51歳で亡くなったディアンジェロを追悼。偉大な先人たちを研究し、自らも偉大な存在となった21世紀最大のソウル・アーティストの軌跡。


ディアンジェロとクエストラヴは、高級ホテルのソファに腰かけ、1964年のジェームス・ブラウンのパフォーマンス映像を観ていた。いや、正確に言えば──”顕微鏡で覗くように”観察していたのだ。Dとクエストラヴは、ジェームスのあらゆる動き、ステップ、照明のタイミング、ソウルの帝王がバンドに出すわずかな合図まで、すべてを目で追っていた。

これは今から25年前の光景だ。私はその場にいて、Rolling Stone誌のディアンジェロ取材を担当していた。当時の彼は、世界でもっとも熱いアーティストのひとりだった。2ndアルバム『Voodoo』によって、彼は誰もが認める音楽的天才としての地位を確立していた。それは現代ソウルというジャンルの頂点に立つ作品──深く、力強く、官能的で、そして親密だった。ソウル・ミュージックに多くの人を惹きつける要素──濃密で泥臭いグルーヴ、ファルセットのセレナーデ、そして腹の底に響くベースのすべてが詰まっていた。『Voodoo』は単なる音楽ではなかった。ディアンジェロにとってあのアルバムは、音楽の未来をめぐる宣戦布告でもあったのだ。

ディアンジェロは当時、こう語っていた。
音楽があまりにも商業的になりすぎている──『Voodoo』は、そんな潮流に抗い、アーティストたちが自らの内なる声に従って創作するよう促すための試みだったと。そしてもうひとつ、『Voodoo』にはプリンスの目を引きたいという意図もあった。彼とクエストラヴの二人でプリンスと共作する──つまり『Voodoo』をプリンスへの”オーディションテープ”にするという想いが込められていたのだ(それはまた別の物語である)。

その頃のDはまさに世界の頂点にいた。名実ともにスーパースターだった。それでも彼は、希望に満ちた学生のように、過去の偉人たちの映像を研究していた。ジェームス・ブラウンだけでなく、スティーヴィー・ワンダー、プリンス、アル・グリーン、アレサ・フランクリン、マーヴィン・ゲイ……いわばソウル音楽の正典とも言える神々たち。彼らはそうした先人たちを「ヨーダ(Yodas)」と呼び、その映像資料を「トリーツ(treats)」と呼んでいた。その日、クエストラヴはDにこう尋ねた。「もしあのジョージ・クリントンの”トリート”を観てなかったら、今の君の人生はどうなってたと思う?」ディアンジェロは答えた。「まったく違ってたと思うよ。」

彼が過去のミュージシャンたちを徹底的に分析する姿を目の当たりにして、私はディアンジェロの「偉大さ」がどこから来ているのかを少し理解できた気がした。彼は驚異的な才能を持ちながらも、自らの技を真剣に学ぶ生徒であり、勤勉な努力家でもあった。
実際、彼の兄は私にこう話してくれた。「Dは子どもの頃からあまりに音楽ができたものだから、俺たちは最初から”彼は一生音楽をやる人間だ”としか思ってなかった」。

Dはヴァージニア州のペンテコステ派教会で演奏しながら育ち、ティーンエイジャーの頃にはトリオの一員としてレコード契約を求めてニューヨークへ渡った。だがレーベル側の回答はこうだった──「彼だけが欲しい」。そしてデビュー作『Brown Sugar』がリリースされると、音楽シーン全体が息を呑んだ。「新たなソウルの巨星が現れた」と。タイトル曲は、マリファナへの愛を軽妙に歌ったもので、1995年の夏を代表するヒットとなった。だが、一部の批評家はこのアルバムを”未完成”と評した。曲がスケッチのように感じられる、というのだ。その評価をディアンジェロは5年後の『Voodoo』で完全に覆す。彼はもはやソウルの巨匠たちの弟子ではなく、並び立つ存在であることを示したのだ。

しかし、『Voodoo』の成功は、同時にある問題も生み出した。


長い沈黙、そして復活

楽曲「Untitled (How Does It Feel)」は、ディアンジェロの最高傑作だった。官能的なファンクのうねりが渦巻き、聴くだけで妊娠してしまいそうなほど熱を帯びた楽曲だった。マネージャーのドミニク・トレニエは、この曲のビデオをこう構想していた──ディアンジェロがステージ上にひとり立ち、カメラが彼の肉体をクローズアップで映し出す。コーンロウの髪から、へその下まで。シンプルで、性的で、そして圧倒的に力強い映像になるはずだった。それは、彼が長年かけて鍛え上げてきた身体の集大成でもあった。『Brown Sugar』を出した頃のディアンジェロは太っていた。しかし、その後の5年間、『Voodoo』の制作と並行して食生活を変え、狂気じみたトレーニングを重ねた。そして「Untitled」の撮影時には、まるで人間として到達しうる限界まで鍛え上げられたような肉体を手にしていた。だが、彼はそのビデオを撮りたくなかった。撮影現場の前までリムジンで乗りつけたものの、車から降りるのを拒んだのだ。緊張していたのだろう。
マネージャーのトレニエは車に乗り込み、彼の隣に座って話をした。やがて、ディアンジェロは静かに覚悟を決め、撮影に臨む準備が整った。

そして彼らは、歴史に残る最も象徴的なミュージックビデオのひとつを作り上げた。その映像はまるで中性子爆弾のようにカルチャーを直撃し、誰もが息を呑んだ──「これは世界で最も美しい男なのでは?」そう感じた人も多かっただろう。そのビジュアルだけで、ディアンジェロの名声はさらに高まった。だが、ここからが問題だった。「Untitled」以降、人々の彼に対する見方が変わってしまったのだ。ライブでは、観客が「シャツを脱いで!」と叫ぶようになった。それ自体は理解できる反応かもしれない。だが、ディアンジェロが求めていたのは肉体ではなく、音楽家として見られることだった。

彼はまるで大学院生のように音楽を学び、『Voodoo』の完成までに5年を費やした。その努力のすべては「自分は優れたミュージシャンである」ということを作品を通して伝えるためだった。
しかし、ステージでは観客の叫び声が音楽をかき消していた。彼の腹筋への歓声が、楽曲への敬意よりも大きくなってしまったのだ。ディアンジェロは、自分が天才からセックス・シンボルへと格下げされたように感じ、反発した。そして姿を消した。私たちは何年も、彼の不在を嘆き続けた。そして十数年の沈黙を破り、彼の3作目にして最後のアルバム『Black Messiah』が2014年にようやく世に放たれた。

『Voodoo』はいまなお、圧倒的な到達点として聳え立っている。それは多くの人々にとって尽きることのないインスピレーションの源であり、彼が勇敢に挑んだ”戦い”において、最終的に彼が勝利したことを証明する作品でもある。ディアンジェロは私たちに思い出させてくれた。業界の潮流に迎合せず、自らの内なるミューズ(創作の声)に耳を傾け、革新的な音楽を人々に届けることでこそ、本当の成功を手にできるのだということを。

いま、ディアンジェロはこの世を去った。だが、フランク・オーシャン、H.E.R.、SZAといった彼の”音楽的な子孫”たちの作品を聴くとき、私はまるで彼が蒔いた音楽の種から、美しい花々が次々と咲き誇るのを見ているような気持ちになる。
つまり、長いスパンでとらえれば、彼はやはり勝利したのだ。

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From Rolling Stone US.
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