10年前、ローリングストーン誌がキース・リチャーズの特別コレクターズ・エディションを出版した際、マリアンヌ・フェイスフルは友人への感動的な賛辞を寄稿した。「私はキースを世界中でほとんど誰よりも愛している」と彼女は記した。フェイスフルは、17歳だった彼女のキャリアの転機となったバロック・ポップ・バラード「As Tears Go By」を共作してくれたことへの感謝を述べた。1964年にリリースされたこのシングルは、リチャーズとミック・ジャガー(マネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムも共同クレジット)による初のオリジナル曲でもあった。同年、リチャーズは彼女がカバーしたボブ・ディラン「Blowin' in the Wind」でアコースティックギターを演奏している。
フェイスフルはその文章のなかで、リチャーズが彼女にロバート・ジョンソンやマディ・ウォーターズといったブルースの巨匠たち、そして後に二人で録音することになるマール・ハガードの「Sing Me Back Home」を紹介してくれたことにも触れた。また、1967年のリチャーズ邸での薬物取り締まり後、イギリスのタブロイド紙から攻撃を受けた際の彼の擁護にも感謝を示した。ストーンズは1971年の『Sticky Fingers』に、彼女の薬物との闘いについてジャガー、リチャーズと共作した「Sister Morphine」を収録。「共に過ごした日々のすべてが、私たちの絆を深めてくれた」と彼女は振り返った。
フェイスフルは70年代後半から80年代にかけて音楽的に開花。『Broken English』や『Strange Weather』で、カントリーからニューウェイブ、ポストパンク、ジャズまでを横断した。後者には「As Tears Go By」の新アレンジが収録され、40歳で録音されたそのバージョンは、年を重ねて深みを増した彼女の声と見事に調和していた。
先月フェイスフルが逝去した際、リチャーズは二人の写真とともに、彼女の遺族への心からの弔意を表明した。ローリングストーン誌の最新インタビューで、今年ジャガーとのスタジオ入りを予定しているというギタリストは、親友の死について率直に語っている。「ある程度は覚悟していた」と彼は言う。「彼女の健康状態は良くなかった。本当に悲しい」。追悼インタビューの中で、リチャーズは彼女の不屈の精神を永遠に記憶に留めるべきと語った。以下は、リチャーズ自身の言葉でフェイスフルを偲ぶ内容である。
「As Tears Go By」制作秘話、マリアンヌの歌声と彼女の影響
マリアンヌは素晴らしい友人で、とても強い女性だった。彼女が年齢を重ねていく様子を見守るのは興味深かった。初めて会った時、彼女は修道院(セント・ジョセフ・ローマン・カトリック修道院学校)を出たばかりでね。
彼女はストーンズの初期のマネージャー、アンドリュー・オールダムの下にいた。彼は俺とミックに「前に進むには本当に曲が必要だ。ビートルズを見てみろ」と言い出した。俺が「わかるけど、俺らはブルースバンドだよ」と返すと、アンドリューは「一晩キッチンに閉じ込めるから、何か作ってみろ」と。俺は「まあ、いいだろう。がんばってみるよ」と答えた。そうして俺たちは一晩中キッチンで苦労しながら「As Tears Go By」を作り上げたんだ。
翌日、俺がアンドリューに聴かせたら、ヤツは「いいね」って言ったんだ。1週間もしないうちに、アンドリューがマリアンヌが歌ってる録音を俺に聴かせてきて、俺は「おお、随分早いじゃないか。この子は誰だ?」と言った。そこでアンドリューが俺たちを引き合わせたってわけさ。
マリアンヌはレコーディングに関して全くの素人だったんだが、驚くほど自信を持って臨んで、見事にやってのけた。もう自信に満ち溢れてたよ。当然、ミックと俺は顔を見合わせて「これだけ作曲できるなら、もっとやろうぜ」って思ったわけさ。
当時のマリアンヌの声は、すごく純粋で訓練されたものではなかったけど、そこが素晴らしかったんだ。年を重ねて声は変わっていっても、あの誠実さは常に持ち続けていた。自分のやることに真摯だったな。音楽を愛していたけど、ショービジネス的な虚飾は微塵もなかった。最初のレコードを聴くと、その声は信じられないほど純粋でシンプルなのに、ちょうどいい個性があってね。それをどう扱えばいいか、彼女はわかってたんだ。
マリアンヌと議論するのは至難の業だったらしい。幸い、俺にはその必要がなかったけど、他の連中の話を聞くと、それは難儀だったみたいだな。それに、すごく笑い上戸で、そういう歌手ってのは珍しいんだが、彼女には全く見せかけがなかった。
数年後、彼女がミックと一緒に暮らしてた頃、俺たちは親密な友達になった。レッドランズの薬物取り締まりのあと[タブロイド紙がリチャーズの家で、裸のマリアンヌが見つかったと報じた時]、俺は彼女を擁護したよ。女を攻撃するのは不公平だったし、それに俺の家だったからな。マリアンヌはたまたまそこにいただけさ。何の関係もなくて、ちょっと不公平だと思ったんだ。俺は擁護せざるを得なかった。

1967年のレッドランズ事件のあと、裁判所を去るフェイスフル(Photo by Bettmann Archive/Getty Images)
ミックをスタジオに迎えに行くときに彼女に会ってた。その頃、ミックに曲のアイデアを投げかけて、作詞作曲のスキルを磨いてたんだ。マリアンヌは常に何でも聴く準備ができていた。音楽への素晴らしい耳を持ってたよ。フォークとジャズが本当に好きでね。常に好奇心旺盛だった。
ストーンズの60年代の曲の中には、マリアンヌの影響が反映されているものがある。彼女は間違いなくそこにいるんだ。「You Can't Always Get What You Want」や『Beggars Banquet』の頃の曲に、その影響を聴くことができる。(『Sticky Fingers』に収録された共作の)「Sister Morphine」は、俺が手をつける頃にはほぼ完成していた。聴いた時、俺は「今、彼女は見事に自分を表現している」って思ったよ。悪魔との時間を持ってたけど、おそらく最高のドラッグソングの一つだな。視覚的にも美しい。
『Broken English』とマリアンヌへの賛辞
(1979年の)『Broken English』は、彼女がアーティストとして自分自身の主張を始めた作品だと思う。俺は『Broken English』が大好きだった。それまでしばらく彼女の消息を聞いてなかったけど、あのアルバムを聴いた時、「マリアンヌが戻ってきた。素晴らしい」と思ったよ。何年も彼女と会ったりすることはなかった。
彼女が録音した「As Tears Go By」の他のバージョンは聴いてないけど、(年配の人が歌うべき曲だと言った)言葉の意味はよくわかる。若い頃のバージョンを歌い続けることで、その曲は年齢とともに成長していくんだ。
俺は彼女と、マール・ハガードの「Sing Me Back Home」を(2007年に)録音した。彼女が録音したと聞いて、テープを送ってもらって、オーバーダブで録音したんだ。マリアンヌと俺の両方がマール・ハガードを愛していたからな。あの曲はグラム(・パーソンズ)と俺の定番だった。俺たちもマールが大好きだったんだ。
マリアンヌと最後に話したのは数年前、おそらく2022年。最後にイギリスでツアーをした時だったけど、それが基本的にマリアンヌと俺の関係だった。俺たちは常に短い時間で行き交うだけだった。素晴らしい女だったよ。俺は彼女をとても恋しく思うだろうな。
彼女は「マリアンヌ・フェイスフル」として記憶されるべきだ。完全に独特で、ユニークな性格を持ち、自分の立場を守り通した。自分のやってきたことを誇りに思うべきだ。
From Rolling Stone US.