ブライアン・アダムスがローリングストーン誌に電話をかけてきたとき、彼はポーランド、グダニスクのエルゴ・アリーナのステージに上がろうとしていた。『Reckless』30周年記念ツアーのヨーロッパ公演、その最終日のことだ。1984年の大ヒットアルバムを祝うこのツアーの調子はどうか?「最高だよ」とカナダ人シンガー兼ギタリストは言い、そして笑った。「30年間、ずっと止まっていないような気がする」
そして、その歩みは当分止まりそうにない。ここ数カ月、ブライアンはアルバム『Reckless』を携えて世界中を飛び回っている。このアルバムはリリース以来、全米で500万枚以上を売り上げ、不朽の名曲「Summer of 69(想い出のサマー)」や、観客がライターを揺らすパワーバラード「Heaven」を含む6曲のヒットシングルを生み出し、当時25歳だった彼を一躍スーパースターに押し上げたチャート1位獲得作品だ。その数年前、批評家や市場の無関心への皮肉として、2ndアルバムのタイトルを『ブライアン・アダムスもお前のことなんて知らない(Bryan Adams Hasnt Heard of You Either)』にしようとしていた男にしては、悪くない結果だ。
当時の『Reckless』時代を振り返って何を思い出すかと尋ねると、彼はこう答えた。「突然乗り込んだ、とんでもないジェットコースターだった」。実際、その勢いは凄まじく、ブライアンはツアーの途中で出演した「ライブ・エイド」について、約10万人の聴衆を前に演奏したことさえほとんど覚えていないという。「今出回っている映像がなければ、事実上何の記憶も残っていないだろう。ジャック・ニコルソンが僕をステージに紹介してくれたことさえ忘れていたよ」。
ブライアンは続ける。「考えてみれば、当時の音楽業界にとって、本当に素晴らしい瞬間だったんだ。84年、85年あたりは、マイケル・ジャクソン、ブルース・スプリングスティーン、マドンナ、プリンスがほぼ支配していた。そんな中で、カナダの小さなバンドが一、二週間でも全米チャート1位を獲得し、あのような成果を上げられたというのは、かなり凄いことだったと思うよ」
「Summer of 69」誕生秘話
―『Reckless』が84年11月にリリースされた際、「Run to You」と「Somebody」が初期のヒットとなりました。しかし、状況が本当に爆発したのは「Heaven」と「Summer of 69」が出てからでした。その瞬間まで、アルバムのサイクル(プロモーション期間)が終わりかけていると感じたことはありましたか?
ブライアン:何とも言えないな。ツアーにどっぷり浸かっていたから、何が起きているのか客観的に判断するのが難しかったんだ。1985年の前半はヨーロッパで自分のショウをやりつつ、ティナ・ターナー(『Reckless』の収録曲「Its Only Love」でデュエットしている)の前座も務めていた。アメリカに着く頃にはすでに数曲のシングルが出ていたけれど、その後85年の夏に「Heaven」が出た。それによって、しばらく勢いが持続したんだ。
―「Heaven」はアルバムの中で最もチャート上位にランクインしたシングルでしたが、歳月を経て最も大きな響きを持つようになったのは「Summer of 69」です。
ブライアン:そうだね。間違いなく、国際的にはそうだ。面白いのは、あの曲は当時、ヨーロッパのどこでもチャートに入らなかったんだ。それなのに今では、僕のセットリストの中で他のどの曲にも負けないくらい大きな存在になっている。
―元々は、あの曲がアルバムに収録されるかどうか確信が持てなかったそうですね。
ブライアン:収録したいとは思っていたんだ。けれど、なんて言うか……曲によってはもう少し手を入れる必要があった。2回レコーディングし直して、デモは3回作ったよ。とにかく微調整を繰り返したんだ。できる限り良いものにする必要があったからね。
―最初は「Best Days of My Life」というタイトルになる予定だったとか。タイトルの変更はどのようにして起きたのですか?
ブライアン:僕が最後に入れたアドリブ(「me and my baby in a 69」)がきっかけだよ。本当に、冗談半分でやったことだったんだ。でも、それがキャッチーだと思ったんだよね。
―そのアドリブによって、性的なダブル・ミーニングが成立したわけですね。
ブライアン:まさにその通り。それで結局、歌詞の中に書き込まれることになって、それがタイトルになったんだ。
「雇われの助っ人」だった頃
―『Reckless』のために、あなたとソングライティングのパートナーであるジム・ヴァランスは、カナダにある彼の地下室で毎日セッションを行っていたそうですね。
ブライアン:何週間も、何カ月もね。いつも実りがあるわけじゃなかった。
―皮肉なことに、アルバムに入らずに他の誰かに譲られた曲の一つが、タイトル曲の「Reckless」でした。
ブライアン:滑稽だよね? でも、こういう経緯だったんだ。僕はいつもデモを作って、それができたらバンドのところに持っていく。アルバム制作中もずっとデモを作っていたんだ。でも、その曲や他にもいくつか曲を書いた頃には、すでにアルバム1枚分に十分な曲数が揃っていた。レーベル側が僕に2枚組のアルバムを出させてくれるわけがなかったしね。
―「Reckless」は最終的にラヴァーボーイ(Loverboy)に渡り、彼らのアルバム『Lovin' Every Minute of It』に「Dangerous」として収録されました。
ブライアン:ああ、その通りだ。倉庫に眠っていた曲の数々は、結局いろんな人たちにカバーされることになったよ。
―当時、あなたとジムは、KISS、テッド・ニュージェント、ロジャー・ダルトリーなど、幅広いアーティストのために曲を書き、採用されていましたね。
ブライアン:僕らは基本的には「雇われの助っ人」だったんだ。(プロデューサーの)ブルース・フェアバーンや(ソングライター兼A&Rのジョン・)カーターといった知り合いがいて、レコードを作っている連中が電話をかけてきては、「なあ、誰それのために何か曲はないか?」って聞いてくる。「ああ、いいよ、もちろん」って答えるんだ。使われることもあれば、却下されて結局自分でレコーディングすることになる曲もあったよ。
―「自分でレコーディングすることになった曲」のカテゴリーには、『Reckless』のリードシングルである「Run to You」も含まれますね。これは元々、お二人がブルー・オイスター・カルトのために書いた曲でした。
ブライアン:ブルース・フェアバーンが彼らのプロデュースをすることになっていたので、僕らはジャカジャカしたギターパートがある曲を書いたんだ。結局彼らのアルバムには入らなかったけれど、理由はさっぱりわからない。たぶん、自分たちの曲がすでにあったんだろうね。
―音楽の世界に入った当初、ソングライターとしてのキャリアと、アーティストとしてのキャリア、どちらをより強く思い描いていましたか?
ブライアン:そうだね、僕は歌うことが好きだから、本当にやりたかったのは歌うことだった。バンドのシンガーになりたかったんだ。でも、結局ジムと一緒に仕事をすることになって……ジムはスポットライトを浴びることには一切関わりたくなかった。だから、デュオとして活動するという選択肢はなかったんだ。それで、「わかった、僕一人でやるしかないんだな……」という感じになったんだ。
―しかし、あなた自身がアーティストとして活動するよりも、他のアーティストへの楽曲提供に専念していた時期が数年ありましたね。
ブライアン:それは単に、僕自身のアルバムが鳴かず飛ばずだったからだよ!
レーベルとの契約金は1ドルだった?
―1983年の3枚目のアルバム『Cuts Like a Knife』で、本当の意味での成功を手にし始めました。
ブライアン:そうだね。今『Reckless』について考えたり、当時の自分の心境を思い出したりすると、僕が望んでいたのは『Cuts Like a Knife』と同じくらい良いレコードを作ること、ただそれだけだった。直前のアルバムがそれだったし、頭の中はそのことでいっぱいだったからね。初めてのトップ10ヒット(バラード曲「Straight From the Heart」)を経験したばかりで、もしあれと同じくらい良いレコードが作れれば、ひどいクラブ通いから抜け出して、もう少しマシな「ひどいクラブ」に行けるようになるんじゃないか、と思っていたんだ。わかるだろう?
―間違いなく、それは達成されましたね。
ブライアン:ああ。でも、僕はまた同じようなレコードを作ろうと必死だったんだ。拠り所にできる自分の実績はそれしかなかったから。けれど、幸運なことに僕には良いチームがいた。曲作りを助けてくれるジムがいて、良いバンドがいて、ボブ・クリアマウンテンがエンジニア兼共同プロデューサーとして支えてくれた。集中力のあるレコード会社もついていた。だから、『Reckless』を世に送り出す頃には、ある種の「宿題」は終えていたんだ。いわゆる下積みの苦労は済ませていたんだよ。
―「下積みの苦労」といえば、1978年にA&Mレコードと契約した際、契約金がわずか1ドルだったというのは本当ですか?
ブライアン:(笑)本当だよ。契約を法的に有効にするためには、金銭のやり取りが発生しなければならないんだ。彼らは僕にお金を払いたがらなかったから、契約を法的に縛るための最低金額である1ドルになったというわけさ。
―それはアルバム何枚分の契約だったのですか?
ブライアン:基本的には、彼らが僕を必要とする限りずっと、という感じだったね。今でもその契約下にあるんじゃないかな。ありがたいことに、その後再交渉はしたけれどね!
―それで、その1ドルは実際に受け取ったのですか?
ブライアン:うん、請求したよ。今でもどこかにその小切手があるはずだ。
―彼らは実際に小切手を切ったのですか?
ブライアン:その通り。小切手でもらってよかったと思っているよ。この一連の話の馬鹿馬鹿しさを証明してくれるからね。
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From Rolling Stone US.
ブライアン・アダムス ROLL WITH THE PUNCHES TOUR 2026
2026年1月26日(月)東京・日本武道館
2026年1月27日(火)東京・日本武道館【追加公演】
2026年1月28日(水)Asueアリーナ大阪
18:00開場/19:00開演
チケット料金(各税込):S席 ¥20,000/A席 ¥19,000
公演ページ:https://udo.jp/concert/BryanAdams26


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