『Instant Holograms On Metal Film』フル試聴
初期作をめぐって──ミニマリズムと反復の美学
2009年に活動休止を発表したステレオラブが、2019年の活動再開に合わせて自身のレーベル〈Duophonic〉と〈Warp〉からスタートさせた一連のリイシュー・プロジェクトは、かれらの足跡を紐解き、そのレガシーの再評価を呼び起こす重要な契機となった。もちろん、活動休止の間/再開後も各メンバーは個々にさまざまな形で精力的に活動を展開していたが、オリジナル・アルバムから希少なコンピレーション作品まで網羅した膨大なアーカイブから立ち上がるステレオラブの”全景”をあらためて前にしたとき、かつてトータスのジョン・マッケンタイアが、バンドのリーダーであるティム・ゲインについて言った言葉──「完全に百科全書的な知識を持っていて、それはけっして誇張ではない」──を思い出さずにはいられない。そしてこの言葉はそのまま、ステレオラブというプロジェクト全体を言い当てたものでもあるだろう。あるいは、「究極のレコード・コレクション・ロッカー」とも評されるかれらのディスコグラフィーに尽くされた多様な音楽的ヴォキャブラリーは、後述するように、そのヴァリエーションと情報量において文字通り「百科全書」と呼ぶにふさわしく、広大で圧倒的だ。
ゲインの言葉を借りれば「”ハイ・コンセプト”なポップ・グループ」として構想されたというステレオラブ。だが、とりわけ”ポップ”という部分に関して初期のかれらが、何か大きなテーマやアイデアに基づいて緻密に設計された音楽をつくり上げるための十分な「手札」をすでに持ち合わせていたかと言えば、必ずしもそうではない。
ゲインが15歳のときに地元エセックスで始めたハーシュノイズ/パワー・エレクトロニクス・バンドのアンコミュニティ(Unkommunitim)、「C86」系のメロディックなインディ・ロックだった前身的グループのマッカーシーをへて結成されたステレオラブの初期のサウンドをまずもって特徴づけていたのは、むしろ対極にあるようなミニマリズムへの傾倒だった。反復の美学、4つ打ちのモータリックなリズム、加えてアナログ・シンセの多用──すなわちそれは明白な「クラウトロック」の引用であり、ゲインいわく、具体的にはノイ!やファウスト、カンの影響、さらにはリース・チャタムやグレン・ブランカといったニューヨークの前衛も意識したミニマルなアプローチとナイーヴなポップ・メロディの組み合わせが、初期のステレオラブの基本スタイルだったと言うことができる。サウンドの低音部をあえてシンプルに保つことで高音部が自由に変化するスペースを用意し、彼らの代名詞であるファルフィッサ・オルガンが生み出す、たゆたうようなドローン・ノイズが深く催眠的なトランス状態を誘発する。例を挙げるなら、1stアルバム『Peng!』(1992年)の「Mellotron」、あるいは「We're Not Adult Oriented」(1993年)や「Ulan Bator」(1994年)といった初期のアウトテイクスを取り出してみても、そのワンコードの直線的なグルーヴを探求した”オーセンティック”なスタイルからは、かれら/ゲインがアモン・デュールやクラスターの熱心なリスナーだったことがありありと聴き取れるだろう。
そして、2ndアルバム『Transient Random-Noise Bursts with Announcements』(1993年)収録の、ナース・ウィズ・ウーンドのスティーヴン・ステイプルトンと共作した「Exploding Head Movie」との合体ヴァージョンである「Jenny Ondioline」は、18分に及ぶ長尺の反復を通じてヴェルヴェット・アンダーグラウンドからスーサイド、シルヴァー・アップルズに連なるロックのミニマリズムを演繹してみせた、初期のステレオラブにおける最も野心的で決定的な瞬間を捉えた楽曲と呼びたい(同曲のシングル版のカップリング曲だった「French Disko」も”クラウティー”なギター・ロックの名曲だ)。
そんなステレオラブの初期のレコードについて、「常に同じように聴こえ、常に異なる、果てしなく魅惑的な作品群」と評したのは音楽評論家のサイモン・レイノルズ(『ポストパンク・ジェネレーション 1978-1984』)だった。
それまでのステレオラブでは、ゲインがデモを持ち込み、それをリハーサルで演奏して発展させていく”スタジオでのライヴ・バンド”的な作曲方法が取られていた。対して、『Emperor Tomato Ketchup』でかれらが採用したのは、メンバーそれぞれにループ・フレーズを演奏させ、それらを”素材”として組み合わせていくことで、より複雑で構築的なサウンドを探るというアプローチ。ゲインいわく、それは「音の並置の実験」、直線的ではなく「より円形的」な曲づくりへのシフトだった。つまり、あらかじめ完成形を思い描いて曲を書いていくのではなく、ミニマルなパターンをレイヤー化し、反復と変化を織り交ぜながら円環的・動的に楽曲を構築していく試みであり、ミニマリズムをもう一段階、推し進めたような方法論だったと言える。
ちなみに、当時のゲインはサン・ラをよく聴いていたらしく、その衝撃について「ベース・ライン、リード・ライン、ヴォーカルのメロディーはすべて、互いに”ラップ”するように構成されていた。個々のラインは後で楽器や声に割り当てられ、それらは交換可能だった」と後年インタビューで語っている。ゲインがそこで見出したのは、各パートが互いに独立しながらも有機的に絡み合うポリフォニックな構造であり、音色や演奏パートの役割を固定せず、まずは抽象的な構造を設計し、そこに後から音を実装していく──この発想は、ミニマル・ミュージックのレイヤー的な構造美とも響き合うものであり、のちに『Emperor Tomato Ketchup』で採用される”ループの組み合わせによって非リニアに曲を構築する”アプローチの重要なきっかけとなった。
その成果としてゲインが例に挙げるのが、『Emperor Tomato Ketchup』の冒頭を飾る「Metronomic Underground」である。タイトなファンク・グルーヴを維持しながら、リズムの推移に合わせてオルガンやキーボードの神々しいコーラス、分厚いドローンが重なり合い無秩序に呑み込まれていく8分間のトリップ——その圧倒的な没入感と音響の多層性は、かたやノイ!への信仰告白のようなタイトル・トラック「Emperor Tomato Ketchup」と比較したとき、その音楽的な飛躍ぶりは明らかだ。単純なコード・ループとビートに浮遊感のあるシンセをレイヤーしていき、反復的ながらも浮遊感あるリズム構造を形成して時間感覚を拡張するような「Percolator」も素晴らしい。
シカゴ音響派との邂逅──「編集主導」の音楽的探求
よく知られている通り、前作『Emperor Tomato Ketchup』にも参加したトータスのジョン・マッケンタイア、そしてマウス・オン・マーズのアンディ・トマ(相方のヤン・ヴェルナーもエンジニアリングを担当)を共同プロデューサーに迎えた『Dots and Loops』では、Pro Toolsを使用したハードディスク・レコーディングが本格的に導入されている。ベースやギター、ドラムといったバンドの演奏はフレーズ単位で録音され、あるいはループ素材/サンプリング・ソースのように切り出して再構成し、自由に編集可能なモジュールとして扱うことで、パート間の関係性や音色の相互作用、コードの転回やメロディーの接続といった構造をスポンテニアスに探る手法がとられた。結果、新たな構成やアレンジの獲得を可能にしたこの制作は、従来の「演奏して録る」というスタイルから大きく逸脱した”編集主導”の音楽的探求だったと言え、マッケンタイアは自身にとっても初の試みだったこの経験を振り返って「レコーディングはもちろんのこと、アレンジや曲を仕上げるうえでも非常に重要だった。テープだけだったらあそこまでできなかった」と後年語っている。果たして、デジタル・テクノロジーによって作曲と演奏、録音、編集/編曲が自由に組み合わされ、そのシームレスな融合によって細部まで精密にコントロールされたレイヤー・サウンドを獲得した『Dots and Loops』は、翌年にリリースされたトータス『TNT』を先駆ける ”ポスト・ロック”のひとつの到達点だった、と見ることもできるだろう。
生演奏とプログラミングの融合、そして以降の作品が同じくすべてデジタルとアナログ・テープのハイブリッドで制作されるようになったという意味でも、『Dots and Loops』はステレオラブのキャリアにおいてメルクマールとなる作品だった。一方で『Dots and Loops』は、クラウトロックと並びかれらのトレードマークとなったラウンジ・ミュージックやボサノヴァ、エキゾチカ──しばしばエスキヴェルやバート・バカラック、エンニオ・モリコーネといった名が引き合いに出される──といった”ミューザック”的なサウンドへの傾倒を大きく深めた作品でもあった。
そうした要素は1994年の3rdアルバム『Mars Audiac Quintet』(「Ping Pong」)や『Emperor Tomato Ketchup』(「Cybeles Reverie」)などこれまでの作品でも端々に聴けるものだったが、『Dots and Loops』ではレイヤー構造による精緻な作曲が推し進められ、(初期にステレオラブのメンバーも務めた)ハイ・ラマズのショーン・オヘイガンも関わるストリングスやホーン・セクションを迎えたオーケストレーションが彩るサウンドは、90年代初頭に北ロンドンでシューゲイザーやブリットポップのファンを前にドローン・ロックを演奏していた頃のかれらとは隔世の感を与えるものだろう。あたたかなムーグとヴィブラフォンのループがチルアウトを誘う「Brakhage」に始まり、エキゾチックなワルツ調の「The Flower Called Nowhere」、サウダーヂ薫るアコースティックが涼やかな「Rainbo Conversation」をへて、4部構成の長大な「Refractions in the Plastic Pulse 」へ──。その複雑に絡み合うメロディとリズムが豊かな相互作用を生み出す展開は、かつてゲインが掲げた「”ハイ・コンセプト”なポップ・グループ」というヴィジョンがいよいよ本格的に結実しつつあることを窺わせるものだった。
そして、その「百科全書」的な志向がいっそう花開くこととなるのが、続く6作目『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』(1999年)である。
ゲインいわく、『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』はすべての楽曲が”リズム”から先につくられた作品で、影響源に挙げるスティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスも重なる「Blips, Drips and Strips」や、アフロビート的な構造をクールに引用した「Op Hop Detonation」、サイケデリックな空間の中でリズム・パターンが絶えず変化しながら続く「Infinity Girl」など、主にマッケンタイアのプロデュースの楽曲ではリズムの揺らぎと配置によって独自の浮遊感が際立つ。
対して、フレンチ・ポップやイエ・イエを魅惑的にアレンジした「The Emergency Kisses」や、ストリングス/ホーン・アレンジとマリンバが忙しなく絡み合いヒプノティックなアンサンブルを奏でる「Puncture in the Radax Permutation」、あるいはビーチ・ボーイズ風のサンシャイン・ポップ「The Spiracles」といったオルークが手がけたナンバーでは、生楽器を多用したシンフォニックなレイヤー構成が印象を残し、それこそ『Eureka』ともシェアする60年代の装飾的なポップ・ミュージックへの愛をDAW(デジタル編集)によるループ構築(あるいは、”ジャストで繋げないこと”で生まれる微妙な揺らぎ、ズレを孕んだ反復)の中に落とし込むという「実験」の手応えをそこには聴くことができるのではないだろうか。オス・ムタンチスをライヴ・ジャズ・バンドがカヴァーしているような複雑なコード進行の「The Free Design」、ハイ・ラマズの名コラボレーターとしても知られるケヴ・ホッパーのミュージカル・ソーがオリエンタルな音色を響かせる「Caleidoscopic Gaze」、Pro Toolsとアナログ・テープ/24トラックのミックスを組み合わせたアブストラクトで広大な音響モノリス「Blue Milk」(当時オルークがサポート・メンバーを務めるなどしていたソニック・ユースの『SYR』シリーズも連想させる)など、構成的にも聴覚的にも刺激に満ちた楽曲が並ぶ。なお、ゲインは当時のインタヴューで「僕たちはどのアルバムでも、できるだけオープンに、かつ自分たちを定義する強力な”エッセンス”をもってレコーディングに臨むように努めている」と語っていて、それがもっとも成功した例として同作を挙げている。
ジョン・マッケンタイアとジム・オルークは、次の7作目『Sound-Dust』(2001年)でも共同プロデュースを担い、ジャジー・エレクトロニカな「Space Moth」やゴーシャスなハープが飾る「Baby Lulu」、浮遊感漂うチェンバー・ポップの「Hallucinex」といった、『Dots and Loops』や『~Milky Night』をへて拡張されたサウンド・パレットをさらに洗練させたような楽曲を生み出していく。そして、ジャズ、エキゾチカ、ボサノヴァ、ラウンジ、ソフト・ロック、60年代ポップ、さらにはバロック音楽……をブレンドすることでオーケストラ・ポップ・グループへと変貌していくこの時期のサウンドは、2000年代以降のステレオラブのディスコグラフィーにおいて基調をなすものとなるのだが、かれらのキャリアを振り返ったとき、その起点には、このマッケンタイアやオルークを始めとした同時代のシカゴのミュージック・シーンとの緊密な関わりがあったことをあらためて指摘しておきたい。
エンジニアリングやミキシングなどのプロダクション以外にも、マルチ奏者として制作に深く関わったマッケンタイアとオルークに加えて、トータスのダグ・マッコームズ、シカゴ・アンダーグラウンドのロブ・マズレクやチャド・テイラーといった腕利きのプレイヤーたちが該当作品のレコーディングをサポート。そして、マッケンタイアのSoma Studioで録音された『Sound-Dust』では、ウィルコのグレン・コッチェやミカエル・ヨルゲンセンも迎えられ、「Captain Easychord」や「Gus the Mynahbird」のような、室内楽やカントリーとニューエイジやレイモンド・スコットが溶け合って滲んだようなストレンジ・ポップに彩りを添えている。とりわけ録音環境においてはデジタル化が急速に進んだ一方で、サウンド面においては生音感を活かした有機的な手触りをステレオラブが失わなかったのは、その辺りの差配に長けたシカゴにミュージシャンたちの感性や演奏技術に支えられていた部分も大きかったのではないだろうか。
そして、デジタルとアナログ、構築と即興、構築性と柔軟性のあわいを行き来するこのステレオラブの音楽的態度は、左右のチャンネルを完全に分けた”Dual Mono”ミックス手法(※曲ごとにそれぞれ異なるアレンジで2つのレコーディングを行い、両方のレコーディングを同期させて最終的なミックスをつくりあげる)を導入した8作目『Margerine Eclipse』(2004年)においてさらに深く探求されていくことになる。
拡散する遺伝子──ヒップホップやインディへの影響
ところで、かれらが『Emperor Tomato Ketchup』でバンドにループを演奏させるという発想に至ったきっかけとして、ゲインがサン・ラを聴いて「ラップ」みたいだと思った、という前述のエピソードはあらためて興味深く思われる。というのも、それはヒップホップがジャズをサンプリングしてきた歴史を思い起こさせるという以上に、ステレオラブの音楽こそが同時代のラッパーやビートメイカーに格好のサンプリング・ソースを提供してきたという事実があるからである。加えて興味深いのは、そのサンプリングされた楽曲は、ステレオラブがまさに音楽構造を進化させた『Emperor Tomato Ketchup』や『Dots and Loops』以降のものが多くを占めていることだろう。
たとえば、バスタ・ライムス、J・ディラとマッドリブ(=Jaylib)は揃って『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』から「Come and Play in the Milky Night」をサンプリングし、ブランディは1996年リリースのEP『Fluorescences』の表題曲を取り上げている。他にも、9th・ワンダー、デイダラス、プロ・エラ、故マック・ミラー、最近だとジャック・ハーロウまで……なかでも、9作目の『Chemical Chords』(2008年)──ショーン・オヘイガンのストリングス・アレンジが冴え渡る、ステレオラブの最もオーガニックで60年代ポップへのオマージュに溢れたポップ・アルバム──をフェイバリットにあげるタイラー・ザ・クリエイターは、サンプリング(「Plastic Mile」、2005年)に加えて、自身のアルバム『Wolf』でメンバーのレティシア・サディエールをゲストに迎えるなど、ステレオラブへのリスペクトの深さは有名だ。また、ジャミーラ・ウッズもサンプリングした『Dots and Loops』収録の「The Flower Called Nowhere」を「セックスするときに最高の曲」とリコメンドしたのはファレル・ウィリアムスだった。ステレオラブの雑多な音楽遺産を独自の構造と美学で再編集するサウンドは、いわば”ディガー向けのジュークボックス”としてラッパーやビート・メイカーを惹きつけてきたことをその”顧客”リストは物語るようである。
「The Flower Called Nowhere」を気持ちよさそうに聴くファレル・ウィリアムス
そして言うまでもなく、ステレオラブの音楽が魅了してきたのは、ラッパーやビートメイカーだけではない。そのポリフォニックな構造感覚、反復を軸としたグルーヴの構築手法は、オルタナティヴ~インディ・シーンにも深く浸透し、多くの後続のアーティストに継承されている。
たとえば、テーム・インパラのケヴィン・パーカーは、ステレオラブのミニマリズムとグルーヴの構築に強い影響を受けたことを公言していて、なかでもかれらの代表作『Lonerism』は、反復によるトランス感覚やモータリックなリズムを基調としたクラウトロック的アプローチ、催眠的なベース・ラインとサイケデリックなプロダクションにおいて『Emperor Tomato Ketchup』の翻案を思わせる場面が少なくない。ジュリア・ホルターやメロディーズ・エコー・チャンバーのように、実験性とポップのあわいで60~70年代のサイケデリック・ミュージックを現代的に再構築する姿勢が重なるアーティストもいる。そして、リズムというよりレイヤーされたヴォーカルやメロディのアレンジにポリフォニーが際立つビーチ・ハウスは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやノイ!に範を取るトランシーでミニマルなポップネスを『Peng!』と共有し、オールウェイズはそのシンセのレイヤードとメロウなヴォーカルの配置に、『Transient Random-Noise Bursts With Announcements』が留めるシューゲイザーの面影と『Sound-Dust』のフレンチ・ポップの余韻を忍ばせている。
一方、トロ・イ・モアのチルアウトしたエレクトロニカ、クルアンビンやアンノウン・モータル・オーケストラのエキゾティシズム溢れるインストゥルメンタル/グルーヴィーなアンサンブルには、ジャンルの越境性/折衷主義を複雑なアレンジと多層的な音響で深化させた『Dots and Loops』の反響を聴き取ることができないだろうか。ちなみに、ディアハンターのブラッドフォード・コックスは『~Milky Night』をオールタイム・ベストの一枚に挙げ、その魅力を「聴覚のザナックス(抗不安薬)」と評している。
また、近年のロンドン発のバンド勢にもステレオラブの影響やその余波を見つけることはできるだろう。ブラック・カントリー・ニュー・ロードのジョージア・エラリーが始めたジョックストラップの、クラシックとエレクトロとポップの境界を越えるサウンドには、2000年代以降のステレオラブが追求してきた音響的探求と響き合う部分があるし、ミニマルで反復するギター・リフと抑制の効いたリズム・セクションをバックに歌う、ドライ・クリーニングのフローレンス・ショウのスポークン・ワード風のヴォーカル・スタイルには、レティシア・サディエールのクールで硬質な語り口を思わせるところがある。そして、デビュー時のクラウトロック的なスタイルから室内楽やクラシック、アンビエント/ドローンへと音色やリズムの構造/構成を急速に拡張させるスクイッドの軌跡は、まるでステレオラブの変化のハイライトを凝縮して見させられているように刺激的で目覚ましい。
さらに、ステレオラブのプリミティヴな実験精神と遊び心──〈Drag City〉からリリースされた『Aluminum Tunes (Switched On Volume 3)』(1998年)が伝える、DAW黎明期のカットアップ構成/コラージュ的センスを受け継ぐスピリット・オブ・ザ・ビーハイヴのようなUSインディーズの新鋭。ブルックリンのクラムはステレオラブのドリームポップ的な音像をジャズやラテン・フィールのリズムで再構築するサイケデリックの手練れで、かたや、反復と余白の効いた器楽構成で魅せるホースガールの新作『Phonetics On and On』は、まるでファウストのアヴァン・ポップを発展させた30年後の『Mars Audiac Quintet』のようだ(プロデュースを務めたケイト・ル・ボンは彼女たちにとってのジム・オルークのような存在だろうか)。
15年ぶり新作の制作背景──活動休止を経ての「継承と更新」
こうした多方面から寄せられるリスペクトの眼差し、そこかしこに散見される影響のサインの一方で、2009年の活動休止以降の時間は、メンバーそれぞれにとって個々の音楽的関心を掘り下げ、独自の表現を追求する──そして他でもなく、ステレオラブが現在に至るまでプレゼンスを維持し続ける礎となった──重要な時期だった。たとえばゲインは、クラウトロック・トリオのキャヴァーン・オブ・アンチマターとして制作を続け(2016年の2ndアルバム『Void Beats/Invocation Trex』にはソニックブームやブラッドフォード・コックスが客演)、さらにダイマキシオンのジェレミー・ノヴァクとアヴァン・ポップ・デュオのゴースト・パワーを結成する傍ら、マウス・オン・マーズやディアハンターのアルバムにプロデューサー/プレイヤーとして参加。さらに映画音楽の制作にも乗り出す一方、2000年代からモナード名義でソロ活動を始めたサディエールは、昨年の『Rooting for Love』(2024年)を含む5枚のアルバムを本名名義で発表。加えて、ブラジリアン・ポップ・ユニットのモダン・コスモロジーや、トータスのジョン・ハーンドンも名を連ねるリトル・トルネードスなどのプロジェクトにも関わりながら、前述のタイラー・ザ・クリエイターをはじめサーストン・ムーアやパルプのジャーヴィス・コッカーらと共演を重ねてきた。
「音楽の扇動者として、僕にはやってみたい音楽がある。

Photo by Joe Dilworth
1990年の結成以来、ゲインとサディエールを残してメンバー・チェンジを重ねてきたステレオラブだが、今作では前作『Not Music』まで長年ベースを務めたサイモン・ジョンズが離脱し、2019年の再結成ツアーから帯同していたザヴィ・ムニオスが正式に加入。なお、ムニオスは過去にサディエールのソロ作品でサポートを務めたことがあり、今作のゲスト・プレイヤーには、サディエールとはモナド時代から共演のあるマリー・メルレ(バッキング・ヴォーカル)や、キャヴァーン・オブ・アンチマターのメンバーのホルガー・ザップ(エレクトロニクス)も名を連ねている。
加えて、他にも多彩なミュージシャンが参加しているなかで目を引くのは、あらためて存在感を放つシカゴのミュージック・シーンとのコネクションだ。なかでもその一人が、同地の先鋭ジャズ・レーベル〈International Anthem〉に所属するボトル・トゥリーのメンバーで、かねてよりサデイェールがラブコールを寄せていたコルネット奏者のベン・ラマー・ゲイ(マカヤ・マクレイヴンと多数の共演がある)。そしてもう一人が、〈Drag City〉が誇るサイケデリック・ドローン・バンド、ケイヴやビッチン・バハスを率いるクーパー・クレインで(後者で同僚のロブ・フライも参加)、演奏と併せてレコーディング/エンジニアリングを務めるなど音響設計の面でも重要な役割を果たしている。ちなみに、ビッチン・バハスはステレオラブがキュレーターを務めた2023年開催のオランダのフェスティヴァル「Le Guess Who?」にも出演していて、他にもメンバーがセレクトしたアクトのラインナップ──ESG、ムーア・マザー率いるイレヴァーシブル・エンタングルメンツ、ジェームズ・ホールデン、トム・スキナー(サンズ・オブ・コメット/ザ・スマイル)、アフリカン・サイエンシズ、元ズン・ズン・エグイのヤマ・ワラシ、ロンドンのポスト・パンク/ハードコア・バンドのシェイク・チェイン、さらにリース・チャタム──からは、直近のかれらがどんな方向に音楽の関心を広げていたのかが窺えるかもしれない。
ステレオラブのディスコグラフィーは、その変化し続けるスタイルと音楽的野心、網羅するジャンルの広さゆえ、明確な色分けを試みること自体が難しい。その音楽的進化はつねに複層的で、むしろかれらの作品は、一曲のなかに複数の音楽的要素を撚り合わせ、一曲ごとの濃淡や差異を絶妙に調和させていく過程そのものが核となっている。その上で、『Dots and Loops』や『~Milky Night』以降、Pro Toolsを駆使したポスト・プロダクションによって音響的な実験性を高めてきた過程と比較したとき、今作のたとえば「Aerial Troubles」や「Vermona F Transistor」といった楽曲からは、70年代のエクスペリメンタル・ロックと60年代ポップを直線的に繋いだかれらの”原点”とも言える手触りが感じられるかもしれない。あるいは、モータリック・ビートの上でメロディアスなヴォーカルと多彩な楽器を交えたアンサンブルが展開し、軽やかに旋回するホーンと表情豊かなパーカッションが耳を惹く「Immortal Hands」や「Le Coeur Et La Force」には、ラウンジとアヴァンギャルドを軽やかに行き来するステレオラブの持ち味よく表れている。そして、「感電した10代の少女!」と題したタイトルの如く(?)、「Electrified Teenybop!」の鋭くうねるシンセのグルーヴとエレクトロニックの暴発は、スーサイドやノイ!を彷彿とさせるミニマルな推進力とポスト・シンセウェイヴ的な硬質さが絡み合い、ジャンルを穿つような緊張感と高揚が交錯していてスリリングだ。
ところで、ゲインは直近のMOJOのインタビューに答えて、今作が制作された経緯にはドラマーのアンディ・ラムゼイの存在が大きかったことを仄めかしている。というのも2023年の夏に新しいアルバムについて話し合いを始めた時点で、すでにラムゼイの中には用意していたアイデアがあったようで、バンドはその年の秋には作業に取り掛かり、わずか6週間ですべての曲を書き上げたという。
92年(アルバムでは『Transient Random-Noise Bursts with Announcements』)からバンドに参加する(ゲイン、サディエールに次いで)古参メンバーのラムゼイだが、かれのグループへの貢献度についてゲインはTape Onのインタビューで「かれは素晴らしいドラマーであるだけでなく、サウンドにも強い関心を持っている。ドラムマシンにとても詳しく、音の探求という意味でも私たちを本当に助けてくれた。それは、私たちがコンピューターに求めていたものだった」と語っている。こうした言葉からは、ラムゼイがバンドの曲づくりの一翼を担う「ソングライター」として重要な役割を果たしてきたことが窺えるが、そう考えたとき、ラムゼイがステレオラブの活動休止の間、エンジニアリングや演奏のサポートとしてキング・クルールやマウント・キンビー、ニルファー・ヤンヤ、イヴ・トゥモアらの制作に携わったことはあらためて興味深く思える。というのも、かたやゲインやサディエールの活動が、ステレオラブの音楽的美学を継承するものとしてそれまでの延長線上に位置づけられるものであったとすれば、ラムゼイの仕事は言うなれば、より今日的な潮流との接続点を探ろうとするような側面を併せ持った試みであり、バンドに異なる角度からのアップデートをもたらしうるものだったからだ。
それはたとえば、レゲエのリズムで揺れる「Colour Television」のダビーな質感。アルバムは後半に入るとより柔らかく、開かれた方向へと傾斜していき、「Flashes From Everywhere」では木管/管楽器が溶け合いながら、アンドレ3000やカルロス・ニーニョの諸作も思わせるスピリチュアル・ジャズ/ニューエイジ的な気配を立ち上げ、ステレオラブのリズムやハーモニーの輪郭に新たな色彩を与えている。また、「Transmuted Matte」や「Esemplastic Creeping Eruption」は、サディエールが長年のプロジェクトを通じて探求してきたヴォーカル・アンサンブルの探求がバンドの文脈へと還元された成果と言えるのではないだろうか。多重録音によって声が「音」そのものとして構築的に配置され、共鳴し合いながら空間を満たしていく一方、とりわけ女性のコーラスがステレオラブの演奏と重ねられる瞬間は、2002年に急逝したメアリー・ハンセンの面影をそこに思い起こさせられずにはいられない。彼女がかつてバンドにもたらしていた柔らかな重力のような存在感が、いま再び、別のかたちで蘇っているようにも感じられる。
対して、サディエールの歌声が余韻を残してフェードアウトするや、クランチーなブラスを合図に荒々しいジャムを始める「Melodie Is A Wound」は、まるでラウンジ・ミュージックという形式そのものを自己解体し、新たなハイブリッドを生成するかのような奔放さと音響の肉体性が7分間に詰め込まれたナンバーで、今作のハイライトの一つに挙げたい。
「戦争反対」政治的メッセージと深い内省
そして、ステレオラブといえば、その音楽が帯びる”政治性”だ。前身のマッカーシー時代から、ジャングリーなポップ・ソングをサッチャリズム批判や資本主義への異議申し立てのプラットフォームとして活用してきたかれらは、その美しいメロディとモータリック・ビートにのせて「マルクス主義的なバックグラウンド・ミュージック」「黙示録のためのラウンジ・ミュージック」とも評される独自のスタイルを築いてきた。ステレオラブにとっての”ポスト・ブレグジット・アルバム”でもある今作においてもその批判精神は健在であり、サディエールの歌詞には時代を鋭く切り取る言葉が織り込まれている。
国家権力による言論弾圧や情報統制を告発する「Melodie Is A Wound」。「Colour Television」では、”進歩”と”発展”、そして”文明”という美名の下で正当化されてきた暴力や抑圧の構造を浮き彫りにする。昨年のソロ・アルバム『Rooting for Love』でも、ヨーロッパで台頭する極右勢力や”恐怖”がもたらす分断に警鐘を鳴らしていたサディエールだが、「Je dis non à la guerre(※戦争に反対)」と自身のルーツであるフランス語で声を上げる「If You Remember I Forgot How To Dream Pt.1」や、「統合する力(esemplastic)」を讃えることで断絶や分断に抗う「Esemplastic Creeping Eruption」はより明確で力強く、彼女の思想が直接的な言葉として響いてくる。
一方、今作の歌詞は、そうしたポリティカルな批評精神と共存するかたちで、ヒューマニズムやスピリチュアリティの気配を色濃く滲ませているのが印象的だ。愛と自由によって人が内側から変容していく過程が瞑想的に描かれる「Immortal Hands」。「Flashes From Everywhere」では、”理性”と”神話”を対置しながら、深い主観性と直観こそが創造の源であることが示唆される。
そして、アルバムを締めくくるのは、反戦を掲げた「~Pt.1」を受け継ぎつつ、「人類の最も深い傷(The deepest wounds of humanity)」と向き合うことで自己と世界の再発見、そして再生へと至る旅が描かれる「If You Remember I Forgot How To Dream Pt.2」。また、資本主義や消費社会が人の心に空いた穴を満たすことはできない(「もう感覚を麻痺させられなくなってきた、埋められない」)と訴える「Aerial Troubles」然り、メンタルヘルスの問題、ポスト・パンデミック社会における「癒し」への希求、ケアの思想にも触れた今作には、そうした個と社会、感情と制度の間に横たわる繊細で切実な問いが通奏低音のように鳴り響いている。いまの時代が直面する社会的・文化的危機と響き合いながら、深い内省と共感を促すメッセージへと結実した作品と言えるだろう。

Photo by Joe Dilworth
「ステレオラブ」という思想の再定義
「この新しいレコードでは、カットアップやコードのランダムな組み合わせ、その他の偶然的な要素をプロセスに取り入れることで、音楽に興味深い何かを生み出そうと、自分自身を追い込んで制作した」。前出のMOJOのインタビューでゲインは今作についてそのように語っている。
そういえばゲインは以前、自らの音づくりを「彫刻」や「映画やコラージュのようなモンタージュ」にたとえていたのを思い出す。素材を断片として捉え、それらを組み合わせることで潜在的な意味や構造を引き出していくというアプローチ。そこには、意図的に構成された音だけでなく、偶然生まれたノイズや不意の接続にも耳を澄ませ、そこから新たな風景や可能性を発見しようとする姿勢がある。こうした方法論は、ゲインがかねてより影響を受けてきたダダのフォトモンタージュ的感性──日常的なイメージを断片化し、隠された意味へと再構成していく精神──と通底したものだ。創造とは何かを「生み出す」ことではなく、「組み替える」こと。その思想が、今作にも色濃く息づいているということなのだろう。
言い換えれば今作は、ステレオラブというバンドの「音楽的記憶」を素材として捉え、それを再構築することで、あらたなステレオラブ像を創出するという試みなのかもしれない。どこからどう聴いてもステレオラブの音楽であることに疑いはないが、それはかつて知っていたステレオラブの”精巧な複製”ではない。つまりこれは、バンドのヴィジョンと音響美学を現代において再提示し、「ステレオラブ」という思想そのものを再定義するアルバムなのではないだろうか。
「反復」の美学はここでも中心にある。しかし、そこに微細な”ズレ”や予期せぬ音響の挿入を加えることで既存のかたちを問い直し、まったく新しい空間を描き出す。かれらは、自らの過去作から「構造」や音響的語彙を引用しつつ、それを反復や分解、変形させながら、いまこの瞬間にしか成し得ない音楽=「現在形のステレオラブ像」へと昇華させている。
これほど強かで、そして緻密に仕掛けられたカムバックが、他にあるだろうか。

ステレオラブ
『Instant Holograms On Metal Film』
発売中
国内盤:解説書・歌詞対訳付き/ボーナストラック追加収録
Tシャツ付きセットも発売
詳細:https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=14904