ニュー・ジャック・スウィングの創始者、テディ・ライリー(Teddy Riley)が10月30日(木)、11月1日(土)、11月3日(月・祝)にビルボードライブ東京で来日公演を行なう。ヒット曲の数々が惜しみなく披露されるビッグイベントを前に、音楽ジャーナリスト・林剛によるインタビューが実現した。


ニュー・ジャック・スウィング。それは80年代後半、ヒップホップが勢力を増していく中でヒップホップのマナーを身につけた当時の新世代(=ニュー・ジャック)が斬新なスウィング・ビートで起こしたR&Bの革命だった。そのオリジネイターがテディ・ライリー(1967年生まれ)である。キース・スウェットの「I Want Her」(87年)を皮切りに、テディ率いるガイのデビュー、そしてマイケル・ジャクソン「Remember The Time」(91年)のヒットを頂点として時の人となったテディは、ブラックストリートでの活躍などに対する評価も加味されて、2023年に〈ソングライターの殿堂入り〉も果たしている。2026年2月には自叙伝『Remember the Times: A Memoir』も発表予定だ。

ニュー・ジャック・スウィングのブームは80年代後半から90年代前半にかけての5年ほどと短い。が、その影響力は本国のR&Bはもとより、日本のJ-POPにまで及んだ。当時最先端のR&Bプロデューサーとしてテディと伯仲していたジミー・ジャム&テリー・ルイスやL.A.(リード)&ベイビーフェイスまでもがニュー・ジャック・スウィング風の音作りを試みたほど。また、言葉は浸透しなかったが、女性アーティストが歌うそれを(”ジャック&ジル”…日本で言うところの”太郎と花子”にちなんで)ニュー・ジル・スウィングと呼んだりもした。ボビー・ブラウンでお馴染みのランニングマンやロジャーラビットと呼ばれるダンス、フラットトップの髪型、サルエルパンツなどのファッションも含めて、ニュー・ジャック・スウィングはちょっとした社会現象だった。時代の空気を切り取った享楽性の高いダンス・ミュージックということもあり、ブーム収束後は前時代的なサウンドと見做されることもあったが、その革新性が往時のジェイムス・ブラウンやスライ・ストーンに匹敵するものであったことは時を経て証明されつつある。

テディがK-POPのフィールドに進出し始めた2010年代以降は、ニュー・ジャック・スウィングを再評価するリバイバル的な動きも出てきた。
広く知られるところでは、ブルーノ・マーズの「Finesse」(2016年)やNewJeansの「Supernatural」(2024年)などがニュー・ジャック・スウィングに似せた曲として話題になった。テディ本人が関わったウォールズ・グループの「Hell Make A Way」(2023年)もそのひとつだ。2025年には、デフ・ジャムの若手ボーイ・グループ、2BYGがメジャー・デビュー・シングル「Karma」で直球のニュー・ジャック・スウィングをやっていたことも記憶に新しい。一方で、その全盛期から35年近くが経過した今、オーケストラヒットの音が鳴るだけでスウィングしていないパワーロックのような曲までもが”あの時代の音”としてニュー・ジャック・スウィング扱いされてしまうという事態も起きている。

ならば、その生みの親であるテディ・ライリーに改めて語ってもらおうではないかと。Zoomの画面越しには、秘密基地のようなプライヴェート・スタジオでブルーのネオン光に包まれたテディがいる。来日公演を控えたニュー・ジャック・スウィングのキングが、実演も交えながら穏やかな口調で語ってくれた。

テディ・ライリーのプロデュースワークをまとめたプレイリスト

―まず今回の来日公演ですが、「Teddy Riley Presents New Jack Swing ”The Experience” featuring GUY 2.0, Sounds of Blackstreet, Sounds of Michael Jackson and More」というあなたのキャリアを総括するような公演名がついています。どんなステージになるのか、ざっくりと教えてください。

テディ:以前(2013年末)、ビルボードライブ東京でカウントダウン・ライブをやったけど、みんなが心底楽しんでくれたのを憶えている。その公演をバージョンアップした内容だと思ってほしい。その時も多くの曲をやったけど、今回はより幅広い”テディ・ライリー・エクスペリエンス”になる。
ニュー・ジャック・スウィングはもちろん、僕がこれまでに手掛けたTOP100ヒットの中からセレクトしたステージになる予定。メドレーもやるし、ラップ(・ソング)も含めてあらゆる曲をやる。70分にどれだけ詰め込めるかが今から心配だけどね(笑)。本来なら2~3時間のショウになるところを70分に詰め込むわけだから。まあ、(時間が足りなければ)また改めて来日すればいい。とにかく僕たちの愛が詰まった内容になるし、観客のみんなとの掛け合いだったり、いつも通り楽しい70分になると思う。楽しい時間を共有したいし、みんなには思いっきり踊ってほしい。

―NYのハーレム出身のあなたは教会で鍵盤演奏を始め、最初にティミー・ギャトリングらと組んだキッズ・アット・ワークとしてレコード・デビューしますが、ニュー・ジャック・スウィングを生み出すまでの初期のキャリアを簡単に振り返ってもらえますか。

テディ:キッズ・アット・ワークにいた頃、15歳だった僕は、メンターのロイヤル・ベイヤンからプロデュースというものを学んでいた(筆者註:ロイヤル・ベイヤンは、キッズ・アット・ワークがいたSound Of New YorkレコーズでA&Rを担当。70年代後半にクール&ザ・ギャングにギタリストとして加入し、自身のグループであるフォアキャストでも活動)。思い返すとクレイジーな時期だったよ。キッズ・アット・ワークのアルバム(84年)は成功とは言えなかったから、もう今後はR&Bをやらないと思っていたんだ。
僕は性格的に物事が思い通りに進まないと、「よし、違うことをやろう」って考えるタイプでね。そうして今度は、地元ハーレムのラッパーたちと曲作りを始めた。ダグ・E・フレッシュやクール・モー・ディー、ロブ・ベース、スプーニー・G、ファーザーMCとか、みんなアポロ・シアターの近くで育った仲間たちだ。彼らのようなラッパーたちと一緒に曲作りをすることでミュージシャンとしての自我を取り戻すことができた。やがて僕の名前が知れ渡って、「テディ・ライリーか……あいつはイケてる」ってなっていった。

キッズ・アット・ワーク『Kids At Work』

―ラッパーたちと曲を作りながら再びR&Bをやろうと思ったのは?

テディ:キース・スウェットとライバル同士だったんだ。以前、僕はトータル・クライマックス(Total Climax)というバンドのメンバーで、キースはジャミラ(Jamilah)というグループにいた。ある年の〈ビッグ・アップル・コンテスト〉で僕らは彼らに勝ったんだけど、キースは前々から僕のことを気に入っていたみたいでね。正確に言うと、彼が僕の後をついて回ってたんだけど(笑)。当時通っていたバーバーショップもネイルサロンも同じところで、ずいぶん前に亡くなったけど、そのバーバーショップのオーナーがいつも言ってたんだ。「さっき誰が来てたと思う?」って。「誰?」って聞いたら「キース・スウェットだよ。
テディのようなゴーティ(髭)にしてほしいって。彼と同じ形に髭を整えてほしいって言ってたよ」って。これはちょっとした裏話だけど、キースとは兄弟みたいで、今でもいい関係を保っている。そして、キースのデビュー・アルバム『Make It Last Forever』(87年)に僕が関わって、あれがその後R&Bをプロデュースしていく自信になったんだ。

―あなたが手掛けたニュー・ジャック・スウィング最初期の曲としては、キース・スウェットの「I Want Her」(87年)、ジョニー・ケンプの「Just Got Paid」(88年)、ボビー・ブラウンの「My Prerogative」(88年)が有名ですが、エポックメイキングになったのは誰のどの曲だと考えていますか?

テディ:そうだな……なかなか難しい選択肢だな。どれも捨てがたいからね。強いて言えば「I Want Her」かな。あの曲は僕にとってR&Bでは初めてのヒット曲だったからね。『ファイブ・ハートビーツ』(91年)っていう映画の中で、ロバート・タウンゼントが演じる兄(JTマシューズ)が兄弟と部屋にいる時、ラジオから自分たちのグループの曲が流れるシーンを知ってるかな? 初めてキースの「I Want Her」をラジオで聴いた時、まさにその映画のシーンと同じ体験をしたんだ。当時、ラジオの番組で「Jam it, or Slam it(イケてる、それともイケてない?)」っていうコーナーがあってね。リスナーが番組に電話をして「Jam that record!(その曲イケてる、かけて!)」、または「Slam it!(イケてない)」ってジャッジするんだ。で、たまたまキースと一緒にその番組を聴いていた時に、なんと「I Want Her」がダメ出しされたんだ。
そうなるとラジオでかけてもらえない。ところが、そこで登場したのがWBLS(R&B/ソウルをメインとするNYの名門ラジオ局)のフランキー・クロッカーだった。(黒人)ラジオDJとして最初に成功したレジェンドだよ。その彼がホストを務める番組でやっていたのが、「Jam it, or Slam it」だった。そこで僕らの曲がリスナーから酷評された時、フランキーは思い切った行動に出てこう言ったんだ。「みんなはこの曲にダメ出しをしたけど、俺はこの曲を推すよ。君たちにはわからないかもしれないけど、この曲は時代を先取りしている」ってね。この影響はとんでもなく大きかった。あのフランキー・クロッカーと(同じ伝説的ラジオDJの)ヴォーン・ハーパーが、当時はまだ新しいジャンルだったニュー・ジャック・スウィングを気に入って後押ししてくれたんだ。

キース・スウェット「I Want Her」(『Make It Last Forever』収録)

創始者が考えるニュー・ジャック・スウィングの定義

―ニュー・ジャック・スウィングの命名者はジャーナリスト/脚本家のバリー・マイケル・クーパーですよね。

テディ:そう。当時、僕はR&Bの曲を手掛けていたけど、それらを総称するジャンル名はなかった。
ちょうどその頃、多才な先輩たち3人からアーティストとして成長する術を学んでいて、そのひとりが活動家で凄腕ドキュメンタリー作家のネルソン・ジョージ、そして二人目がバリー・マイケル・クーパーだった。そのバリーこそがニュー・ジャック・スウィングの名付け親。彼に「君の音楽は何ていうジャンルなんだい? どう呼ぶつもり?」って聞かれても、「まだ決めてないんだよね。”洗練されたポップなR&B”とかかな? こだわりはないんだけど」って答えていた。すると彼が「俺が名前を付けてやるよ。その意味はきっと後でわかると思う」ってね。バリーは「俺はちょうど今『ニュー・ジャック・シティ』の脚本(91年に公開される映画の原案となった記事)を書いているところだし、君の音楽はニュー・ジャック・スウィングにすればいい」ってね。僕の音楽を理解していたからこそくれたフレーズなんだ。残念ながらバリーは(2025年1月に)亡くなってしまったけど、彼には感謝してもしきれないよ。

―”先輩”の3人目は?

テディ:3人目はネルソンやバリーとともにメディア対応なんかを僕に教えてくれたウェンディ・ウィリアムス。彼女は僕のメディア・コーチだった。ジーン・グリフィン(筆者注:Sound Of New Yorkレコーズの主宰者でテディの後見人、プロデューサー)が僕にインタビューの受け方を学ぶようにって、ウェンディと引き合わせてくれたんだ。彼女からは「自分の発言や行動に一貫性を持つこと」を学んだ。こうした話は35年間いろいろなところで話してきたよ。

―ニュー・ジャック・スウィングはざっくりと言えば”跳ねるビート”ですが、そのオリジネイターであるあなたに改めて解説してもらいたいです。

テディ:ニュー・ジャック・スウィングに欠かせないのはシンコペーションだな。曲によっては拍を意図的にずらしていたりする。みんなが同じリズムを取っている時に、わざとパターンを崩して違う拍を取るって具合にね。ここにキーボードがあれば説明しやすいんだけどな……あ、あるある。(「Just Got Paid」のリズムでデモンストレーションしながら)ペダルでパッパッパッパってリズムを取りながら、あえてずらした拍を取ったキーを乗せていく。”スタッ、スタッ、スタッ、パッ、パッ”っていうふうに、わざと崩しているんだ。簡単に言うと、それがニュー・ジャック・スウィングのサウンドの組み立て方のひとつ。すべてシンコペーションなんだよ。もちろん違うリズムを取ってもいい。常に決まったスタイルでやる必要はない。大事なのは自分がどう感じて表現するか、センス次第なんだ。

ジョニー・ケンプ「Just Got Paid」

―リズムが強靭でありながらそれぞれの音のパーツがくっきりしていて、その上でメロディやハーモニーも際立たせるというあたりが魅力だなと感じていました。

テディ:例えば、ドラムの音がめちゃめちゃ大きくて、そのせいでベースやギターが聞こえなくなってることってあるよね。僕が求めていたのは、それぞれの要素のバランスを取ることだった。ドラムが大きくてもベースもちゃんと聴こえるようにね。(「Just Got Paid」のフレーズを弾きながら)僕がこうやってキーボードで旋律を弾いている時に、もしスネアが違うリズムを刻んでいたら、それもちゃんと聴こえるようにする。そうやって調和を保つということ。どの要素も他によってかき消されたりしていないか、それは常に慎重に確認してきた。自分の音楽を聴く人にちゃんとと届くように音やケーデンス(カデンツ)に抜かりがないかをね。曲によってはスネアの音をあえてすごく大きくする時もある。それはライブでその曲をやった時やクラブでその曲がかかった時、会場やダンスフロアでみんなが音楽を体で感じている様子を見るのが好きだからなんだ。自分の音楽は常にそういった要素に注意を払って作ってきた。

―これまで音楽メディアなどで、ニュー・ジャック・スウィングはワシントンDCのゴーゴーのリズムから影響を受けたとか、ジュニアの「Oh Louise」(85年)などをリファレンスにしているとも語られてきましたが、その点についてはどうでしょう?

テディ:うーん、その説はどちらも違うな。僕はファンクやソカを聴いて育って、地元のバンドでスティール・ドラムをやっていたから、いろんなリズムの取り方が身体に染み付いているんだよね。バンドではハーレム・デイ・パレードにも出て、僕は低音パート(ベースパン)の担当で、時にリード(テナーパン)を担当することもあった。

サウンドのアプローチは僕が敬愛しているプロデューサーたちとは違うかもしれないけど……例えばアレン・ジョージや(ジェイムズ・)エムトゥーメイ、あとカシーフやナラダ・マイケル・ウォルデンも、それぞれにインスピレーションを与えてくれた。パトリース・ラッシェンもそう。そこで彼らがやったスタイルを参考にすればいいと思って、それらの要素を組み合わせてみた。僕の音楽って、自分がずっと抱いてきた夢を体現したようなものなんだ。長年、マイケル・ジャクソンとジェイムス・ブラウン、あとマーヴィン・ゲイとスティーヴィー・ワンダー、そういったメンツが一緒にレコーディングをするのを見たいって思っていた。それ自体は実現しなかったけど、その夢を自分の音楽を通して叶えることができた。それをガイやブラックストリートのサウンドにも込めたんだ。インスピレーションを与えてくれたアーティストは数多くいるからアイデアは無限にある。ジェームス・ブラウンは僕にとって、いわばロードマップだった。とにかく彼らの存在がなければ今の僕はいない。常に敬意の念を抱いている。

エムトゥーメイ「Juicy Fruit」(1983年)、ジョセリン・ブラウン「Somebody Else's Guy」(アレン・ジョージがフレッド・マクファーレンと制作:1984年)

ガイ、ブラックストリートについて

―ニュー・ジャック・スウィングの誕生とほぼ同時にアーロン・ホールを迎えたガイがスタートしました。キッズ・アット・ワークの延長で、当初はティミー・ギャトリングがいましたが(その後アーロンの弟ダミオン・ホールと交代)、そもそもガイはどんなグループを目指したのでしょう?

テディ:ガイはティミーが僕にアーロンを紹介したところから始まっている。もともとティミーは僕をガイのメンバーにしたいとは思っていなくて、それは自分も同感だった。でも、アーロンの歌と彼がピアノを弾くのを聴いた時、ものすごい可能性とグループとしての進むべき方向性が見えたんだ。そこからギャップ・バンドやファットバック・バンド、L.T.D.とかファンクのグループのサウンドとニュー・ジャック・スウィングを融合させたサウンドにアーロンの声を載せるというお馴染みのスタイルが確立された。最初のアルバム(88年作『Guy』)でティミーは2曲歌っていて、僕もリードを歌ったけど、なんと言ってもみんなを魅了したのはアーロンの声だった。

―今回の公演では「Guy 2.0」とあるのですが、これはどういったものでしょうか? 2000年に出した『Guy III』に続くアルバムが出るのかも気になります。

テディ:ガイというブランドとそのサウンドを生み出したのは自分だから、そのガイに、ウィスパーズ、ギャップ・バンド、マンハッタンズ、そしてブラックストリートを融合させたようなサウンドで新たにガイを再現しようというのが「Guy 2.0」なんだ。2.0と名付けたのは、もちろんバージョンアップした姿だから。メンバーも3人じゃなくて倍の6人(基本的には今回来日するボーカリストたち)。K-POPのEXOなんかを手掛けた時にも感じたんだけど、人数が多いっていいなって。だから「Guy 2.0」ということで人数も倍。そしてこれだけのメンツなら、今まで手掛けた曲はすべてカバーできるからね。新譜も出る予定。早く聴いてほしいな。今回の公演でも時間が許せばニュー・シングルも披露する予定だよ。

―それは楽しみです。一方で、あなたはもう離れているようですが、ブラックストリートの現状はどうなっているのでしょうか。

テディ:彼らはツアーとかをやってるよ。オリジナル・メンバーの僕はもう参加していないけどね。ブラックストリートでは今まで自分のやりたいことができなかったから、僕としては自分の道を行くことにしたんだ。いろいろと気疲れする環境から離れたいという気持ちもあった。「自分こそスターだ」「俺ってイケてる」って思っている連中といると、いろいろとストレスも溜まるからね。僕はそもそも一番寡黙なタイプで、常に裏方っていう立ち回りだから。それと、僕が大事にしたいのは自分が何をしたいかではなく、ファンのみんなに求められているものを提供することなんだ。そんなわけで彼らは彼ら(ブラックストリート)でツアーをしているし、僕も自分たちの活動をしている。だから僕としては(グループとして)ブラックストリートという名前を使う必要はない。ガイの名前を使うのは僕次第だから、それを大切に使いたいと思っている。でも、わかってもらいたいのは、名前なんてどうでもいいんだ。大切なのは音楽であって、メンバーが誰とかも重要じゃない。それともうひとつ、みんなでアーロン(・ホール)のために祈ってほしい。今彼は弟のダミオンとともに健康上の問題を抱えているからね。彼らとツアーができない理由はそれなんだ。だから今はこのブランド(Guy 2.0)を携えて自分で活動をすることにした。彼らの調子が戻ったら、また共演もあるかもしれない。

マイケル・ジャクソンへの愛を語る

―長い音楽活動の中でいろいろあったと思いますが、マイケル・ジャクソンとの関係についても聞かせてください。クインシー・ジョーンズに認められてマイケルの『Bad』(87年)に参加予定でしたが、それは叶わず、続く『Dangerous』(91年)を手掛けることになります。もし『Bad』にプロデューサーとして参加していたらどうなっていたでしょう?

テディ:うーん、どうだろう……検討もつかないけど、たぶんかなりクレイジーな内容になったんじゃないかな? もしかしたら(『Dangerous』収録の)「Remember The Time」を入れていたかもね。僕は当時から常にあの曲みたいにコード的にも美しい曲を書きたいと思っていたからね。「Remember The Time」もそうだけど、僕の中でよくできた曲の多くはキーがFなんだ。ガイの「Lets Chill」(90年)もそうだけど、僕はそれらを”Fソング”と呼んでいる。Fの曲って、書いていて思うけど、聴く人を幸せな気持ちにさせるんだ。だからもし『Bad』を手掛けていたら「Remember The Time」を入れていたかもしれない。「In The Closet」は(『Dangerous』の時に)その場で思いついて作った曲だから無理だったけど。それで今思うと、マイケルは僕が彼の目の前で曲を書くことができるかテストしていたのかもしれない。結局、実際に一緒に曲を作り上げることができて、それは素晴らしい経験だった。ただ、コンテンツ・チームが(制作時の)動画を撮っていてくれたらよかったのにと思うと悔やまれる。マイケル自身も、あの時は記録映像を撮ることまで思いつかなかったみたいでね。当時、倉庫に保管されていた音源とかが紛失したこともあってか、動画もほとんど存在しないんだけど、ネットで探すと僕がスタジオで「She Drives Me Wild」をヴォコーダーで弾いている動画があるよ。

テディがスタジオで「She Drives Me Wild」をヴォコーダーで弾いている動画

―その動画、YouTubeで見たことがあります。それにしても、今回の公演名にも名前が入っているように、マイケルに対するあなたの愛は相当なものですね。

テディ:お互いをブラザーと呼べる仲だったマイケルに対する僕のリスペクトは、これからもずっと続いていくよ。彼の人柄を知っていたから、僕は常に彼を擁護する立場を取っている。僕はマイケルという偉大な人物と出会い、彼がこの世を去るまで間近にいた。19年近く弟分だった僕にマイケルの噂をいろいろ言われても聞く気はないね。彼の悪口を僕に言ったって無意味なんだ。良くないニュースや噂が飛び交っていたのは知っていたけど、僕には全部嘘だってわかっていた。数人の少年が(「ネバーランド」の汽車の)駅でマイケルに何かされたって訴えを起こしたけど、あとで調べたらその時にはまだ駅がなかったことがわかってるしね。そのエピソードからもわかるように、彼は生涯ずっと嵌められていたんだ。僕はマイケルに対して「君が失敗するように周囲から嵌められているんだよ」って言える立場だった。彼が人生の成功者になる姿を見たくない人たちがいたんだよね。マイケルには膨大なカタログがあって、巨大なビジネスを構築し始めたのが許せなかったんだろう。だからそういうことを考えると、できるだけ自分のことは非公開にすべきなんだよ。裏では努力していても、大勢の目にそれを晒す必要はない。マイケルも当時はそうしたいと思っていたんだろうけど、彼は(常に衆目に晒される)世界一のアーティストだったからね。今でもそう思っているけど。道筋を示してくれる人物に出会うことはよくあるけど、マイケルのように成功への全体像を示してくれる手本となる存在に出会えることは少ないと思う。

―そんなあなたも後進アーティストのお手本になりましたよね。以前、ヴァージニア・ビーチにスタジオ(Future Records Recording Studio)を持っていましたが、ファレル・ウィリアムスのドキュメンタリー映画『ピース・バイ・ピース』(2024年)でも触れられていたように、あなたがヴァージニア・ビーチに来たことで新しいシーンが生まれ、ネプチューンズのような才能が世に出ました。彼らはあなたのどんな部分を受け継いだと感じていますか?

テディ:”受け継いだ”と言えるのかわからないけど、自分は神が僕に注いでくれた愛を彼らにも広めているだけだよ。彼らが自分たちの素晴らしい才能を世の人に見てもらうため活動を続けられるようにね。それを”受け継いだ”と言うならそうかもしれない。でも仮にファレルと立場が逆だったとしても、きっと彼は僕のためにそうしてくれたと思うんだ。僕は、素晴らしい才能を持った若者が松明を受け取って走る手助けをしているだけなんだ。それにはスピリチュアルな背景もあってね……というのも僕は信仰に導かれてヴァージニアに移住した。何かを築ける場所を求めてNYを後にしたんだ。当時、この場所にはミュージック・シーンは存在しなくて、だからこそ、ここで頑張りたいって思った。ヴァージニアを選んだのは、学生時代、春休みに訪れていた思い出の場所だったから。春休みはスプリング・ブリングと言ったりもするけど、当時高校生や大学生がその時期になるとヴァージニアに来て、ビーチや、キングス・ドミニオンみたいな遊園地に行ったもんさ。ここで思いっきり春休みを楽しんでから新学期に戻るっていう感じ。僕もそうやって大勢の友達と一緒にここを訪れていたんだけど、みんなと過ごしている時に、将来どこかに移住するとしたらヴァージニアがいいなって思ったんだ。それから5~6年後に実現したというわけさ。

創始者テディ・ライリーが今明かす、ニュー・ジャック・スウィングという革命の裏側

テディ、2023年撮影(Photo by Prince Williams/Wireimage)

―今回の来日公演は”テディ・ライリー・エクスペリエンス”として総勢12名でステージに立ちます。半分近くはボーカリスト(Guy 2.0)で、前回も来たJ-スタイルズをはじめ、レイ・ラヴェンダー、ロドニー・ポー、ブランドン・コンウェイ、ハワード・ハウウェル、そして元プロファイルのL Jaiことフレッド・ロビンソンと強力なシンガーが揃っていますが、このメンバーがどうやって集まったか教えてください。

テディ:メンバー選択の基準は、みんなが聴きたい曲を叶えられるメンツってこと。僕の手掛けた曲を僕と一緒にカバーしてくれるメンバーを揃えた。僕たちはR&B界のウータン・クランなんだ。メンバーそれぞれが引けを取らずに優れている、って意味でね。過去に僕がガイやブラックストリートとして来日した時の内容も含めて、みんなに聴いてもらいたいというのが今回の日本公演だよ。ニュー・ジャック・スウィングのサウンドで、「あの懐かしいアルバムを聴いているみたいだ!」って感覚になると思う。ハワード・ハウウェルの声を聴いたら「うわー!」って思うよ。レイ・ラヴェンダーの歌声にも驚くと思う。そして、TikTokでマイケル・ジャクソンのカバーをした動画でバズったブランドン・コンウェイ。あの動画を観た大半の人が「あの声は本物のマイケル?」って思っただろうけど、あれがブランドンなんだ。今、このグループで2公演を終えたところで、次が日本公演になる。日本から戻ったらまたアメリカでの国内ツアーが再開する。「なんかテディがすごいことしてるぞ!」って話題になっていて、今オファーが殺到しているんだ。
ブランドン・コンウェイとテディの共演映像

創始者テディ・ライリーが今明かす、ニュー・ジャック・スウィングという革命の裏側

Teddy Riley Presents New Jack Swing ”The Experience” featuring GUY 2.0, Sounds of BlackStreet, Sounds of Michael Jackson and More.
2025年10月30日(木)、11月1日(土)、11月3日(月・祝)ビルボードライブ東京
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