先日の第67回グラミー賞で、年間最優秀アルバム賞に加えて最優秀カントリー・アルバム賞も獲得したビヨンセの『COWBOY CARTER』。同作の先行シングル「TEXAS HOLD 'EM」は、リアノン・ギデンズ(Rhiannon Giddens)がバンジョーを演奏していたことでも注目を集めた。
カントリーの象徴的な楽器でもあるバンジョーは、もともと奴隷たちがアメリカに持ち込んだもので、そのルーツはカリブ海~アフリカにある。つまり、白人の音楽もしくは保守派の音楽というイメージを持たれてきたカントリーは、元を辿れば黒人由来の要素が多く含まれていたというわけだ。「TEXAS HOLD 'EM」における印象的なバンジョーは、その見過ごされてきた歴史に光を当てる、『COWBOY CARTER』の精神を高らかに謳い上げるものでもあった。
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南部ノースキャロライナ州育ちのリアノンは、キャロライナ・チョコレート・ドロップス(2006年結成)の一員として頭角を表わし、2015年にソロデビュー。イタリア出身のマルチ奏者、フランチェスコ・トゥリッシとコラボした2021年のアルバム『Theyre Calling Me Home』で自身2度目のグラミー賞を獲得し、これまで通算11度のノミネート歴を誇る彼女は、現代アメリカン・ルーツ・ミュージックにおける最重要人物と言っても過言ではない。
そんなリアノンの音楽活動は、「TEXAS HOLD 'EM」に込められたメッセージそのものとも言えるだろう。バンジョーはどんな歴史を辿ってきた楽器なのか。なぜ「白人の音楽」としてのイメージを纏ってしまうことになったのか。彼女はその問いに向き合いながら、アフリカ系アメリカ人が辿ってきた歴史を掘り下げてきた。彼女の言葉を借りれば、バンジョーの歴史を知ることは植民地主義からの解放であり、アメリカという国の本当の歴史を明らかにすることでもある。
3月1日~3日にブルーノート東京で、フランチェスコ・トゥリッシらと共に来日公演を行なうリアノン。今回はバンジョーとアメリカの歴史についてたっぷり語ってもらった。
来日公演で共演するフランチェスコ・トゥリッシとのパフォーマンス映像(2022年)
黒人にとって「自分たちのための楽器」
―バンジョーを弾くようになったきっかけは?
リアノン:ノースキャロライナでフォークダンスやスクエアダンスで踊っていた頃、オールドタイム・バンジョーを聴いたのがきっかけ。子供の頃にもブルーグラスは聴いてたけど、オールドタイム・ミュージック(※アパラチア地域でバンジョーやフィドルにより演奏されていた音楽、カントリーやブルーグラスのルーツのひとつ)を初めて聴いたのは大人になってから。パーカッシブかつリズミックという点にも興味を持った。その後、バンジョーの歴史を知るうちにもっと知りたいと思うようになった。
―いつ頃、楽器を手にしたのですか?
リアノン:最初のバンジョーを買ったのは23か24歳の時(※リアノンは1977年生まれ)。生計を立てるには働かなきゃならなかったから、とある企業に勤めていて、その傍らでバンジョーとフィドルを練習してた。その数年後にジョー・トンプソンに出会い、オールドタイムを弾き始めたという感じ。
ジョー・トンプソンはノースキャロライナ出身のアフリカン・アメリカンのフィドル奏者。当時、彼は86歳でオールドスタイル・フィドルを弾く最後の1人だった(※その後、2012年に死去)。彼の家族は奴隷制度の時代から代々、その伝統を受け継いできたんだけど、後継者がいなかった。ジョーはバンジョー奏者がいなければ演奏しようとしなかったので、私がバンドに入ることになったの。それがキャロライナ・チョコレート・ドロップスだった。
ジョー・トンプソンと演奏するキャロライナ・チョコレート・ドロップス
リアノンはキャロライナ・チョコレート・ドロップスの盟友、ジャスティン・ロビンソンとのコラボ・アルバム『What Did the Blackbird Say to the Crow』を4月18日リリース予定。先行シングル「Hook and Line」のMVは生前にジョー・トンプソンが住んでいた自宅で撮影
―先ほどスクエアダンスに言及していましたが、スクエアダンスもしくはコントラダンスは過去の文化ではなく、コミュニティの中でずっと行われているものということでしょうか?
リアノン:全米各地にはコントラダンスやスクエアダンスのコミュニティは今も残っていて、途絶えたことはない。特に60~70年代に大きなリバイバルがあり、それによって広まった。私が週2~3日通い始めた頃には、どの州でもコントラダンスが開催されていた。生バンドが演奏する音楽に合わせて踊るんだけど、白人以外の参加者は大抵、私1人(笑)。知る人ぞ知る、独自のネットワークが広がる面白い世界だった。演奏される音楽は地域ごとに違っていて、ニューイングランドではケルティック・ミュージックが主流で、私が通っていたノースキャロライナではオールドタイム・ミュージックが演奏されてた。だから、私はそこでオールドタイムを初めて耳にすることができたの。
ノースキャロライナのスクエアダンス
―バンジョー演奏の技術を身に着けるだけでなく、その楽器の歴史にもフォーカスするプレイヤーは必ずしも多くないと思います。なぜ、バンジョーの歴史を起源まで遡ろうと思ったのでしょうか?
リアノン:それがもともとアフリカン・アメリカンの楽器だと知って驚いたから。
―調べようと思い立った時、そういった情報には割と簡単にアクセスできたんですか?
リアノン:バンジョーに関する学術書はすでにたくさんあったから。40年前だったらもっと難しかっただろうけど、私が調べ始めた20年前なら、ディナ・エプスタインの『Sinful Tunes and Spirituals』や、『Banjo Roots and Branches』、『Jigs, Reels and Hoedowns』、『The History of Appalachian Dance』、クリスティーナ・ギャディの『Well of Souls』などが出版されていたし、黒人ストリング・バンドの録音を集めたコンピレーションも出ていた。手に入るものを読み漁り、情報を吸収し、自分のものにした。
この20年で、私たちはバンジョーがアフリカからではなく、恐らくカリブ海で生まれ、奴隷にされた人たちと共にアメリカに運ばれたものだと知るようになった。アフリカのエコンティン、ボチュンドゥ、ンゴニといった楽器とは違って、カリブ海の様々な地域で様々なものが融合して生まれたものが、私たちの知るバンジョーのルーツだってこと。
著者のクリスティーナ・ギャディが『Well of Souls』について語った動画。17世紀まで遡り、バンジョーの起源とアフリカ系の人々に与えた影響を検証している
―バンジョーという楽器、もしくはバンジョーを使った音楽が持っていた「アフリカ性」もしくは「カリブ海性」ってどんなものですか?
リアノン:クリスティーナ・ギャディの本によると、バンジョーはアフリカの儀式で使われていた楽器だった。つまり「人々が集まる」という実にアフリカ的な目的のための楽器として生まれたということ。
それにバンジョーは、黒人にとっては「自分たちのための楽器」だった点がフィドルとは違っていたと思う。もちろん、黒人はフィドルや他のヨーロッパの楽器もすぐに弾きこなせた。だって、アフリカにはすでに1弦フィドルがあったから。たった3本の弦が増えるくらい、なんてことない。フィドルを習得した彼らにとって、音楽は生計を立てる手段にもなった。
バンジョーが「狭い場所」に押しやられた理由
―先ほどあなたも言及していたように、アラパラチアン・ミュージックは白人の音楽との印象を持たれがちですが、実際は黒人がもたらした要素が多くありました。アパラチアン・ミュージックとバンジョー、黒人によってもたらされた要素の関係についても聞かせてもらえますか?
リアノン:アパラチア山脈に移り住んだ人たちについては、一種の誤解が存在している。白人だけと思われがちだけど、実際には建国当初から様々な人がこの山岳地帯に住み着いていた。スコットランド・アイルランド系、ポルトガル系、そしてアフリカ系アメリカ人。彼らはみんな、何かから逃れ、独立心が強かった。だからこそ、南北戦争の際には南部連合からの分離を望まなかった。山にはプランテーション(農園)がなかったから、平野部とはまるで違う暮らしだった。アパラチアの文化を豊かにしていたのは、そういった多様な背景を持つ人々のミクスチャー。
でも、「アフリカ系アメリカ人の大移動(※Great Migration:1910年代以降、多くのアフリカ系アメリカ人が都市部への移住したこと)」の時期、多くの黒人が山を離れ北部へ向かったことで、「アパラチア山脈=白人」というイメージだけが残されてしまった。当然、住民の多くはスコッツ・アイリッシュで、彼らが重要な流れを作っていたのは確か。でも、それ以外の人たちも実際にいたということを忘れてはいけない。さらに、レコード業界のマーケティングの影響もあった。「アパラチア地方=貧しい、無教養だが、いい音楽を作るヒルビリー」という構図が作られた。極めてネガティブで、現実を歪めるものだけど、何ともアメリカ的な物語だと思う。
2016年3月、ブルーノート東京にて撮影(Photo by Tsuneo Koga)
―あなたと同じノースキャロライナ出身のシンガーソングライター、エリザベス・コットンのフィンガーピッキング奏法にはバンジョーの影響があった、という話を聞いたことがあります。私たちが思っている以上にアフリカ系アメリカ人の音楽にはバンジョーの存在が貢献している気がするのですが、いかがですか?
リアノン:おそらく第一世代のギタリストはみんな、バンジョーを弾いていた。1890~1910年頃には、バンジョーは山岳地帯の貧しい人々から、ニューヨークの裕福層、オーストラリア、イギリスにまで広く行き渡り、あらゆる種類のバンジョーが作られるようになっていたから。大きなバンジョー、小さなバンジョー、6弦、4弦、5弦……演奏されるのもブルース、ジャズ、オールドタイム、パーラー・ミュージック、クラシックと色々。バンジョーによるオーケストラのためにクラシック風アレンジをする、なんてことも行われていた。バンジョーはそのくらいポピュラーな楽器だったんだけど、次第にギターに取って代わられるようになってしまった。
Great Migrationの時期、南部から都会に黒人たちが移動したことで、音楽の嗜好も変わっていった。南部に残った人たちも、ギターを手にして「これはバンジョーよりもいいぞ」と思ったわけ。バンジョーは5本も弦があるし、チューニング調整が多い。それに、それまでバンジョーよりも高かったギターが工場で作られるようになり、カタログ販売で安く買えるようになった。そして、エレキギターの登場が決定的な転機となった。初期のジャズのレコーディングでは、ギターではなくバンジョーが使われていた。バンジョーは音が大きかったからね。でもギターに電気が通ったことで、立場は逆転した。バンジョーの命はそこまで(笑)。
そう考えると、ブルースギタリストがバンジョーの影響を受けていたのは間違いない。だってギターの前は、みんなバンジョーを弾いていたんだから。特に、スライドギターが主流になる前のごく初期のブルースギターからは、バンジョーの影響が強く感じられる。スライドは元々ハワイアンミュージシャンから南部に伝えられたけれど、それ以前はバンジョーの影響を留めたフィンガーピッキングが主流だった。バンジョーにもギターの奏法が取り入れられた時期があったけど、ギターが人気を得ると、逆にバンジョーの影響がギターに現れるようになった。
リアノンによる、エリザベス・コットン「Shake Sugaree」のカバー動画
―スコット・ジョプリンで知られるラグタイムは、ジャズにも大きな影響を与えた音楽ですよね。ピアノのイメージが強いですが、実はもともとバンジョーで奏でられていたという話を読んだことがあります。バンジョーとラグタイム、ジャズについても聞かせてもらえますか?
リアノン:バンジョーには天然のシンコペーションがある、なぜなら5弦楽器だから。1850年代~60年代の初期のバンジョーの研究をしていたら、バンジョーがシンコペーションを生みだす原因はあの5番目の弦にあるということがわかった。それに、スコット・ジョプリンの父親はストリング・バンドのミュージシャンで、母親はバンジョー奏者だったから、ピアノのラグで知られるようになる前から、彼も弦楽器を学んで弾いていた。だから、初期のラグはバンジョーで演奏されていた。すべては繋がっているということ。
私は1855年に出版された最初のバンジョー教則本を読んで、そこでバンジョーが最終的にラグタイムやジャズのシンコペーションに繋がっていったことを知った。その影響だけとは言わないけど、大きな一部を占めていたことは間違いないと思う。楽器自体がシンコペーションを生み出すように作られていたのが大きかった。
スコット・ジョプリン作曲の「ジ・エンターテイナー」(映画『スティング』のテーマ曲として有名)、本人とバンジョー奏者のジミー・アーノルドによる演奏
―つまり、バンジョーという楽器の仕組みや構造そのものが、アメリカ音楽の重要な要素を形作った可能性があると……。
リアノン:私がいつも言っているのは、バンジョーはアメリカ音楽の象徴だということ。なぜなら、もともとの起源はアフリカにありながら、ヨーロッパの影響がとても強く、両方の地域が融合しているから。最初の形からどんどん変化していって、指板が平らになり、フレットが加わり、材料も瓢箪(ひょうたん)から木、さらには金属に変わっていった。でも楽器の基本としてのバンジョーらしさは同じまま。アメリカの音楽には、一つの場所から生まれた核があり、そこに別の要素が加わるという特徴がある。その核は変わらず残り、その周りに様々なものが生まれていく。バンジョーはまさにその象徴だと思う。
多数派の中に少数派が存在するとき、少数派は多数派に溶け込んでいくのが普通だとされる。でもアフリカン・アメリカンはアメリカの歴史上、独自の立場に置かれ、長い間、抑圧を受けてきた。他の文化と溶け込むことが許されず、生き抜くために自分たち独自の文化を守り、新しい文化を作るほかなかった。人数が示す以上の影響を、文化に与えた理由はそこにあると思う。
それとアフリカン・アメリカンにとって、エンターテイナーであることは尊厳を保ち、自らを死に追いやることなく生計を立てられる、数少ない手段だったことも大きかったと思う。1800年代、逃亡した奴隷を探す新聞広告を見てみると、彼らはヴァイオリンやバンジョーといった楽器を持っていることが多かった。楽器を演奏すれば、過酷な肉体労働で身を粉にせずとも、お金を稼げたから。そういう影響もあったと思う。
2024年撮影(Photo by Erika Goldring/Getty Images)
―ここまでのお話で、アフリカ系アメリカ人の様々な音楽にバンジョーが使われ、多大な影響を与えてきたことがよくわかりました。なぜそれが「カントリーやブルーグラスのための楽器」といった狭い場所に押しやられてしまったのでしょう?
リアノン:バンジョーは長い間、黒人の生活を象徴する楽器だったけど、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、黒人コミュニティから白人や先住民といった他のコミュニティへと広がり、誰もが手に取る楽器になった。東海岸やミシシッピ川沿いなど、貧しい地域では特に普及し、バンジョーは「庶民の楽器」として定着していた。ところが、1830年代~50年代になるとミンストレル音楽(※19世紀半ばから20世紀初頭に流行したショー、顔を黒く塗った演者による歌と寸劇で構成。白人がおどけた黒人を嘲笑するような差別的なもの)の登場によって、バンジョーは突如フォーク楽器から商業的な楽器になった。工場で大量生産され、楽器メーカーが宣伝を始め、ステージ向けの楽器として売り出された。ただし、それは「プランテーションで働く黒人たちが弾く楽器」として誇張されたステレオタイプの象徴だった。そうなると、それを自宅の居間で演奏したがる金持ちの白人の婦人たちが出てきたり、プリンストン大学にバンジョークラブが誕生したり……と色々なことが同時に起き、その結果、バンジョーは「一般の人々の生活」とはかけ離れた楽器となり、都市部ではギターにその座を奪われてしまった。田舎ではフォーク楽器としても演奏され続けていたけど、徐々にその影響力は薄れていった。
また、1920年代に入り、レコード産業が「音楽をどう売るか?」という視点でジャンルを細分化し始めたことも関係がある。かつては貧しい白人も黒人もバンジョーを弾いていたけど、黒人は都市へ移り、ブルースやジャズに夢中になり始めていた。そこで、レコード産業はこの流れに乗ることを選び、黒人向けにはRace record(※ブルース、ジャズ、ゴスペルなどが主体の黒人大衆音楽。「Race=人種」には白人音楽と区別する差別的な意図があった)、白人向けにはヒルビリーというカテゴリーを作った。その結果、黒人がフィドルやバンジョーを演奏していても、ジャンルに合わないものは録音されなくなった。つまり、レコード産業がアメリカ音楽を分断したってこと。それ以前のアメリカの音楽は、もっと流動的で、地域ごとの嗜好はあったものの、ジャンルの壁はなく、人々は自由に演奏し、聴くことができた。でも資本主義が介入すると、マーケティングのためにジャンルの枠が必要になり、バンジョーは「白人のヒルビリー楽器」としてブランド化されてしまったの。
―そこで疑問なんですが、1930年代に始まった連邦美術計画(Federal Art Project) と、そこから連なる1940年代以降のアメリカン・フォーク・ミュージック・リヴァイヴァルを通じて、アラン・ローマックスのような人が古いアメリカ音楽を採集・研究し、広めていったわけですよね。この時期、アフリカ系アメリカの人のための楽器として、バンジョーは再発見されなかったのでしょうか?
リアノン:うん、されなかった。というのも、レコード産業による音楽の分断はすでに起きていて、フィールドワークを行なった当時の音楽収集家たちもまた「特定の音楽」を求めていたから。彼らは多くの音楽を記録に残したけど、「黒人はこういう音楽をやるものだ」という先入観を持っていた。だから、バンジョーを弾く黒人がまだ存在していても関心を示さなかった。それに、1940~50年代にかけて世代交代が進み、黒人コミュニティでバンジョーを弾く人はどんどん減少していた。そして、収集家たちが録音を始めた頃には、彼らはブルースやジャズといった「黒人音楽」として認識されているものを探し求め、バンジョーを弾く黒人たちには目もくれなかった。
学者の中にはバンジョーがアフリカ起源の楽器だと理解していた人もいたけど、大衆文化の中では忘れ去られていた。イギリスのセシル・シャープのような収集家も、バラッドを採集していたときに黒人を見かけても関心を示さなかったから。こうして、どの音楽が記録され、どの音楽が見過ごされたのかによって、歴史が歪められてしまったわけ。もし当時、バンジョーを弾く黒人ミュージシャンがいたとしても、ほとんど注目されなかったでしょうね。わずかに残された録音はすごく貴重で、今でも愛されている。でも、本来ならもっと多くの記録が残っていたはず。
バンジョーから見える世界との繋がり
―ここまでアフリカ系アメリカ人の話を中心に聞いてきましたが、一方でバンジョーの歴史を辿り、アメリカの音楽を掘り下げていくと、アフリカだけではなく、アイルランドやスコットランドにも辿り着きます。あなたがアイルランドの音楽をリサーチし、自分の音楽に取り入れていった過程について聞かせてもらえますか?
リアノン:アメリカ音楽のルーツは、単純に「スコットランド・アイルランド系とアフリカ系が融合してカントリーが生まれた」という話では済まないことは言っておきたい。カトリック系アイルランド人は主にニューヨークに移住し、アフリカ系文化と交わった。というのも当時、アイルランド人の社会的立場はアフリカ系の人々のわずかに上に見られていたから。一方、スコットランド系の人々は代々、北アイルランドに定住したあと、アメリカの西部、特にペンシルベニア州のアパラチア山脈に移住し、その後さらに南へと広がっていった。また、ドイツ系移民も大量にアメリカにやって来た。イギリス人やウェールズ人も、フォークの伝統とともに渡ってきた。実際、オールドタイム・ミュージックやブルーグラス、カントリーには、スコットランド・アイルランド系以外の様々な要素が流れ込んでいる。それなのに、その影響はあまり語られてこなかった。私はそういった見落とされがちな文化的影響を明らかにしていくことに興味がある。
―アイルランドとスコットランドのイメージだけに縛られてはいけないと。
リアノン:もちろん、アイリッシュやスコティッシュ音楽もアメリカの物語においては重要。でもドイツ音楽も同じくらい重要だった。楽譜を見ても、それは明らかだから。レコード以前の音楽産業は楽譜が中心で、作曲家やミュージシャンは楽譜によって生計を立てていた。だから、私はずっとシート・ミュージックの研究をしているんだけど、そこにはクイックステップやカドリール、ショティッシュなど、北欧やドイツのダンス音楽のスタイルが残されているのがわかった。
でもドイツ系移民は移民の中でも「物言わぬグループ」だった。特に第二次世界大戦後、彼らはドイツ人であることを語りたがらなかったので、その存在が忘れられてしまったんだけど、物語に欠かせない大きなピースだったはず。「ホワイトネスとは何か」、そしてその解体について考えるのは、非常に興味深いことだし、私たちはそうせねばならないと思う。アメリカでは、白人全員が同じ「白さ」を持っていたわけではなく、白さにも階層が存在していたから。他の国で階級に当たるものが、アメリカでは人種だったということ。
それにアメリカ音楽の物語が、単に黒人と白人の話だけに偏ってしまうと、先住民の声を忘れてしまうことになる。ネイティブ・アメリカンやハワイアン、スウィングの発展には欠かせないメキシカンなど、多くの影響を見過ごしてしまう。アイリッシュの影響についてはもうたくさん語られてきたので、今の私の関心は、それ以外の語られてこなかった影響に向いている。
―『ランブル 音楽界を揺るがしたインディアンたち』という映画を見ました。あなたはネイティブ・アメリカンのルーツを持つひとりとして出演していましたよね。あなたの音楽の中にもネイティブ・アメリカンの文化と繋がる部分はありますか?
リアノン:アメリカのオールドタイム・チューンを研究する学者たちによれば、イギリスやアイルランドから直接受け継がれた曲が、アメリカに渡ると、高音部と低音部が入れ替わっていることが多いそう。その原因は先住民の影響ではないか、という意見がある。というのも、特にアメリカ南東部の先住民の音楽は、ほとんど高音から低音へ進行する。ネイティブ・アメリカンのフィドル奏者やバンジョー奏者も存在していたわけだから、間違いなくそこからの影響はあるし、ある種の融合も起きていたはず。
ただ、それが他と比べて、目に見える形ではないのでわからない部分が多い。現在のパウワウ文化*にしても、「現代の」文化なので、そこから古い先住民の音楽、特に南東部の音楽を辿るのは容易ではない。彼らは最初にヨーロッパ人と接触した民族だったから、その過程で多くの文化が破壊されてしまっているのがその理由。
*パウワウは一族が集まり、歌や踊りで力を高め合う祭り。伝統的パウワウでは一つの部族だけだったが、現代のパウワウでは、複数の部族が集まって行われている。リアノン曰く、西部の大平原地帯のインディアン由来の音楽やダンスが、パウワウを通じて東部へ広がり、本来なかった踊りや音楽が今は含まれ、それが現代のネイティブ・アメリカン文化の一部として定着しているのだという
―バンジョーに関係のある音楽を辿っていくだけで、アメリカの白人、黒人、カリビアン、アフリカン、それからアイルランド、ヨーロッパのフォークソングや讃美歌など、さまざまな音楽に触れることになるわけですよね。時に当事者として、時に他者として、世界中の音楽に触れていくことについてはどんなことを考えていますか?
リアノン:アメリカ音楽は1600~1700年頃に生まれ、その時代に蒔かれた種がその後のすべてのアメリカ音楽へと繋がっているわけだけど、ここまで人気があるのは、世界中の人がそこに自分自身を見つけられるからだと思う。そこにはあらゆる要素の断片が含まれている。だから世界中の人が共感するんじゃいかなと。
私がここ10年ほど弾いているフレットレスのバンジョーは、フレットがないことで、あらゆる音楽と繋がることができる。微分音も弾ければ、リズムも刻めるし、メロディを爪弾くこともできる。以前、琵琶(Pipa)奏者と演奏したときも、3本の弦が全く同じ音域で驚くほど音が似ていて、とてもおもしろかった。モロッコのギンブリと並んで弾いても、共通点が見つけられる。だから私は今のバンジョーを弾いている。きっとあなたは「なぜこの(フレットレス)バンジョーなの?」と質問するでしょうから、先に答えようかな。
―お願いします(笑)。
リアノン:単純に好きだというのもあるけど、これ一本で何でも弾けるという、アメリカ音楽の本質をよく表わしたバンジョーだと思うから。1858年製モデルのレプリカなんだけど、その時代のバンジョーはまさにこういう音だったんだろう、という音がそのまま再現されている。現代のバンジョーには不可能な、いろんな音楽に自然と溶け込むような演奏ができるから。ガット弦と皮のヘッドという楽器自体からは世界が、そして世界との繋がりが見えてくる。中国から中東、ヨーロッパ、アメリカ……と移動してきた(弦楽器の)流れの中に、バンジョーは確かに存在しているものだと思うから。
尺八、琵琶の演奏と並んでフレットレス・バンジョーを弾くリアノン(2023年)
植民地主義からの解放と『COWBOY CARTER』
―「アメリカーナ」と呼ばれるカテゴリーのルーツには、アフリカ系アメリカ人の影響がかなり含まれている。ところが、実際に「アメリカーナ」を演奏したり聴いている人の多くは白人である。あなたはこういった状況を変えるためのアプローチもしているのではないかと思うのですが、どうですか?
リアノン:まず、「アメリカーナにおけるアフリカ系アメリカ人の影響」という表現はできればもう聞きたくはない。だって、それは(影響ではなく)「私たちの音楽」でもあるから。
―ああ、そうですよね……。
リアノン:黒人、白人、褐色という様々なルーツの人たちから生まれ、今ではまさしくアメリカの音楽。「アメリカーナ」という言葉自体はマーケティング用語。よりルーツ志向な音楽の受け皿となるべく生み出されたんだと思う。現代のカントリーミュージックがあまりにポップで商業的で、本来のルーツから遠ざかってしまったので、かつてならカントリーと見なされていたアーティストのための居場所が必要だった。今はルーツミュージックを演奏するすべての人たちにとっての受け皿に発展させようとしている。
でも元来、ルーツミュージックはすべての人のもの。60年代にフォークミュージックの概念そのものが変わったことは、現在のシンガーソングライターやアメリカーナの姿にも影響を与えた。その結果、「フォーク」と言えば、ピート・シーガーのようなギターを持った白人男性というイメージが定着した。でも、第1世代のフォークミュージシャンに影響を与えたブルースやジャズのミュージシャンたちこそが(本当の意味での)フォークミュージシャンだったと思う。ブルースも、初期のジャズも、フォークミュージックだったから。私たちは忘れがちだけど、当時はあらゆる音楽が商業的なわけではなかった。地域や労働者階級のコミュニティの中から生まれてきた音楽が、現在は商業化されているけれど、そうなる以前の姿を見つめ直そうとしているのが、ルーツミュージックのリバイバルなんじゃないかな。歌やその歌が伝える物語に目を向けるとき、そこにはあらゆる背景を持つ人々の歴史や経験が含まれていることが見えてくる。
だからこそ、私たちは音楽を語る言葉も変えていかなければならない。そもそもカテゴリーがあるのが問題。「フォークとは何か?」「ブルースとは何か?」。フォークは白人、ブルースは黒人という区分けはまるで無意味。実際には白人のブルースミュージシャンも大勢いるし、黒人のフォークミュージシャンもいる。でも売るためには何らかの分類が必要。だから私は昔から、ジャンルというものがあまり好きじゃない。だって人工的でしょ。音楽には境界線なんてなくて、自由に行き来できる曖昧な境界があるだけ。南部ではブルースっぽく聞こえるけど、別の場所ではカントリーっぽくも聞こえるなんてこともある。つまり、音楽は何にでもなれる、ってことだと私は思っている。
Photo credit by Karen Cox
―今日の話を聞きながら思ったのが、バンジョーを調べると、アフリカ系アメリカ人の歴史を考えることになり、過去の人種差別や奴隷貿易に辿りつきます。あなたの活動は大きく見ると「脱植民地化」と言えるのかなと思ったのですが、どうですか?
リアノン:ええ、バンジョーの植民地主義からの解放。「バンジョーを取り戻す」とかそういうんじゃない。ただ本当の歴史を明らかにするということ。実際、私は誰かからバンジョーを奪いたいわけじゃない。バンジョーはみんなの楽器であり、アメリカの楽器で、誰でも弾ける。でも、バンジョーの歴史を知ることは重要。アメリカについて、実際に何が起こったのか、どれだけ黒人たちが小さな枠に押し込められてきたのか……。黒人は「ブルースやジャズを作った、それだけ」みたいに言われるけど、実際はそんなもんじゃない! 日々、何ヶ月、何十年にわたるいくつもの場面で(様々な人種の人たちが)互いに学び合ってきた。アメリカが建国された1600年代からレコーディング産業が始まった1920年まで、ものすごく長い時間が流れてきた。私たちの文化は常に混ざり合ってきたわけで、私がほどいて元に戻そうとしているのは、発見されるべき歴史そのもの。
最近関わったシルクロード・アンサンブルとのプロジェクト『American Railroad』でも、アメリカの鉄道建設を助けた膨大な数の中国人移民や日本人移民について取り上げた。その家族たちは何世代にもわたってアメリカに住んでいるけど、今も毎日「お前らはどれだけアメリカ人なんだ?」と見た目だけで問われ続けている。これは黒人に限った話じゃなく、アメリカの白人ではない全ての人々の物語。彼らはアメリカが自分たちだけのものだと言いたいから、私たちに信じこませようとするけど、それ以上に現実は長く、深く混じり合っている。だからこそ、音楽でこのことを話すのが重要だと思う。音楽でなら、脅威を感じさせずに「私はただバンジョーの話をしているだけ!」と言える。でも、実は重要で差し迫った歴史の問題でもある。今のアメリカで起きてることは言うまでもなくね(苦笑)。
シルクロード・アンサンブルとの演奏(2024年)。渡辺薫(ステージ後方右のパーカッション奏者)は来日公演にも参加
―あなたは人種だけではなく、ジェンダーについても音楽の中で表現したり、言及したりしています。例えば、ジャズの歴史を調べていると、女性の器楽奏者が圧倒的に少ないことに気づきます。バンジョーの演奏を象徴する存在として、女性と器楽奏者の関係についてどんな意見を持ってますか?
リアノン:実際には、これまでにも多くの女性の器楽奏者が存在していた。特に南部ではね。プロとして活動していたかは別として、彼女たちは家庭内で音楽を奏でていた。ブルーグラスやオールドタイム、カントリーの男性器楽奏者の母親の多くも、音楽を演奏していたという背景がある。私の地域(ノースキャロライナ)だけでも、エリザベス・コットン、エタ・ベイカーなどがいた。エタは夫に演奏を禁じられていたので、夫の死後、初めて人前で演奏するようになったけど、実際には幼い頃からバンジョーやギターを弾き、そのピードモント・ブルースギター・スタイルは多くの人々に大きな影響を与えてきた。ジャズだったらInternational Sweethearts of Rhythmのような女性だけのバンドも存在していた。ヴォードヴィルの世界を見ても、演技だけでなく、楽器を演奏する女性は多かったはず。でもここでもまた、女性たちは歴史の中で忘れ去られ、埋もれてしまった。女性は伝統的に抑圧され、職場で男性と競争しないようにされてきた。家庭で音楽を奏でることと、それを生業にすることは、別物だったから。今は状況が大きく変わり、多くの女性器楽奏者がプロとして活動している。それでもまだ、ブルーグラスやカントリーの世界では厳しい面が残っているけどね。だからこそ、私がその象徴(レプリゼント)となることが重要だと感じている。私はバンジョーを弾く前は歌手で、子供の頃は楽器を演奏してなかった。だからこそ、女性として楽器を演奏すること、そして黒人女性としてその存在を示すことに、意義を感じている。なぜなら、その数は今も決して多くはないから。それでも、状況は確実に変わりつつあるのも確か。
―最後はビヨンセの『COWBOY CARTER』について。「TEXAS HOLD 'EM」に参加したことは、あなたにとってどんな意味を持っていると思いますか?
リアノン:あの1曲にバンジョーで参加できたのは素直に嬉しい。バンジョーは世の中に広く知られた楽器だけど、あの曲での私のバンジョーはとてもユニークに聴こえると思う。そのことには感謝している。
―僕は大学の授業でバンジョーのことも話すのですが、今年は「TEXAS HOLD 'EM」をかけると学生が顔を上げて、例年より聞いてもらえた感覚があったんですよね。
リアノン:だから私はあの仕事を引き受けたのよ! バンジョーを教えている人と話すと、あの曲以来、バンジョーを習いたいという生徒が増えているそう。アルバムの中でバンジョーが聴こえるのは、あの1曲だけ。もう一か所あった? いずれにせよ、私としては「やります!」と引き受けたし、やって良かったと心から思っている。
リアノン・ギデンズ&フランチェスコ・トゥリッシ
with special guest 渡辺薫
2025年3月1日(土)~3日(月)ブルーノート東京
詳細:https://www.bluenote.co.jp/jp/artists/rhiannon-giddens/
カントリーの象徴的な楽器でもあるバンジョーは、もともと奴隷たちがアメリカに持ち込んだもので、そのルーツはカリブ海~アフリカにある。つまり、白人の音楽もしくは保守派の音楽というイメージを持たれてきたカントリーは、元を辿れば黒人由来の要素が多く含まれていたというわけだ。「TEXAS HOLD 'EM」における印象的なバンジョーは、その見過ごされてきた歴史に光を当てる、『COWBOY CARTER』の精神を高らかに謳い上げるものでもあった。
@big_bey1981
南部ノースキャロライナ州育ちのリアノンは、キャロライナ・チョコレート・ドロップス(2006年結成)の一員として頭角を表わし、2015年にソロデビュー。イタリア出身のマルチ奏者、フランチェスコ・トゥリッシとコラボした2021年のアルバム『Theyre Calling Me Home』で自身2度目のグラミー賞を獲得し、これまで通算11度のノミネート歴を誇る彼女は、現代アメリカン・ルーツ・ミュージックにおける最重要人物と言っても過言ではない。
そんなリアノンの音楽活動は、「TEXAS HOLD 'EM」に込められたメッセージそのものとも言えるだろう。バンジョーはどんな歴史を辿ってきた楽器なのか。なぜ「白人の音楽」としてのイメージを纏ってしまうことになったのか。彼女はその問いに向き合いながら、アフリカ系アメリカ人が辿ってきた歴史を掘り下げてきた。彼女の言葉を借りれば、バンジョーの歴史を知ることは植民地主義からの解放であり、アメリカという国の本当の歴史を明らかにすることでもある。
3月1日~3日にブルーノート東京で、フランチェスコ・トゥリッシらと共に来日公演を行なうリアノン。今回はバンジョーとアメリカの歴史についてたっぷり語ってもらった。
来日公演で共演するフランチェスコ・トゥリッシとのパフォーマンス映像(2022年)
黒人にとって「自分たちのための楽器」
―バンジョーを弾くようになったきっかけは?
リアノン:ノースキャロライナでフォークダンスやスクエアダンスで踊っていた頃、オールドタイム・バンジョーを聴いたのがきっかけ。子供の頃にもブルーグラスは聴いてたけど、オールドタイム・ミュージック(※アパラチア地域でバンジョーやフィドルにより演奏されていた音楽、カントリーやブルーグラスのルーツのひとつ)を初めて聴いたのは大人になってから。パーカッシブかつリズミックという点にも興味を持った。その後、バンジョーの歴史を知るうちにもっと知りたいと思うようになった。
―いつ頃、楽器を手にしたのですか?
リアノン:最初のバンジョーを買ったのは23か24歳の時(※リアノンは1977年生まれ)。生計を立てるには働かなきゃならなかったから、とある企業に勤めていて、その傍らでバンジョーとフィドルを練習してた。その数年後にジョー・トンプソンに出会い、オールドタイムを弾き始めたという感じ。
ジョー・トンプソンはノースキャロライナ出身のアフリカン・アメリカンのフィドル奏者。当時、彼は86歳でオールドスタイル・フィドルを弾く最後の1人だった(※その後、2012年に死去)。彼の家族は奴隷制度の時代から代々、その伝統を受け継いできたんだけど、後継者がいなかった。ジョーはバンジョー奏者がいなければ演奏しようとしなかったので、私がバンドに入ることになったの。それがキャロライナ・チョコレート・ドロップスだった。
私とジャスティン・ロビンソン、ドム・フレモンズは、ジョーに弟子入りするような形で一緒に演奏しながら、彼の家族に伝わる伝統を学んでいった。私は唯一のバンジョー奏者として、彼からオールドタイム・ミュージックのすべてを教わった。
ジョー・トンプソンと演奏するキャロライナ・チョコレート・ドロップス
リアノンはキャロライナ・チョコレート・ドロップスの盟友、ジャスティン・ロビンソンとのコラボ・アルバム『What Did the Blackbird Say to the Crow』を4月18日リリース予定。先行シングル「Hook and Line」のMVは生前にジョー・トンプソンが住んでいた自宅で撮影
―先ほどスクエアダンスに言及していましたが、スクエアダンスもしくはコントラダンスは過去の文化ではなく、コミュニティの中でずっと行われているものということでしょうか?
リアノン:全米各地にはコントラダンスやスクエアダンスのコミュニティは今も残っていて、途絶えたことはない。特に60~70年代に大きなリバイバルがあり、それによって広まった。私が週2~3日通い始めた頃には、どの州でもコントラダンスが開催されていた。生バンドが演奏する音楽に合わせて踊るんだけど、白人以外の参加者は大抵、私1人(笑)。知る人ぞ知る、独自のネットワークが広がる面白い世界だった。演奏される音楽は地域ごとに違っていて、ニューイングランドではケルティック・ミュージックが主流で、私が通っていたノースキャロライナではオールドタイム・ミュージックが演奏されてた。だから、私はそこでオールドタイムを初めて耳にすることができたの。
ノースキャロライナのスクエアダンス
―バンジョー演奏の技術を身に着けるだけでなく、その楽器の歴史にもフォーカスするプレイヤーは必ずしも多くないと思います。なぜ、バンジョーの歴史を起源まで遡ろうと思ったのでしょうか?
リアノン:それがもともとアフリカン・アメリカンの楽器だと知って驚いたから。
だってバンジョーは、白人のヒルビリーの、アパラチアン山脈の楽器だと教えられてきたわけだから。でも、実際は白人だけでなくみんながバンジョーを弾いていたし、もともとはカリブ海から奴隷として連れてこられた人たちが持ってきたもの。自分には知らないことだらけだとわかり、もっと知るべきだって感じた。そして調べていくうちに、アメリカの歴史の中で私たちが知らされてないこと、間違った情報を伝えられてきたことがたくさんあると気づくことができた。
―調べようと思い立った時、そういった情報には割と簡単にアクセスできたんですか?
リアノン:バンジョーに関する学術書はすでにたくさんあったから。40年前だったらもっと難しかっただろうけど、私が調べ始めた20年前なら、ディナ・エプスタインの『Sinful Tunes and Spirituals』や、『Banjo Roots and Branches』、『Jigs, Reels and Hoedowns』、『The History of Appalachian Dance』、クリスティーナ・ギャディの『Well of Souls』などが出版されていたし、黒人ストリング・バンドの録音を集めたコンピレーションも出ていた。手に入るものを読み漁り、情報を吸収し、自分のものにした。
この20年で、私たちはバンジョーがアフリカからではなく、恐らくカリブ海で生まれ、奴隷にされた人たちと共にアメリカに運ばれたものだと知るようになった。アフリカのエコンティン、ボチュンドゥ、ンゴニといった楽器とは違って、カリブ海の様々な地域で様々なものが融合して生まれたものが、私たちの知るバンジョーのルーツだってこと。
著者のクリスティーナ・ギャディが『Well of Souls』について語った動画。17世紀まで遡り、バンジョーの起源とアフリカ系の人々に与えた影響を検証している
―バンジョーという楽器、もしくはバンジョーを使った音楽が持っていた「アフリカ性」もしくは「カリブ海性」ってどんなものですか?
リアノン:クリスティーナ・ギャディの本によると、バンジョーはアフリカの儀式で使われていた楽器だった。つまり「人々が集まる」という実にアフリカ的な目的のための楽器として生まれたということ。
アフリカは広大で、各地に様々な人たちがいるわけだけど、バンジョーにはそうした異なる地域の人々に共通する特徴があった。その一つがリズム。楽器の作りや演奏方法にもリズムは欠かせない。また、多くのバンジョーにはドローン弦が使われていて、常にドローン音が鳴り続けている。こうした特徴も、バンジョーを聴く人にとって親しみやすさを感じさせるのだったと思う。そんなふうにバンジョーはアフリカの様々な地域の異なる側面を表していたので、人々が集まる手段になった。だからこそ、人々が集まることを嫌う人もいて、一部の場所では演奏が禁止されたくらい。
それにバンジョーは、黒人にとっては「自分たちのための楽器」だった点がフィドルとは違っていたと思う。もちろん、黒人はフィドルや他のヨーロッパの楽器もすぐに弾きこなせた。だって、アフリカにはすでに1弦フィドルがあったから。たった3本の弦が増えるくらい、なんてことない。フィドルを習得した彼らにとって、音楽は生計を立てる手段にもなった。
黒人音楽家の才能はすぐに認められたけれど、ダンスバンドでは常に召使いの役割に徹していた。奴隷=召使いということね。その時代から、黒人は生来音楽的だと思われていたけど、これはヨーロッパと違って、アフリカでは音楽が日常生活の一部だったから……まあ、そんなふうに「外向きの」音楽の中ではフィドルが花形となっていくわけだけど、バンジョーはアフリカ的、ブラックネスと強く結びつく楽器として、当時のヨーロッパ人からも認知されていたってこと。これは1600年代から1700年代にかけての話ね。
バンジョーが「狭い場所」に押しやられた理由
―先ほどあなたも言及していたように、アラパラチアン・ミュージックは白人の音楽との印象を持たれがちですが、実際は黒人がもたらした要素が多くありました。アパラチアン・ミュージックとバンジョー、黒人によってもたらされた要素の関係についても聞かせてもらえますか?
リアノン:アパラチア山脈に移り住んだ人たちについては、一種の誤解が存在している。白人だけと思われがちだけど、実際には建国当初から様々な人がこの山岳地帯に住み着いていた。スコットランド・アイルランド系、ポルトガル系、そしてアフリカ系アメリカ人。彼らはみんな、何かから逃れ、独立心が強かった。だからこそ、南北戦争の際には南部連合からの分離を望まなかった。山にはプランテーション(農園)がなかったから、平野部とはまるで違う暮らしだった。アパラチアの文化を豊かにしていたのは、そういった多様な背景を持つ人々のミクスチャー。
当初、山に住む人の15~20%はアフリカ系アメリカ人だったと言われている。だから文化的交流があったとしても何も不思議ではないし、長い期間をかけてバンジョーは山に暮らす様々な人種の間に浸透していった。
でも、「アフリカ系アメリカ人の大移動(※Great Migration:1910年代以降、多くのアフリカ系アメリカ人が都市部への移住したこと)」の時期、多くの黒人が山を離れ北部へ向かったことで、「アパラチア山脈=白人」というイメージだけが残されてしまった。当然、住民の多くはスコッツ・アイリッシュで、彼らが重要な流れを作っていたのは確か。でも、それ以外の人たちも実際にいたということを忘れてはいけない。さらに、レコード業界のマーケティングの影響もあった。「アパラチア地方=貧しい、無教養だが、いい音楽を作るヒルビリー」という構図が作られた。極めてネガティブで、現実を歪めるものだけど、何ともアメリカ的な物語だと思う。

2016年3月、ブルーノート東京にて撮影(Photo by Tsuneo Koga)
―あなたと同じノースキャロライナ出身のシンガーソングライター、エリザベス・コットンのフィンガーピッキング奏法にはバンジョーの影響があった、という話を聞いたことがあります。私たちが思っている以上にアフリカ系アメリカ人の音楽にはバンジョーの存在が貢献している気がするのですが、いかがですか?
リアノン:おそらく第一世代のギタリストはみんな、バンジョーを弾いていた。1890~1910年頃には、バンジョーは山岳地帯の貧しい人々から、ニューヨークの裕福層、オーストラリア、イギリスにまで広く行き渡り、あらゆる種類のバンジョーが作られるようになっていたから。大きなバンジョー、小さなバンジョー、6弦、4弦、5弦……演奏されるのもブルース、ジャズ、オールドタイム、パーラー・ミュージック、クラシックと色々。バンジョーによるオーケストラのためにクラシック風アレンジをする、なんてことも行われていた。バンジョーはそのくらいポピュラーな楽器だったんだけど、次第にギターに取って代わられるようになってしまった。
Great Migrationの時期、南部から都会に黒人たちが移動したことで、音楽の嗜好も変わっていった。南部に残った人たちも、ギターを手にして「これはバンジョーよりもいいぞ」と思ったわけ。バンジョーは5本も弦があるし、チューニング調整が多い。それに、それまでバンジョーよりも高かったギターが工場で作られるようになり、カタログ販売で安く買えるようになった。そして、エレキギターの登場が決定的な転機となった。初期のジャズのレコーディングでは、ギターではなくバンジョーが使われていた。バンジョーは音が大きかったからね。でもギターに電気が通ったことで、立場は逆転した。バンジョーの命はそこまで(笑)。
そう考えると、ブルースギタリストがバンジョーの影響を受けていたのは間違いない。だってギターの前は、みんなバンジョーを弾いていたんだから。特に、スライドギターが主流になる前のごく初期のブルースギターからは、バンジョーの影響が強く感じられる。スライドは元々ハワイアンミュージシャンから南部に伝えられたけれど、それ以前はバンジョーの影響を留めたフィンガーピッキングが主流だった。バンジョーにもギターの奏法が取り入れられた時期があったけど、ギターが人気を得ると、逆にバンジョーの影響がギターに現れるようになった。
リアノンによる、エリザベス・コットン「Shake Sugaree」のカバー動画
―スコット・ジョプリンで知られるラグタイムは、ジャズにも大きな影響を与えた音楽ですよね。ピアノのイメージが強いですが、実はもともとバンジョーで奏でられていたという話を読んだことがあります。バンジョーとラグタイム、ジャズについても聞かせてもらえますか?
リアノン:バンジョーには天然のシンコペーションがある、なぜなら5弦楽器だから。1850年代~60年代の初期のバンジョーの研究をしていたら、バンジョーがシンコペーションを生みだす原因はあの5番目の弦にあるということがわかった。それに、スコット・ジョプリンの父親はストリング・バンドのミュージシャンで、母親はバンジョー奏者だったから、ピアノのラグで知られるようになる前から、彼も弦楽器を学んで弾いていた。だから、初期のラグはバンジョーで演奏されていた。すべては繋がっているということ。
私は1855年に出版された最初のバンジョー教則本を読んで、そこでバンジョーが最終的にラグタイムやジャズのシンコペーションに繋がっていったことを知った。その影響だけとは言わないけど、大きな一部を占めていたことは間違いないと思う。楽器自体がシンコペーションを生み出すように作られていたのが大きかった。
スコット・ジョプリン作曲の「ジ・エンターテイナー」(映画『スティング』のテーマ曲として有名)、本人とバンジョー奏者のジミー・アーノルドによる演奏
―つまり、バンジョーという楽器の仕組みや構造そのものが、アメリカ音楽の重要な要素を形作った可能性があると……。
リアノン:私がいつも言っているのは、バンジョーはアメリカ音楽の象徴だということ。なぜなら、もともとの起源はアフリカにありながら、ヨーロッパの影響がとても強く、両方の地域が融合しているから。最初の形からどんどん変化していって、指板が平らになり、フレットが加わり、材料も瓢箪(ひょうたん)から木、さらには金属に変わっていった。でも楽器の基本としてのバンジョーらしさは同じまま。アメリカの音楽には、一つの場所から生まれた核があり、そこに別の要素が加わるという特徴がある。その核は変わらず残り、その周りに様々なものが生まれていく。バンジョーはまさにその象徴だと思う。
多数派の中に少数派が存在するとき、少数派は多数派に溶け込んでいくのが普通だとされる。でもアフリカン・アメリカンはアメリカの歴史上、独自の立場に置かれ、長い間、抑圧を受けてきた。他の文化と溶け込むことが許されず、生き抜くために自分たち独自の文化を守り、新しい文化を作るほかなかった。人数が示す以上の影響を、文化に与えた理由はそこにあると思う。
それとアフリカン・アメリカンにとって、エンターテイナーであることは尊厳を保ち、自らを死に追いやることなく生計を立てられる、数少ない手段だったことも大きかったと思う。1800年代、逃亡した奴隷を探す新聞広告を見てみると、彼らはヴァイオリンやバンジョーといった楽器を持っていることが多かった。楽器を演奏すれば、過酷な肉体労働で身を粉にせずとも、お金を稼げたから。そういう影響もあったと思う。

2024年撮影(Photo by Erika Goldring/Getty Images)
―ここまでのお話で、アフリカ系アメリカ人の様々な音楽にバンジョーが使われ、多大な影響を与えてきたことがよくわかりました。なぜそれが「カントリーやブルーグラスのための楽器」といった狭い場所に押しやられてしまったのでしょう?
リアノン:バンジョーは長い間、黒人の生活を象徴する楽器だったけど、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、黒人コミュニティから白人や先住民といった他のコミュニティへと広がり、誰もが手に取る楽器になった。東海岸やミシシッピ川沿いなど、貧しい地域では特に普及し、バンジョーは「庶民の楽器」として定着していた。ところが、1830年代~50年代になるとミンストレル音楽(※19世紀半ばから20世紀初頭に流行したショー、顔を黒く塗った演者による歌と寸劇で構成。白人がおどけた黒人を嘲笑するような差別的なもの)の登場によって、バンジョーは突如フォーク楽器から商業的な楽器になった。工場で大量生産され、楽器メーカーが宣伝を始め、ステージ向けの楽器として売り出された。ただし、それは「プランテーションで働く黒人たちが弾く楽器」として誇張されたステレオタイプの象徴だった。そうなると、それを自宅の居間で演奏したがる金持ちの白人の婦人たちが出てきたり、プリンストン大学にバンジョークラブが誕生したり……と色々なことが同時に起き、その結果、バンジョーは「一般の人々の生活」とはかけ離れた楽器となり、都市部ではギターにその座を奪われてしまった。田舎ではフォーク楽器としても演奏され続けていたけど、徐々にその影響力は薄れていった。
また、1920年代に入り、レコード産業が「音楽をどう売るか?」という視点でジャンルを細分化し始めたことも関係がある。かつては貧しい白人も黒人もバンジョーを弾いていたけど、黒人は都市へ移り、ブルースやジャズに夢中になり始めていた。そこで、レコード産業はこの流れに乗ることを選び、黒人向けにはRace record(※ブルース、ジャズ、ゴスペルなどが主体の黒人大衆音楽。「Race=人種」には白人音楽と区別する差別的な意図があった)、白人向けにはヒルビリーというカテゴリーを作った。その結果、黒人がフィドルやバンジョーを演奏していても、ジャンルに合わないものは録音されなくなった。つまり、レコード産業がアメリカ音楽を分断したってこと。それ以前のアメリカの音楽は、もっと流動的で、地域ごとの嗜好はあったものの、ジャンルの壁はなく、人々は自由に演奏し、聴くことができた。でも資本主義が介入すると、マーケティングのためにジャンルの枠が必要になり、バンジョーは「白人のヒルビリー楽器」としてブランド化されてしまったの。
―そこで疑問なんですが、1930年代に始まった連邦美術計画(Federal Art Project) と、そこから連なる1940年代以降のアメリカン・フォーク・ミュージック・リヴァイヴァルを通じて、アラン・ローマックスのような人が古いアメリカ音楽を採集・研究し、広めていったわけですよね。この時期、アフリカ系アメリカの人のための楽器として、バンジョーは再発見されなかったのでしょうか?
リアノン:うん、されなかった。というのも、レコード産業による音楽の分断はすでに起きていて、フィールドワークを行なった当時の音楽収集家たちもまた「特定の音楽」を求めていたから。彼らは多くの音楽を記録に残したけど、「黒人はこういう音楽をやるものだ」という先入観を持っていた。だから、バンジョーを弾く黒人がまだ存在していても関心を示さなかった。それに、1940~50年代にかけて世代交代が進み、黒人コミュニティでバンジョーを弾く人はどんどん減少していた。そして、収集家たちが録音を始めた頃には、彼らはブルースやジャズといった「黒人音楽」として認識されているものを探し求め、バンジョーを弾く黒人たちには目もくれなかった。
学者の中にはバンジョーがアフリカ起源の楽器だと理解していた人もいたけど、大衆文化の中では忘れ去られていた。イギリスのセシル・シャープのような収集家も、バラッドを採集していたときに黒人を見かけても関心を示さなかったから。こうして、どの音楽が記録され、どの音楽が見過ごされたのかによって、歴史が歪められてしまったわけ。もし当時、バンジョーを弾く黒人ミュージシャンがいたとしても、ほとんど注目されなかったでしょうね。わずかに残された録音はすごく貴重で、今でも愛されている。でも、本来ならもっと多くの記録が残っていたはず。
バンジョーから見える世界との繋がり
―ここまでアフリカ系アメリカ人の話を中心に聞いてきましたが、一方でバンジョーの歴史を辿り、アメリカの音楽を掘り下げていくと、アフリカだけではなく、アイルランドやスコットランドにも辿り着きます。あなたがアイルランドの音楽をリサーチし、自分の音楽に取り入れていった過程について聞かせてもらえますか?
リアノン:アメリカ音楽のルーツは、単純に「スコットランド・アイルランド系とアフリカ系が融合してカントリーが生まれた」という話では済まないことは言っておきたい。カトリック系アイルランド人は主にニューヨークに移住し、アフリカ系文化と交わった。というのも当時、アイルランド人の社会的立場はアフリカ系の人々のわずかに上に見られていたから。一方、スコットランド系の人々は代々、北アイルランドに定住したあと、アメリカの西部、特にペンシルベニア州のアパラチア山脈に移住し、その後さらに南へと広がっていった。また、ドイツ系移民も大量にアメリカにやって来た。イギリス人やウェールズ人も、フォークの伝統とともに渡ってきた。実際、オールドタイム・ミュージックやブルーグラス、カントリーには、スコットランド・アイルランド系以外の様々な要素が流れ込んでいる。それなのに、その影響はあまり語られてこなかった。私はそういった見落とされがちな文化的影響を明らかにしていくことに興味がある。
―アイルランドとスコットランドのイメージだけに縛られてはいけないと。
リアノン:もちろん、アイリッシュやスコティッシュ音楽もアメリカの物語においては重要。でもドイツ音楽も同じくらい重要だった。楽譜を見ても、それは明らかだから。レコード以前の音楽産業は楽譜が中心で、作曲家やミュージシャンは楽譜によって生計を立てていた。だから、私はずっとシート・ミュージックの研究をしているんだけど、そこにはクイックステップやカドリール、ショティッシュなど、北欧やドイツのダンス音楽のスタイルが残されているのがわかった。
でもドイツ系移民は移民の中でも「物言わぬグループ」だった。特に第二次世界大戦後、彼らはドイツ人であることを語りたがらなかったので、その存在が忘れられてしまったんだけど、物語に欠かせない大きなピースだったはず。「ホワイトネスとは何か」、そしてその解体について考えるのは、非常に興味深いことだし、私たちはそうせねばならないと思う。アメリカでは、白人全員が同じ「白さ」を持っていたわけではなく、白さにも階層が存在していたから。他の国で階級に当たるものが、アメリカでは人種だったということ。
それにアメリカ音楽の物語が、単に黒人と白人の話だけに偏ってしまうと、先住民の声を忘れてしまうことになる。ネイティブ・アメリカンやハワイアン、スウィングの発展には欠かせないメキシカンなど、多くの影響を見過ごしてしまう。アイリッシュの影響についてはもうたくさん語られてきたので、今の私の関心は、それ以外の語られてこなかった影響に向いている。
―『ランブル 音楽界を揺るがしたインディアンたち』という映画を見ました。あなたはネイティブ・アメリカンのルーツを持つひとりとして出演していましたよね。あなたの音楽の中にもネイティブ・アメリカンの文化と繋がる部分はありますか?
リアノン:アメリカのオールドタイム・チューンを研究する学者たちによれば、イギリスやアイルランドから直接受け継がれた曲が、アメリカに渡ると、高音部と低音部が入れ替わっていることが多いそう。その原因は先住民の影響ではないか、という意見がある。というのも、特にアメリカ南東部の先住民の音楽は、ほとんど高音から低音へ進行する。ネイティブ・アメリカンのフィドル奏者やバンジョー奏者も存在していたわけだから、間違いなくそこからの影響はあるし、ある種の融合も起きていたはず。
ただ、それが他と比べて、目に見える形ではないのでわからない部分が多い。現在のパウワウ文化*にしても、「現代の」文化なので、そこから古い先住民の音楽、特に南東部の音楽を辿るのは容易ではない。彼らは最初にヨーロッパ人と接触した民族だったから、その過程で多くの文化が破壊されてしまっているのがその理由。
*パウワウは一族が集まり、歌や踊りで力を高め合う祭り。伝統的パウワウでは一つの部族だけだったが、現代のパウワウでは、複数の部族が集まって行われている。リアノン曰く、西部の大平原地帯のインディアン由来の音楽やダンスが、パウワウを通じて東部へ広がり、本来なかった踊りや音楽が今は含まれ、それが現代のネイティブ・アメリカン文化の一部として定着しているのだという
―バンジョーに関係のある音楽を辿っていくだけで、アメリカの白人、黒人、カリビアン、アフリカン、それからアイルランド、ヨーロッパのフォークソングや讃美歌など、さまざまな音楽に触れることになるわけですよね。時に当事者として、時に他者として、世界中の音楽に触れていくことについてはどんなことを考えていますか?
リアノン:アメリカ音楽は1600~1700年頃に生まれ、その時代に蒔かれた種がその後のすべてのアメリカ音楽へと繋がっているわけだけど、ここまで人気があるのは、世界中の人がそこに自分自身を見つけられるからだと思う。そこにはあらゆる要素の断片が含まれている。だから世界中の人が共感するんじゃいかなと。
私がここ10年ほど弾いているフレットレスのバンジョーは、フレットがないことで、あらゆる音楽と繋がることができる。微分音も弾ければ、リズムも刻めるし、メロディを爪弾くこともできる。以前、琵琶(Pipa)奏者と演奏したときも、3本の弦が全く同じ音域で驚くほど音が似ていて、とてもおもしろかった。モロッコのギンブリと並んで弾いても、共通点が見つけられる。だから私は今のバンジョーを弾いている。きっとあなたは「なぜこの(フレットレス)バンジョーなの?」と質問するでしょうから、先に答えようかな。
―お願いします(笑)。
リアノン:単純に好きだというのもあるけど、これ一本で何でも弾けるという、アメリカ音楽の本質をよく表わしたバンジョーだと思うから。1858年製モデルのレプリカなんだけど、その時代のバンジョーはまさにこういう音だったんだろう、という音がそのまま再現されている。現代のバンジョーには不可能な、いろんな音楽に自然と溶け込むような演奏ができるから。ガット弦と皮のヘッドという楽器自体からは世界が、そして世界との繋がりが見えてくる。中国から中東、ヨーロッパ、アメリカ……と移動してきた(弦楽器の)流れの中に、バンジョーは確かに存在しているものだと思うから。
尺八、琵琶の演奏と並んでフレットレス・バンジョーを弾くリアノン(2023年)
植民地主義からの解放と『COWBOY CARTER』
―「アメリカーナ」と呼ばれるカテゴリーのルーツには、アフリカ系アメリカ人の影響がかなり含まれている。ところが、実際に「アメリカーナ」を演奏したり聴いている人の多くは白人である。あなたはこういった状況を変えるためのアプローチもしているのではないかと思うのですが、どうですか?
リアノン:まず、「アメリカーナにおけるアフリカ系アメリカ人の影響」という表現はできればもう聞きたくはない。だって、それは(影響ではなく)「私たちの音楽」でもあるから。
―ああ、そうですよね……。
リアノン:黒人、白人、褐色という様々なルーツの人たちから生まれ、今ではまさしくアメリカの音楽。「アメリカーナ」という言葉自体はマーケティング用語。よりルーツ志向な音楽の受け皿となるべく生み出されたんだと思う。現代のカントリーミュージックがあまりにポップで商業的で、本来のルーツから遠ざかってしまったので、かつてならカントリーと見なされていたアーティストのための居場所が必要だった。今はルーツミュージックを演奏するすべての人たちにとっての受け皿に発展させようとしている。
でも元来、ルーツミュージックはすべての人のもの。60年代にフォークミュージックの概念そのものが変わったことは、現在のシンガーソングライターやアメリカーナの姿にも影響を与えた。その結果、「フォーク」と言えば、ピート・シーガーのようなギターを持った白人男性というイメージが定着した。でも、第1世代のフォークミュージシャンに影響を与えたブルースやジャズのミュージシャンたちこそが(本当の意味での)フォークミュージシャンだったと思う。ブルースも、初期のジャズも、フォークミュージックだったから。私たちは忘れがちだけど、当時はあらゆる音楽が商業的なわけではなかった。地域や労働者階級のコミュニティの中から生まれてきた音楽が、現在は商業化されているけれど、そうなる以前の姿を見つめ直そうとしているのが、ルーツミュージックのリバイバルなんじゃないかな。歌やその歌が伝える物語に目を向けるとき、そこにはあらゆる背景を持つ人々の歴史や経験が含まれていることが見えてくる。
だからこそ、私たちは音楽を語る言葉も変えていかなければならない。そもそもカテゴリーがあるのが問題。「フォークとは何か?」「ブルースとは何か?」。フォークは白人、ブルースは黒人という区分けはまるで無意味。実際には白人のブルースミュージシャンも大勢いるし、黒人のフォークミュージシャンもいる。でも売るためには何らかの分類が必要。だから私は昔から、ジャンルというものがあまり好きじゃない。だって人工的でしょ。音楽には境界線なんてなくて、自由に行き来できる曖昧な境界があるだけ。南部ではブルースっぽく聞こえるけど、別の場所ではカントリーっぽくも聞こえるなんてこともある。つまり、音楽は何にでもなれる、ってことだと私は思っている。

Photo credit by Karen Cox
―今日の話を聞きながら思ったのが、バンジョーを調べると、アフリカ系アメリカ人の歴史を考えることになり、過去の人種差別や奴隷貿易に辿りつきます。あなたの活動は大きく見ると「脱植民地化」と言えるのかなと思ったのですが、どうですか?
リアノン:ええ、バンジョーの植民地主義からの解放。「バンジョーを取り戻す」とかそういうんじゃない。ただ本当の歴史を明らかにするということ。実際、私は誰かからバンジョーを奪いたいわけじゃない。バンジョーはみんなの楽器であり、アメリカの楽器で、誰でも弾ける。でも、バンジョーの歴史を知ることは重要。アメリカについて、実際に何が起こったのか、どれだけ黒人たちが小さな枠に押し込められてきたのか……。黒人は「ブルースやジャズを作った、それだけ」みたいに言われるけど、実際はそんなもんじゃない! 日々、何ヶ月、何十年にわたるいくつもの場面で(様々な人種の人たちが)互いに学び合ってきた。アメリカが建国された1600年代からレコーディング産業が始まった1920年まで、ものすごく長い時間が流れてきた。私たちの文化は常に混ざり合ってきたわけで、私がほどいて元に戻そうとしているのは、発見されるべき歴史そのもの。
最近関わったシルクロード・アンサンブルとのプロジェクト『American Railroad』でも、アメリカの鉄道建設を助けた膨大な数の中国人移民や日本人移民について取り上げた。その家族たちは何世代にもわたってアメリカに住んでいるけど、今も毎日「お前らはどれだけアメリカ人なんだ?」と見た目だけで問われ続けている。これは黒人に限った話じゃなく、アメリカの白人ではない全ての人々の物語。彼らはアメリカが自分たちだけのものだと言いたいから、私たちに信じこませようとするけど、それ以上に現実は長く、深く混じり合っている。だからこそ、音楽でこのことを話すのが重要だと思う。音楽でなら、脅威を感じさせずに「私はただバンジョーの話をしているだけ!」と言える。でも、実は重要で差し迫った歴史の問題でもある。今のアメリカで起きてることは言うまでもなくね(苦笑)。
シルクロード・アンサンブルとの演奏(2024年)。渡辺薫(ステージ後方右のパーカッション奏者)は来日公演にも参加
―あなたは人種だけではなく、ジェンダーについても音楽の中で表現したり、言及したりしています。例えば、ジャズの歴史を調べていると、女性の器楽奏者が圧倒的に少ないことに気づきます。バンジョーの演奏を象徴する存在として、女性と器楽奏者の関係についてどんな意見を持ってますか?
リアノン:実際には、これまでにも多くの女性の器楽奏者が存在していた。特に南部ではね。プロとして活動していたかは別として、彼女たちは家庭内で音楽を奏でていた。ブルーグラスやオールドタイム、カントリーの男性器楽奏者の母親の多くも、音楽を演奏していたという背景がある。私の地域(ノースキャロライナ)だけでも、エリザベス・コットン、エタ・ベイカーなどがいた。エタは夫に演奏を禁じられていたので、夫の死後、初めて人前で演奏するようになったけど、実際には幼い頃からバンジョーやギターを弾き、そのピードモント・ブルースギター・スタイルは多くの人々に大きな影響を与えてきた。ジャズだったらInternational Sweethearts of Rhythmのような女性だけのバンドも存在していた。ヴォードヴィルの世界を見ても、演技だけでなく、楽器を演奏する女性は多かったはず。でもここでもまた、女性たちは歴史の中で忘れ去られ、埋もれてしまった。女性は伝統的に抑圧され、職場で男性と競争しないようにされてきた。家庭で音楽を奏でることと、それを生業にすることは、別物だったから。今は状況が大きく変わり、多くの女性器楽奏者がプロとして活動している。それでもまだ、ブルーグラスやカントリーの世界では厳しい面が残っているけどね。だからこそ、私がその象徴(レプリゼント)となることが重要だと感じている。私はバンジョーを弾く前は歌手で、子供の頃は楽器を演奏してなかった。だからこそ、女性として楽器を演奏すること、そして黒人女性としてその存在を示すことに、意義を感じている。なぜなら、その数は今も決して多くはないから。それでも、状況は確実に変わりつつあるのも確か。
―最後はビヨンセの『COWBOY CARTER』について。「TEXAS HOLD 'EM」に参加したことは、あなたにとってどんな意味を持っていると思いますか?
リアノン:あの1曲にバンジョーで参加できたのは素直に嬉しい。バンジョーは世の中に広く知られた楽器だけど、あの曲での私のバンジョーはとてもユニークに聴こえると思う。そのことには感謝している。
―僕は大学の授業でバンジョーのことも話すのですが、今年は「TEXAS HOLD 'EM」をかけると学生が顔を上げて、例年より聞いてもらえた感覚があったんですよね。
リアノン:だから私はあの仕事を引き受けたのよ! バンジョーを教えている人と話すと、あの曲以来、バンジョーを習いたいという生徒が増えているそう。アルバムの中でバンジョーが聴こえるのは、あの1曲だけ。もう一か所あった? いずれにせよ、私としては「やります!」と引き受けたし、やって良かったと心から思っている。

リアノン・ギデンズ&フランチェスコ・トゥリッシ
with special guest 渡辺薫
2025年3月1日(土)~3日(月)ブルーノート東京
詳細:https://www.bluenote.co.jp/jp/artists/rhiannon-giddens/
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