前身バンドのゴリウォッグスから改名を経て1968年に再デビュー、ルーツ・ミュージックに根差したサウンドで一世を風靡した、サンフランシスコ近郊出身のロックンロール・バンド、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル(以下CCR)。華美なヒッピー風ファッションが流行していた時代に、ネルシャツなどカジュアルな服に身を包んで登場した彼らは、フォーク、カントリー、リズム&ブルース、ゴスペルなどを幅広く視野に入れた、いわゆるアメリカーナ的な方向性を打ち出して当時の音楽シーンに新風を吹き込んだ。


2ndアルバム『Bayou Country』が7位まで上昇した69年には、『Green River』(米1位)、『Willy And The Poor Boys』(米3位)と3枚ものアルバムを発表。翌70年の傑作『Cosmo's Factory』は米英でNo.1を獲得するベストセラーとなった。全米シングルチャートのトップ10に計9曲を送り込んだCCRは、Spotifyを見ると60年代デビュー組でビートルズに次ぐ再生回数を叩き出している。なんとローリング・ストーンズよりも多く聴かれているのだ、CCRは。

ジョン・フォガティが語るCCRの名曲秘話、「80歳でも現役」の秘訣、大谷翔平への熱視線


CCRのほぼ全てのヒット曲を書いたフロントマンのジョン・フォガティが、9年振りのソロ作『Centerfield』(85年)でカムバックを果たした際、ロサンゼルス・タイムズ紙でこのアルバムを採点したラモーンズのジョーイ・ラモーンは、満点の100点をつけて絶賛。93年にCCRがロックの殿堂入りを果たした際、記念式典のスピーチでブルース・スプリングスティーンは「ソングライターとして、彼ほど3分間で多くのことを成し遂げた人はほとんどいない」と、ジョンに賛辞を送った。大衆からも同業者からも愛される存在のCCR/ジョン・フォガティだが、その歴史は痛みに満ちている。

問題は、CCRが所属していたファンタジー・レコードとの契約にあった。初期にサインした契約条件を不当と感じていたジョン・フォガティは、これから逃れるため、社長のソウル・ゼインツにアーティスト印税を譲渡。ライブではCCRの曲を封印し、ほとんど歌わない時期が長く続いた。一方、ゼインツはジョンの『Centerfield』に収められた「The Old Man Down The Road」がCCRの「Run Through The Jungle」の盗作であると訴訟を起こし、自身を揶揄したと思われる曲についても名誉毀損で告訴する。訴訟が続いて疲弊したジョンは、アーティスト活動に支障が出た時期もあったそうだ。


しかし2004年にソウル・ゼインツがファンタジー・レコードをコンコード・レコードに売却してから、風向きが変わる。コンコードは古い契約を見直して、ジョン・フォガティへの印税支払いを再開した。そして2023年、ジョンはCCR時代に書いた楽曲の出版権を取得。そこから20曲を選んだセルフ・カバー・アルバム、『Legacy: The Creedence Clearwater Revival Years』を完成させたばかりだ。

2020年にもCCRのカバーを含む『Fogerty's Factory』を子供たちとレコーディングしたことがあったが、同作が新アレンジだったのに対して、新作『Legacy』はどの曲も驚くほどCCRのオリジナル・バージョンに忠実。ジョンは息子のシェーンと共同で本作をプロデュースし、細部までこだわり抜いてこのアルバムを構築したという。80歳を迎えた今年もグラストンベリー・フェスに出演するなど、現役バリバリで活躍中のジョンをオンラインでキャッチ。新作に込めた想いと、名曲が生まれた背景について訊いた。

2025年、グラストンベリー・フェス出演時のライブ映像

『Legacy: The Creedence Clearwater Revival Years』

─まずは、楽曲の権利を取り戻すことができて、本当におめでとうございます。奥さんのジュリーさんがそのためにかなり尽力されたそうですが、新しいアルバムも奥さんのアイディアから始まったそうですね。やってみようと思った決め手は?

ジョン・フォガティ(以下J):(にこにこしながら)そう、尽力してくれたというのは本当だ。CCRの曲を再録音するというアイディアをジュリーが持ちかけてきたのは、確か数年前のことだった。
その当時私は煮え切らなかったというか、あまり良い反応ができなかったんだよね。でも2年前に楽曲の権利を取り戻してから、そのアイディアが自分にとって以前よりずっと気持ち良いものになったんだ。というのも、今は自分の楽曲に、より結びつきを感じるからね。そう世界に宣言したくなったような感じなんだ。ある意味、スピリチュアルな意味で楽曲を取り戻した気がする。それまでは自分が書いた曲なのに、疎遠になってしまったような感覚があったから。取り戻せたからには、ちゃんと私のもとに帰ってきてほしいと思ったんだ。それで、CCRの曲を再録音するというアイディアが、今になって大いに魅力的に感じられてきた。そしてこのアルバムが生まれたんだ。

ジョン・フォガティが語るCCRの名曲秘話、「80歳でも現役」の秘訣、大谷翔平への熱視線


─驚いたのは、徹底的にオリジナルに忠実に、演奏も歌もやり抜いたことです。演奏を再現するのも大変だったでしょうが、80歳になったあなたが……80歳にはとても見えませんが(笑)、オリジナルと聴き比べても違いがわからないほど見事な歌声を聞かせていることには感嘆するしかありません。どうしてこんなことが可能だったんでしょう?

J:自分の身体はケアするようにしているよ。
長年の間に(健康上の)問題も少しはあったけどね。大昔は煙草を吸っていたけど、35歳くらいのときにやめたんだ。少し時間がかかったけどね(笑)。あと、確か29歳くらいの頃にジョギングを始めたんだ。それから44年くらい走っていた。今は少しスローダウンしてハイキングをやっている。というのも、ランニングで負担がかかってしまったのか、身体が衰えてしまったからね。

ともあれ、できるだけ健康を保つようにしているよ。と言っても偏執的なレベルではなくて、ハンバーガーだって時々食べるけど(笑)、食べ物には気をつけるようにしている。バランスが取れているようにね。そういうことがとても役立っているんだ。そりゃたまに風邪を引いて声が枯れてしまったりすることもあるけど……一番大切なのは歌い続けることなんだ。
活動を続けて、ショウもやっている。

実はこのアルバムに関して……確か1年半とかそのくらい前だったと思うけど、妻のジュリーと話をしていたときに、「ハニー、私はまだ歌いたくないんだ」と言っていたんだ。「その前にたくさんツアーをやって、声を鍛えておきたい」とね。ずっと歌い続けてきたのも、いまだに声が出ている理由の一部だと思う。

─レコーディングするに当たって、CCRのオリジナル・バージョンを細かいところまで聴き込んだと思います。「この曲ってこうだったのか!」という発見があった曲があったら教えてもらえますか?

J:結構いろいろと発見があったよ。私は息子のシェーンととても密に作業をするから、あいつには「共同プロデューサー(co-producer)」のクレジットを与えている。私とふたりで今回のアルバムのプロデュースを手がけているんだ。あいつは音を聴いてくれたし、1日も欠かさず現場にいてくれたからね。ギターもたくさん弾いている。それで一緒に発見したことがいくつかあって……たとえば「Lodi」のレコーディングでスタジオに入ったときのことだった。息子が「父さん、原曲の音をもう一度聴いてみて!」と言うんだ。
「今父さんが弾いているよりも、音数が多い気がする」ってね。「本当に?」と思って、もう一度聴いてみたら……なんてこった、原曲ではもう1弦多く使っていて、上下にスライドで弾いていたんだ! あれにはものすごく驚いたよ。長年の間に面倒くさがりになって(笑)、弦をあまり多く使わずに弾く方法を覚えてしまったんだろうな。それで今回は、50年前にやっていたことを改めて覚え直さないといけなかった。あれは興味深い経験だったよ。

CCR名曲秘話(1)「Proud Mary」

─収録曲中、最も多くの人にカバーされたのは「Proud Mary」です。あなたが好んで聴いてきた黒人音楽のエッセンスが詰まった名曲だと思いますが、あの曲と歌詞はいったいどうやって思いついたんですか? あのイントロがベートーヴェンの「運命」にインスパイアされたというのは本当でしょうか。

J:答えはイエスだね。本当だよ。実は……私が生まれる前の話だが、まだ母のお腹にいた頃、ベートーヴェンのコンサートに行ったらしい。その後、私が8、9歳の頃に母がこう言っていたよ。「あなたはすごく興奮していて、お腹をガンガン蹴っていたのよ!」とね(笑)。
母はベートーヴェンと知り合いだったんだ。

─えっ?

J:嘘だよ!(笑)。ともあれ、母がそんな話をしてくれたこともあって、私はベートーヴェンに魅了されたんだ。特にあの曲の♬ババババーン!(「運命」のイントロの口真似)の部分はいつも注意して聴いていた。それである日、あの部分をギターで弾いてみたら、ギターで弾くのに合っている箇所を見つけたんだ。そこなら完全に正確に弾けるだろうと思った。いわゆるロックンロール的な間違いを入れながら弾いていたからね。すごく気に入ったし、これは曲のいいイントロになるだろうとも思った。そんなことがあって、「Proud Mary」のイントロになったんだ。

─なるほど。では「Proud Mary」の歌詞は、どうやって思いついたのでしょうか。

J:あれはね……話すと長くなるから、その長い物語を全部話すつもりはないよ。

─わかりました(笑)。

J:1967年の夏のあるとき、もう少しシリアスに、プロフェッショナルになって、几帳面になろうと思い立った。それで小さなバインダーを買って、ソング・ブックにした。そこに何を書き留めるかなんて自分でもわかっていなかったけど、ちゃんとしなきゃと思ってね(笑)。そのバインダーは数日間テーブルの上に置きっぱなしになっていたけど、間もなく”proud Mary”というフレーズが思い浮かんだんだ。それが何を意味するかなんて知らなかったけど、何となく理に適っているような気がした。

という訳で、そのソング・ブックに初めて書き留めたフレーズが”proud Mary”だった。ブックは55年間つけているよ。その後何ヶ月も経つと、ブックの中にも10数点ネタが溜まってきた。私は1968年に陸軍を名誉除隊になった。ベトナム戦争の真っ最中に除隊になって、とてもハッピーだったよ。自由になって、これで音楽に専念できると思ったんだ。まっすぐ家に帰って、ギターを手に取って、コードを弾き始めた。そのときすぐに「Left a good job in the city / Workin for the man every night and day(毎日昼も夜も人のために働く/稼ぎのいい街の仕事を辞めた)」というフレーズが浮かんだ。あれは陸軍のことを考えていたんだ。除隊したばかりだったからね。そんな感じで曲作りを進めて、ベートーヴェンのコードを持ってきて、最後はあのコーラス(歌いながら)♬Rollin, rollin, rollin on the river(川を進んでゆく)を思いついた。あれが自分には、すごく力強くユニークなものに感じられたんだ。いったいこの曲は何について、何のために書いたんだろう?と我ながら思ったよ。

そこでソング・ブックのことを思い出して、引っ張り出してきた。ページを開けたら……”proud Mary”と書いてあるのが見えるじゃないか! 何ということだ! これはミシシッピ川を航行する船の名前なんだ。つまり、私は船の歌を書いたってことだ!(笑)。でも、船の歌なんて書くやつがいるかい? 私にはわからないけれど……ともあれ、あの歌詞はそうやって生まれたんだ。

─そうやってさまざまなアイディアがひとつになっていく様子が興味深いですね。ところで、のちにティナ・ターナーが歌った「Proud Mary」が、あの曲の最も有名なカバー・バージョンだと思いますが。あれを耳にしたときは、どう感じました?

J:(無言で親指をグイッと立てる)……私は車を走らせていたんだ。外は暗くて……確か冬だったと思う。そうしたら、ラジオからアイク&ティナ・ターナーのバージョンが流れてきた。うっとりしたよ。素晴らしいと思ったね。その前から、私は何年もティナ・ターナーのファンだったし、ビッグになるべき人だとずっと思っていたけれど、それまで大ブレイクしていなかった。特にあの速いサビのところ、♬Rollin, rollin……の辺り、あれは最高だと思ったよ。心から楽しめたし、素晴らしいと思った。

CCR名曲秘話(2)「Born On The Bayou」「Have You Ever Seen The Rain」

─もうひとつ訊いておきたいのが、「Born On The Bayou」についてです。カリフォルニアのベイエリアで生まれ育ったあなたが、どうしてアメリカ南部の湿地で育ったかのように歌えたのか、といつも不思議に思います。想像上の南部のサウンドを演じるような感覚で、イメージを膨らませて世界を作っていたのでしょうか?

J:私が大好きだった人……は本当にたくさんいるんだが、ロックンロールの黎明期の人たちの多くは確か南部出身だった。彼らは単語の発音の仕方が独特でね。私の好奇心をそそるような謎のフレーズを投入することもあった。陸軍にいたときも、ある兵士仲間が「Hes grinnin like a mule eating briar」と言っていたんだ。君に今の言葉が解るといいが……(訳注:直訳は「彼の満面の笑みは茨を喰うラバのようだ」。歯を見せてにやりと笑う様子を表現する)。彼は、すごくハッピーな人のことを言っていたんだ。

─なるほど!

J:grinninは笑顔になっているということ。muleの肉は食べないね。……briarは雑草みたいなもので、食べるのが大変な硬い草なんだ。それを食べるとmuleはすごくハッピーになるんだろうね。そのフレーズから、素晴らしい光景が頭の中に浮かんだよ。ともあれ、南部にはそういうすてきなフレーズがあふれているんだ。私はそれに注目していた。自分にとっては異質なものだったからね。私の普段の暮らしには出て来ない。ボ・ディドリーやエルヴィス・プレスリー、リトル・リチャードといったたくさんのアーティストたち、それから……そうだ、昔懐かしいジミー・ロジャース。「歌うブレーキ係(The Singing Brakeman)」と言われていた人だ。それにジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンス……みんな南部出身で、ファンタスティックな歌い方をしていた。そして私が曲を作るようになったとき、私の中に入っていた彼らの影響が、曲に反映されていったんだね。

─あなた自身もたくさんのアーティストたちに影響を与えていますよね。最近再結成して話題になっているオアシスというバンドに、「Born On The Bayou」と似たイントロの曲があるんです。CCRの曲は他にもいろいろなバンドにフレーズやメロディを拝借されてきたと思いますが、あなた自身はそうやって自分の曲が引用されることには寛容なタイプですか?

J:ああ、素晴らしいことだと思うよ。私自身も明らかに同じことをやってきているからね。そうやって音楽の塊を次の人へと渡していくんだ。私の場合、ギタリストとして、たとえばビートルズの「Day Tripper」のイントロを覚える。「おお、いい曲だな。気に入った」と。カール・パーキンスの「Honey Dont」は言うまでもなくビートルズがカバーした曲だが……あれもそうだけど、あの手の曲はギターのアプローチが独特なんだ。今日も娘のケルシーと一緒にギターを弾きながら説明していたところだよ。「この曲から何かを学ぶんだ。何らかのアプローチを」とね。私の曲でそれをやってくれる人がいるならうれしいし、素晴らしいことだ。

ジョン・フォガティが語るCCRの名曲秘話、「80歳でも現役」の秘訣、大谷翔平への熱視線


─歌詞は時々、作者の意図と違う解釈をされることがありますよね。たとえば「Have You Ever Seen The Rain」(雨を見たかい)は、Rainがナパーム弾のメタファーだと信じている人が日本でも多いです。しかし実際は反戦歌のつもりはなく、バンド内の人間関係の不和を歌ったと聞きました。実際のところはどうなのでしょう?

J:正しいのは、今君が2番目に言った方だね。1970年の終盤のことだった。私のバンド、クリーデンスは、のちに『Pendulum』と呼ばれることになったアルバムのレコーディングに入ろうとしていた。その頃顕著になってきたのが……バンドがより有名になって成功していくほど、バンド内のムードはどんどんハッピーになるどころか、実際はどんどんアンハッピーになっていって、不平不満のスペースが大きくなっていくということ。自分たちの世界の中で、あら捜しばかりしてね。私はそれがどうにも理解できなかった。ソングライターとしてもミュージシャンとしても、私は自分の曲がラジオから流れてくるのを聴いていてハッピーだったからね。でもバンド内の空気は、とても憂鬱な、とてもどんよりしたものになっていった。それで連想したのが……晴れた日で空も青いのに、何マイルも離れたところでは大きな雲が立ち込めていて、雨が降っていて、そしてどういう訳か、大気の高いところでは、風に押されて、見えない雲から雨が降っているという気象現象だった。このバンドの状況にそっくりだと思ったよ。

空は晴れて青いのに雨が降っている……すごく悲しかったよ。私は心理学者とかになるにはまだ若すぎたから、その状況が理解できなかったし、その状況を止めることができない自分の無力さを感じていた。自分にとってはこれ以上ないくらい悲しいことだったよ。目の当たりにしていることを、何ヶ月も変えることができないんだから。私は自分がもっと曲を書いて、もっと成功すれば、全員ハッピーになれるものだとばかり思っていた。それが解決策だと思っていたんだ。もちろん、そうじゃなかったけどね。

そんな感じで、「Have You Ever Seen The Rain」は、壊れていくバンドを自分が眺めていて、そのことに気づいてはいるけれど、それを止めることができずに自分の無力さを感じている……という歌なんだ。

CCRはなぜ偉大なのか? 大谷翔平への熱視線

─歌詞の誤解というと、最近ではドナルド・トランプが「Fortunate Son」を無断でキャンペーンに使用して問題になりましたね。彼があのような内容の曲を流すのは、特権階級である彼にとって、むしろ皮肉になるだけだと思うのですが……彼は歌詞の内容を理解していないのでしょうか。

J:うーん、そうかもしれないね……あの件は、全体的にとても魅力的なものだよ(苦笑)……こういう言い方にしてみようか。実は、私は弁護士を通じて、ドナルド・トランプ陣営にcease-and-desist letter(知的財産侵害行為の停止通告書)を送ったんだ。彼がキャンペーンで私の曲を使っていたからね。それでも彼は使い続けていたよ。

─えっ、そうでしたか。

J:ああ、そうなんだよ(苦笑)。どうやらそういうのが彼の性格の一部みたいだね。……正直に言って、彼の本心がどうだったか、シリアスには考えたくないんだ。歌詞をちゃんと理解しているのにそれでも使ったのかもしれないし、歌詞を理解しないで曲だけ聴いていたのかもしれない。

─日本でも一昨年、CCRが1970年にロイヤル・アルバート・ホールで行なったライブを記録した映画『Travelin Band』が公開されて、僕も映画館で観て感涙しました。バンドとしてのCCRの魅力を今改めて言い表すなら、それはどんな言葉で表現できますか?

J:そうだね、まず私はソングライターだから、ソングライターとしてのレンズを通してものごとを見ている。何よりもまず曲ありきだと信じているんだ。他のことも必要だし、ついてくるものだけど、まずは曲ありきだね。というのも、有名な曲が1、2曲くらいだけで数年で終わってしまうバンドをいくつか見てきたから。その後は退屈なバンドになってしまうんだ(苦笑)。プロの演奏をしてはいるけど、よく知られた曲をプレイしているときほどの興味を抱いていない。もちろん理由はいろいろあって、……いい曲を十分たくさん持っていれば、よく知られるようになる。私の言いたいことはそういうことだと思う。クリーデンスが長年やってこられたのは、それがあったからだと思うね。とてもいい曲がたくさんあるんだ。

─もちろんです。

J:次に大切なのはアレンジだと思う。プレイすべき音の選び方だね。私にとってはとてもシリアスなことなんだ。言い換えれば、ジャム・バンドのやり方と違って、私はアレンジをとても重要なものだと考えている。私は特に母の影響で、スウィング・バンドに詳しいんだ。特にベニー・グッドマンにね。彼らは細かいこだわりがあったからこそ、あの素晴らしいスウィングを生み出すことができた。私も細かいところによく集中したよ。バンドのアレンジを手がけていたのは私だったからね。その曲のその部分にふさわしいパーツを見いだすのはとても重要なことだと思っている。クラブやバーに行くと、バンドが「Proud Mary」や「Have You Ever Seen The Rain」をプレイしているところに遭遇することがある。彼らがレコードに極めて近い音を出しているのは、そういう細かいパーツをちゃんとプレイしているからなんだ。シンガー以外の人もね。だからそういうパーツは私にとってとても重要なんだ。(シーンに)居続けられる力の多くは、そこから来ている気がする。

と言いつつ、私たちは若かったから、魔術師みたいに楽器の技術に長けていた訳じゃなかった。(ひとりでやるより)他人と一緒にプレイして、ああいうサウンドを生み出す必要があったんだ。大切なことだったと思うよ。何と言うのかな……心の中に、グループや、あんな感じのアスリート・チームみたいなもののためのスポットがあるんだろう。テクニックの魔術師なんて誰もいないけど、一体となって何かをやるというね。そこにはストーリーがあるんだ。一緒になって闘ったりしてね。あのアルバート・ホール公演の映画には、それがあるんだと思う。

ジョン・フォガティが語るCCRの名曲秘話、「80歳でも現役」の秘訣、大谷翔平への熱視線


─最後にもうひとつだけ……熱烈な野球ファンとして知られるあなたに、今年注目している野球選手を挙げてもらいたいです。

J:そうだな、何人かいるね。アーロン・ジャッジにはいつも注目しているよ。でも西海岸にはショーヘイ・オータニがいる。彼はもう……この2人はブックエンドみたいなものだよね。東海岸にジャッジがいて、ここ西海岸にはショーヘイがいて。ショーヘイはピッチャーでもある。さっきニュースで知ったんだけど、(7月24日の時点で)5日連続でホームランを打ったらしいね。すごいことだよ! ソファで新聞を読んでいても、テレビでショーヘイのニュースが流れると、思わず新聞を顔の前から下ろしてテレビを見るんだ。いったい何が起こっているのか、ちゃんと見ておくことが大切だからね。

ジョン・フォガティが語るCCRの名曲秘話、「80歳でも現役」の秘訣、大谷翔平への熱視線

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