在までを歌っているのかもしれない。ここまでパーソナルな内容を歌っているのが印象的だ。
4曲目の「Wickedest」。ここまではどこか儚げで夢見るようなニュアンスで歌っていたテムズだが、静かに、しかし力強く「Yeah, I'm the one that got the scene bangin'(そう、私がシーンを盛り上げているのよ)」と宣言する。
刻むビートはクラーヴェのアフロビーツ。ここまでビートレスで始まりR&Bのリズムと続き、リリックの内容も歌い方も儚げだったが、ここで一気に現実に向けて加速し始める。前曲から続くアンビエントなムードを、パッドでキープしている点も見逃せない。
ちなみに「Wickedest」の冒頭、ユニークな音響処理から始まるボイスサンプルはコートジボワールのカルテット、マジック・システムの「1er Gaou」からサンプリングされており、独特な彩りを与えている。
そのままアフロビーツの項でも挙げたシングル「Love Me JeJe」が始まる。ここまでの流れが恐ろしくスムーズで、時間がない方もぜひどうかここまで聴いてみてほしい。その頃にはテムズの描く世界に夢中になっているだろうから。突き抜けながらも上品なメジャーキーの楽曲がここで挟まれるのが素晴らしく、曇り空から差し込む陽光を浴びたような心地にさせてくれる。
実はこの曲には元ネタがあり、ナイジェリアのシンガー、セイ・ソディム(Seyi Sodimu)が1997年に発表した同名の曲を引用したもの。Tiny Desk Concertでもプレイする前に「ナイジェリアの老人たちはみんなこの曲が大好きなのよ」と語っている。
ギターの一見シンプルなバッキングも、美しいパッドやクラーヴェのリズムも絶妙なバランスで成り立っており、本楽曲をプロデュースしたGuilty BeatzとSpaxの高い作曲能力に驚かされる。
6曲目の「Get it Right」はナイジェリアのアサケ(Asake)をフィーチャーしたもの。アサケといえばアフロビーツにアマピアノの要素を取り入れ、世界的ヒットを作り上げた張本人。この楽曲ではシェイカー、ログドラムと呼ばれるベースなど、アマピアノのシンボルを取り入れたサウンドを聴くことができる。アサケはフック部分以降オートチューンをかけたボーカルで登場し、短いながらも存在感のあるフロウを披露している。
8曲目「Gansta」は少しこもった音色のギターのアルペジオと、ドラムとベースラインが絶妙に融合。その上で踊るテムズのボーカルラインは軽やかで力強く、ナイジェリアンポップス、そしてR&Bとして最高の出来栄えだ。
10曲目「Boy O Boy」はギターがメインの楽曲で、シンプルな楽器構成であると、より一層彼女のボーカリストとしての魅力に気付かされる。ここから15曲目「Me & U」までの構成がこれまた見事なので、ぜひアルバムの流れで聴いてみてほしい。
続いて展開される11曲目「Forever」はアルバム中、最も興味を引いたビートだ。一見するとオーソドックスなギターをフィーチャーしたR&Bであるが、スネアドラムの配置に独特の変則性がある。
テムズはナイジェリアの新世代の音楽シーンAlté(オルテ:FNMNLのコラムに詳しい)に出自があり、ビートの不規則さも相まってそのことを想起させられた。この楽曲はAlté CruiseというSpotifyのプレイリストに入っており(2024年6月現在)、アルバムが様々な文脈をもって語ることができる証左であるように思えた。
12曲目「Free Fall」。「私は天使じゃない、深みにはまりすぎた」という一節と共に柔らかいパッドから始まり、ギターのアルペジオがフェードイン。そしてそこからキックが入る瞬間のカタルシスは筆舌にし難い。
そして、ゲストのJ・コールのToxic(有毒)から始まるヴァースの鮮烈さたるやいなや。歌詞に関しては解釈の幅があると思うが、愛、失望、そして2人の関係を毒性に例えるなど、美しいコードの響きも相まって非常に耽美的な印象を受けた。再びクラーヴェのリズムが戻ってきてアフロビーツのグルーヴが宿る。筆者がアルバム中で最も好きな瞬間だ。
キックとスネアでクラーヴェのリズムを刻む14曲目「Turn Me Up」のあと、極めて重要な楽曲である「Me & U」が始まる。これが初めてプロデューサーのGuiltyBeatz(ギルティビーツ)と共作した楽曲らしく、本アルバムで彼は18曲中14曲でクレジットされるなど中核を担っている。彼の発言を引用しよう。
《僕たちは二人とも多才だ。どんなコードを弾いても、彼女がそれに共鳴すれば、曲にできる。いつでもどこでも曲を作れるんだ。計画なんてない。ただキーボードでコードを弾く。一つか二つは合わないかもしれないが、3回目くらいでぴたっとはまる》
《思うに、グルーヴが大切だ。独特でナイスなグルーヴが必要なんだよ。それはティンバランドの影響だ。彼のドラムを聴くと、頭や体を動かさずにはいられない。僕はそれをテムズのために特別なやり方で提供している。そしてそれがうまくいっているんだ。彼女もそれを気に入っている》
《いつも「今日は何が起こるかな」という感じだ。僕たちは子供みたいなもので、ただ自由に自分を表現するんだ》
※OkayAfricaのインタビューより
かつて自身のクリエイティビティを共有できるプロデューサーを見つけられなかったテムズだが、このガーナ出身のプロデューサーと出会ったことで、その才能をさらに飛躍させることになる。偶然かもしれないが、ついに創作上のパートナーを得て初めて制作した楽曲が「Me & U」というタイトルになったのも示唆的だ。
本アルバムで印象的なギターのフレーズを何度も聴くことになるが、本楽曲はその中でもベスト。そして四つ打ちのキックに対してクラップのリズムの刻み方が小気味よく絡み、順にベース、裏拍のバッキング、そしてログドラムと入ってくる。これはテムズなりのアマピアノへのアンサーの一つと考えても良いと思う。ただし、やはり南アフリカのアマピアノとはグルーヴがかなり違う。ナイジェリアとガーナの西アフリカのセンスだ。
シンプルなようでいて、洗練された美しさがある。とても上品な楽曲で、後半のアレンジがまた素晴らしい。「Love Me JeJe」「Free Fall」に続くアルバムのハイライトだ。
パーカッションとアトモスフェリックなパッドが絡む最終曲「Hold On」では、再び自身の幼年期を思わせるパーソナルな表現が出てくることに注目したい。
「これは暗闇の中にいる少女のため
これは正しいことをしようとしている人のため
これは日の出を待っている人のため
これは内なる声を持つ人のため
逃げる必要はない、突破できるのだから
私のすることすべてに守られていると知っている
目にするものに影響されない
常に前を向き、決して後ろは振り返らない」
彼女の出自を知った上でこのような表現を読むと、アルバムの印象がずいぶん変わることに同意いただけるはずだ。
そうしてアルバムは静かに静かに終わりを告げる。
総括:躍進するナイジェリアン・ポップス
静謐な夜の心地よさも、その先の太陽の輝きも知る、繊細さと力強さを併せ持ったアーティストとして充実した作品である。自身のアイデンティティを世界の最先端のポップスとして見事に昇華した本作は、躍進するナイジェリアの音楽シーンのレベルの高さを証明している。
テムズは諸外国ではすでにスターであるが、このアルバムは日本でも幅広くリスナーの心を捉えられるポテンシャルを持った作品だと思う。特にR&B/ヒップホップのファンには、アフロビーツ普及のきっかけになる特別な一枚になり得るだろう。
まもなく南アフリカのタイラがサマーソニックに来日するが、テムズも来年以降、夏フェスのラインナップ候補に挙げられても不思議ではない。それだけのポテンシャルを秘めたアーティストなのは、ライブ動画などを見れば納得していただけるだろうし、来日実現のためにもSNSや口コミ、クラブイベントに遊びに行くなどぜひ積極的に支援してほしい。
また、テムズのほかにも、ナイジェリアには素晴らしいアーティストがたくさんいる。ウィズキッドやバーナ・ボーイ、アサケ、テムズのファンにぜひ勧めたいAyra Starr(アイラ・スター)、動画中でアフロビーツの素晴らしさを説いてくれたSarz、Rema、Olamide……筆者が最近気に入っている顔ぶれを挙げるだけでも、あっという間に数えきれなくなるぐらいだ。上記アーティストの曲を聴いただけで非常に幅広く、そして素晴らしい才能がひしめき合っていることがわかるだろう。今回紹介したテムズのアルバムをきっかけに、日本でもアフロビーツの注目がさらに高まることを願っている。
※筆者より:アフロビーツというジャンル名はアーティストによっては忌避されることもあるが、日本で最も知られている呼称であるため、今回はアフロビーツで統一した。
テムズ
『Born In The Wild』
配信中 ※フィジカル盤発売は未定
再生・購入:https://lnk.to/Tems_BITW
audiot909(オーディオットナインオーナイン)
プロデューサー/DJ/ライター。 元々ハウスのDJだったが、2020年からアマピアノ制作に着⼿。 2023年11⽉にリリースした1stフルアルバム『JAPANESE AMAPIANO THE ALBUM』には、あっこゴリラ、荘⼦itらも参加。音楽活動と並⾏して執筆活動や現地プロデューサーへのインタビュー、ラジオ出演など様々なメディアにてアマピアノの魅⼒を発信し続けている。
https://www.instagram.com/audiot909/
https://x.com/lowtech808
※参考文献
《アフリカ人女性として初めてビルボードHOT100で1位を獲得、最も身近な真実を表現するTemsとは?》
《Temsー今最もアルバムを期待されているナイジェリアの若手筆頭》
《J-WAVE「SONAR MUSIC」で紹介した次世代のアフロビーツクイーン「Tems」~Next Queen of Nigerian Afrobeats~》
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