今回、横浜アリーナ公演を終えた後のタイミングでインタビューを実施。昨年のツアー「箱庭の灯」を通して自身の今を肯定し、今回のツアー、および、アルバムを通して、自身の過去との向き合い方を定めることができた谷口喜多朗は、これから先、どのような未来に向かっていくのか。彼は、自信と確信に満ちた力強い言葉で、Teleの未来について語ってくれた。
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ー「残像の愛し方」という言葉は、今回のアルバムのタイトルとツアーのタイトルの両方に使われています。「残像の愛し方」、言い換えれば、過去との向き合い方、過去の清算の仕方、というテーマは、いつ頃から浮かんでいたのでしょうか。
アルバムのタイミングとツアーのタイミングを近いところに置くっていうことは前から決まっていて。アルバムを自分の中でどう捉えるか、2つの方向に分かれてたんですよ。アルバムの3曲目に入ってる「シャドウワークス」っていう言葉をタイトルにするのか、「残像の愛し方」っていう言葉をタイトルにするのか。シャドウワークスは、社会経済の基盤を支えているにもかかわらず報酬が支払われていない労働を指す経済用語で、当初は、ちょっと自分の考えが狭かったっていうか、まだ浅くて、アルバムっていうものをシニカルな目で見てたので、ちょっと皮肉めいて、「シャドウワークス」にしようかって考えていて。「残像の愛し方」っていう言葉は、そういう自分の作為みたいなところからちょっとだけ離れたところからポンと出てきた感じがして、純度が高い気がしたので、アルバムのタイトルにするかどうかは別として、それをまずツアーのタイトルにしようと思って。それがいつぐらいなんだろう、でも、けっこう前ですね。
ー今回のアルバムの1曲目には、「残像の愛し方」という曲が据えられていますね。
「残像の愛し方」という言葉が、ツアーだけでなく、アルバムの在り方も内包していると思った瞬間があって。ツアーのキービジュアルとか、ステージとか、そういう打ち合わせをしていく中で、自分の中で、ツアーとアルバムをどうするのかっていうことに対して、ちょうど気持ちが高まったタイミングがあって、それで、一曲作りたいと思って。
ー結果的に、今回のアルバムは、それぞれの曲ごとに、いろいろな角度から、「残像の愛し方」を描いた作品になりました。
それぞれの曲の歌詞もそうですし、例えば、「DNA」は、自分がいろいろなアーティストの音楽に影響を受けた瞬間のことを、ちゃんと歌にしようと思って書いた曲で。「残像の愛し方」って言って、過去を振り返って、恋だったりとか、人間関係だったりとかの話ばっかりだと、すごい安っぽくなってしまうなと思ったので、「DNA」は、そういった意味で、必要なピースだと思って書きました。
ー横浜アリーナ公演のMCでもおっしゃってましたけど、残像というのは、必ずしもネガティブなものだけではなくて、憧れなど、ポジティブなものもあるということですよね。
歌詞だけではなく、サウンドのリファレンス元だったりとか、そういう意味合いでも、本当にとにかく詰まりきっているという感じですね。もちろん、いろいろなアーティストの言葉に影響を受けていたりする人もいるんですけど、どうしても自分から出てくるものは、悲しい話だったり、暗い話だったりになっちゃう節はあるので。自分の中の、いい意味での、ポジティブな残像っていうものは、それぞれの曲のサウンドの中にちゃんと格納できてるのかなと思ってます。
ー横浜アリーナ公演で、今作の収録曲の一つ「あくび」を披露する前に、喜多朗さんは、「少しだけ小さい歌を」とぽろっとおっしゃっていました。僕は、小さい歌というのは、喜多朗さんご自身のパーソナルな歌と言い換えることができるんだろうなと思っていて、そうした小さな歌が、横浜アリーナという広大な空間で響いてるというギャップが、すごく感動的だったんですよ。
ありがとうございます。
ー武道館の時ももちろんそうでしたけど、横アリってもっと大きいじゃないですか。でも、そうした小さな歌、パーソナルな歌、別の言い方をすれば、僕の歌が、一人ひとりの観客との間で、しっかりとライブコミュニケーションとして成立して響いている。喜多朗さんが、ライブで、「花瓶」を歌う前に「This is our song.」と叫ぶことにも通じると思うのですが、小さな歌、パーソナルな歌が、僕たちの歌、私たちの歌へと転換、または、昇華される瞬間がTeleのライブにはあって。一つひとつの曲を作る時に、ご自身の個の先にいるリスナーや観客のことをどこまで意識してるのか、について改めて聞いてみたいと思いました。
でも、Teleを1人でもう一回始めるっていう時から、もう、僕はメンバー2人を自分の音楽で繋ぎ止められなかったっていう実感があるので。うん、なんだろうな、いわゆる個人的な感情だったりとか、それそのものに強烈な価値があるとはまだ思ってない状態からソロプロジェクトとしてのTeleは始まって。だけど、ずっと僕が、歌詞を書いたりとか、創作をしてきた原動力は、その強烈な個人の経験という、いわゆるエゴ的なものだったので、うん、そこをどうやってみんなに理解してもらえるような状態にするのかっていうことが一番の課題だったんですね。歌詞を書いてる時に、変な作為みたいなことは避けるし、これを書いてこうしてやろう、ああしてやろうみたいなのって、だいたい一過性のものでしかないので、それに対する執着はないんですけど、でも僕は、人の共感を掴み取って、僕の曲の中に入れることはできないので。だいたいは、僕の中の記憶の風景に映ってるもの全てを書ききる。
ー喜多朗さんのパーソナルな歌を介して、一人ひとりが、普遍的な感情や感覚に同時にアクセスすることができる。音楽を媒介にして、普遍に触れる、待ち合わせをする。そういう感覚を抱きながらTeleのライブを観ている人はきっと多いのではないかと思います。横アリ公演のMCで、「ミュージシャンは無力ですけど、音楽は素晴らしいんですよ」とおっしゃっていましたけど、あれはとっさに出た言葉なのか、それとも、そうした確信がずっとご自身の中にあるのか。
今回のツアーを周ってく中ですごい思ったので、これはちゃんと、横アリで言うべきだなと思ったというか。僕は、音楽で、みんなが同じ感情になるっていうのには、あんまり同意はできなくて、でも、部分的に同意というか、その部分が何かっていうと、同じ感覚を感じられるっていうよりかは、なんか、同じ感覚になっちゃったみたいな状態だと思うんですよ。で、蓋を開けてみたら、全員違ったみたいな。例えば、「Véranda」っていう曲をライブで歌うと、サビになると、みんながすごい手を振るんですよ。
ーみんなバラバラに手を振っている。
そう。一体感って言われると、たしかに会場でみんなが一つになったような気がするんですけど、でも、一人ひとりが考えてることはバラバラで、みんな違うことを考えてて、同じことを考えてたとしても、その人の中の優先度とかも含めたらみんな全然違う。中には、本当に楽しいと思って振っている人もいれば、みんなに合わせなきゃと思って振ってる人もいるかもしれない。全員が全員、全く違う理由で手を振っていて。その人が動き出すためのピースが一つだけ欠けてて、僕の曲がたまたまそこにはまった瞬間に人は動き出すんですけど、その時の感情とか動きとかは、実は全員バラバラ。たまたま、みんなが近い動きをしているだけだと思うんです。
「ミュージシャンは無力ですけど、音楽は素晴らしいんですよ」というMCを振り返ってくださりましたけど、なんて言ったらいいんだろうな、例えば、すごく自己プロデュース力が高いアーティストであれば、アーティストに力があるのかなって思ったりもするんですけど、別に僕は、創作活動以外の活動はしてないので。なんで、現在の僕がアーティスとして何かしらの力があるかって言われたら、別にない。ただ、音楽自体には、本当にある。
ーMCでも、音楽そのものが何か変える、というよりも、その人が既に変わる準備ができていて、そこに音楽がはまる時に変わる、とおっしゃっていましたね。
そうです。なんか、これは、諦めだと思われちゃったらあれなんですけど、こんだけ世の中にコンテンツが溢れている中で、相当の作為性がない音楽が一気に大衆をひっくり返すことができるのかって言われたら、簡単にイエスとは言えない気がするんですよね。だって、数十秒の動画がもうバカバカバカバカ流れてきてて、映画だって、家にいるだけで何千本の中から好きなものを選んで観れるわけで。明らかに、コンテンツよりも消費者側のほうが主導権を握っているのが今の世の中で、一曲で何かを変えようとする行為って、なんなんだろうって。僕が納得のいく過程で音楽を作るためには、一気に大衆をひっくり返すんじゃなくて、一つずつ、これはどういう人の空いているところにはまっていくんだろうっていう確認の作業が必要なのかなと思ったんですよね。これは、なんかすごく業務的な話というか。なので、やっぱりそこをちゃんと見つめておかないと、なんか気持ち悪いよなっていうところもあるんですよね。
もちろん、先ほど振り返ってくださったMCの言葉そのままの意味合いもちゃんと自分の中にはあって、みんなが既に準備ができているから、そこに曲がはまって、で、その人が救われたような気になる。本当は、自分が動いたから救われるんですよ。
ー音楽は、きっかけの一つというか。
ってことです。そうなれたことは嬉しいことなんですけどね。あとは、なんだろうな、別に、無責任になりたいわけではなくて、聴いてる人のことを信じられなくなっちゃうのは悲しい、という気持ちもあるかもしれないです。聴き手の人のほうに主導権がある状態になって、その上で、寝業みたいことをして、リスナーとか大衆をどうやって動かすかだけを考えてしまうのって、すごく、なんだろうな、聴いてくれる人を信用してない感じがするというか。
ーハックしているというか。
うん、そう。なんかそれがちょっと嫌なのかもしれないですね。あくまで、リスナーがちゃんと自分で選んで聴いていく。そこの主導権の部分にしっかりと光を当てたいというか、そういうことを自分の中で大事にしたいっていうところがあるかもしれないですね。
ー一人ひとりが、Teleの音楽を受け取ったことをきっかけとして、自分にとっての「残像の愛し方」を決めたり、自分で自分自身に対して変化を起こしていったりする。だからこそ、ミュージシャンは無力かもしれないけれど、音楽は素晴らしい。そういう構造のお話だと思うのですが、ご自身が作った音楽が、一人ひとりのリスナーや観客にとって、その人の「残像の愛し方」を決める一助になってほしい、何かを変えるきっかけになってほしい、という感覚、それは、祈りや願いと言い換えることもできるかもしれませんが、そうした感覚は、やはりご自身の中に強くあり続けていますか。
祈りですね。うん。願いっていうほど押し付けたくないというか。やっぱ、なんだろうな、人間の行為の中でも、祈りっていう行為が、僕はわりと好きなので。僕の音楽がみんなのものになってくれとかはあんまり思ってないですね。うん、一助になってほしいっていう、願いっていうよりかは、本当に、祈り。「砂漠の舟」の中に、〈もういっそ僕の吐いた嘘が、 あなたの地獄にそっと そよげば、それでいい。〉っていう歌詞があるんですけど。ライブでは、ステージを作って、照明を焚かれて、衣装を着て、その中で歌って、どこまでいっても、本当のことなんてないんで。MCで話したことだって、どこかで矛盾が生じてきますから。だけど、その嘘が、誰かにとっての一助になればいいという、祈りですね。それはありますね。それでしかない。
ー「砂漠の舟」の最後では、〈そこで待ってて〉という言葉が繰り返して歌われています。
枯れた砂漠の中に船があって、帰る場所なんていらないって思った瞬間に大量の水がだーって押し寄せて降ってきて、砂漠が水で満たされて、ようやく船を漕ぎ出せるようになった、っていうイメージが自分の中にあって。諦めた瞬間に物事が動き出すみたいなことが、僕の人生で多くて、諦めとか執着から自分が身を引いた瞬間に、世界を引いて見ることができて、潮目が変わって、ステージがどんどん変わっていくみたいなこと、往々にしてあるので。だから、僕の嘘がそよげばそれでいいんだっていう、これもまた嘘かもしれないですけど、ちょっとした諦めの祈りみたいなことを言ったことによって、ようやく、聴いている人のところに会いに行けるというか。うん、ようやく僕は、誰かから探してもらう存在じゃなくて、誰かを探しに行く存在になったっていうか。この曲、武道館が終わった後に書いたんです。武道館で、それこそ「花瓶」のイントロの合唱してる声が、上からバッて降ってきてる時に、それまで感じたことのない感情があって。これって一時的な歓びとか感動とかそういうものじゃなくて、本当に、自分の中の土壌みたいなものが置き換わったような感じがして。あの時に、うん、自分は、誰かを迎えに行く存在になったんだろうなって感じがして。
ーそれは、ご自身のミュージシャンとしての覚悟に近いのでしょうか。
ミュージシャンとしてというよりかは、人間として、のほうが近いかもしれないです。今までずっと、自分の中に、何かを待つっていう感覚があったのかもしれないです。そこから解放されたっていうのはすごいでかいですね。
ーアルバムの最後に据えられている「ぱらいそ」という曲が、ライブの一番最後に披露されたこともとても印象に残っています。この曲は、アルバムの他の曲と比べると、明確に、過去ではなく未来を向いている曲のように思います。
そうです。この曲は、1曲目の「残像の愛し方」と同時並行で作ってたんですよ。その時は曲順のことはそんなに意識してなかったんですけど。作っていく中で、本当にレコーディング直前まで歌詞を悩んでて。なので、この「ぱらいそ」という曲は、もうちょっとだけ、後ろ向きな曲というか、それこそ「残像の愛し方」っていうアルバム全体のテーマに符合するような曲になりかけてたんですけど。「残像の愛し方」のレコーディングの直前に、その曲の最後の歌詞を、〈そんな一瞬を一生、愛したかったんだ。〉から〈愛してゆくからさ。〉に変えたんです。そん時に「ぱらいそ」は、より未来のほうを向いていないとバランスが悪いって思って。なんで、急遽この曲も歌詞を変えて、その段階で、この曲が最後になることはもたぶんなんとなく決まっていたような気がしています。
ーライブのMCで語っていたように、喜多朗さんは、昨年のツアー「箱庭の灯」を通して、ご自身の今を肯定することができた。そして、今回のツアー「残像の愛し方」を通して、過去との向き合い方を定めることができた。年末には幕張メッセ公演も控えていますが、では、喜多朗さんは、これから先どのような未来に向かっていくのか、最後に聞いてみたいと思いました。
より嘘になっていくんじゃないですかね。いい意味で。創作、フィクションの度合いが高まっていくっていうか。今のこと話す、過去のこと話すと、やっぱりノンフィクションの部分が大きくなっていく。けど、僕は、創作をやると決めた段階から、いつかフィクションになっていくんだろうなっていうことはずっと思ってたので。ずっといつかその方向にいくって思ってたくせに、これまでは、なんか今じゃないかもなと思ってとどめていた。でも、すごい遠回りして、ようやく自分の中で、そのタイミングが来たというか。嘘なものにシフトしていく。それは、自分のことを書くだけじゃなくなっていくということで、それはなんだろうな、あり得たかもしれない、あり得るかもしれない、僕の話なのかもしれないし。
でも、もともと、サウンドとか曲の作りに関して言えば、例えば、じゃあ僕がこのファンクの曲を聴いてできることはなんだろうっていう、っていうように、ある意味でずっと未来を見ていたので、それをもっと拡大解釈してやっていくってことになるのかなって気がします。
ー年末の幕張メッセ公演も楽しみです。1対1のコミュニケーションの感覚、または、喜多朗さんから他でもない自分自身がバトンを受け取ったような感覚は、たとえ会場の規模が大きくなっていったとしても変わることはないんだろうと思います。
そうですね。自分のやりたいことをそのまま100パーセントでやって成り立つのは、横アリの広さがギリギリ最後だったのかもしれないなっていう気持ちもあって。今後、自分がもっとTeleっていうものを大きくしていくんだったら、基本的な考えそのものは変えないまま、なんだろうな、お客さんを不親切さみたいなものからどれだけ遠のかせていけるか、そのバランスを取っていくことが必要になる気はしてるので。ただ、おっしゃって頂いたように、お客さんとの1対1の繋がりみたいなものは、どこまで大きくなってもあるようになれるといいなとは思います。
ーTeleという存在を大きくし続けていきたいという気持ちは、一貫して強いですか。
ありますね。この間、「喜多朗は、ラジオとかライブとかで喋ってる感じと、普段喋ってる感じが何にも変わんないのがすごいね」って言われたことがあって。普通は、アーティストの人って切り替えるスイッチがあるらしくて、でも、僕は、何もスイッチとかないんですよ。そんな人間が、おっきい会場でヘラヘラしてたらおもしろいなって。ちっちゃい頃、ヘラヘラしちゃいけませんって怒られたんで、すごいでっかいとこで、あの時ダメって言われたことを、何万人の前でやってんだぞって、小学校の先生を呼んで見せたい。だから、これからも変わらず、Teleを大きくしていきたいです。
<リリース情報>

Tele
『残像の愛し方、或いはそれによって産み落ちた自身の歪さを、受け入れる為に僕たちが過ごす寄る辺の無い幾つかの日々について。』
2025年4月23日(水)発売
CD+Blu-ray盤 ¥8800(税込)
CD盤 ¥3850(税込)
=CD収録内容=
1. 残像の愛し方
2. ロックスター
3. シャドウワークス
4. 箱庭の灯
5. 包帯
6. 初恋
7. Véranda
8. 東京宣言
9. 金星
10. サイン
11. DNA
12. カルト
13. ホムンクルス
14. あくび
15. 鯨の子
16. ブルーシフト
17. ことほぎ
18. 花筏
19. ひび
20. 砂漠の舟
21. ぱらいそ
=Blu-ray収録内容=
箱庭の灯at日本武道館(2024年6月1日)
1. カルト
2. ホムンクルス
3. 夜行バス
4. Véranda
5. 初恋
6. 誰も愛せない人
7. クレイ
8. 鯨の子
9. 花筏
10. ロックスター
11. 私小説
12. 金星
13. ことほぎ
14. comedy
15. バースデイ
16. 花瓶
17. 箱庭の灯
ENCORE
18. アンダルシア
19. 生活の折に
特典映像:あの視点・その視点 vol.1
アルバムの予約・購入はこちら
https://Tele.lnk.to/zanzou_album
<ライブ情報>
ワンマンライブ
ONE MAN LIVE 2025
12月13日(土)幕張メッセ 国際展示場 9-11ホール
OPEN 16:00/ START 17:30
チケット先行 https://eplus.jp/tele/
HP | https://tele.jp.net