ヒップホップの先駆者として知られるDJ/ラッパー/プロデューサー、アフリカ・バンバータ(Afrika Bambaataa)が67歳で死去した。死因はがんの合併症。


ニューヨーク・ブロンクス出身のバンバータことランス・テイラーは、平和と団結を掲げる組織「ユニバーサル・ズールー・ネイション」を1973年に設立。80年代初頭にヒップホップを「DJ、グラフィティ、ブレイクダンス、ラップ」の4大要素として定義づけ、クール・ハーク、グランドマスター・フラッシュと共に、この文化を世界的なムーブメントへと押し上げた。

1982年の代表曲「Planet Rock」は、ドイツのクラフトワークの影響を受けた革新的な電子サウンドで音楽シーンに衝撃を与え、後のエレクトロやダンスミュージックの礎を築いた。また、ジェームス・ブラウンとの共演曲「Unity」(1984年)でのファンクへのアプローチや、ジャンルを超えたコラボレーションなど、型に収まらない音楽性を追求し、ヒップホップが広範な芸術性を備えたものであることを証明した。

輝かしい功績の一方で、晩年は深刻な疑惑に揺れた。2016年、かつての知人が10代の頃に性的虐待を受けたと告発したことを機に、複数の男性が同様の被害を主張。2021年には訴訟も提起された。本人は一貫して否定したが、ズールー・ネイションの指導部が彼と距離を置くなど、ヒップホップ・コミュニティ内ではその評価を巡って激しい議論が巻き起こった。

「ヒップホップの歴史そのもの」として神格化される一方で、深刻な告発によってそのレガシーには拭い去れない影が落とされた。2024年に開館予定の「ユニバーサル・ヒップホップ・ミュージアム」の設立にも深く関わっていたが、晩年はその存在を巡る複雑な議論の中にあった。

アフリカ・バンバータの生涯を振り返る

「今日、私たちはヒップホップ文化の基礎を築いた建築家、アフリカ・バンバータの逝去をここに記す」と、カーティス・ブロウは、自身がチャック・DやKRS・ワンらと共に設立した労働団体「ヒップホップ・アライアンス」の執行役員として声明を出した。「(彼は)平和、団結、愛、そして楽しむことに根ざした世界的ムーブメントとしてのヒップホップの初期のアイデンティティ形成を助けた。
彼のビジョンは、ブロンクスを今や世界の隅々にまで届く文化の誕生の地へと変貌させた……。同時に、彼のレガシーは複雑なものであり、我々のコミュニティ内で深刻な議論の対象となってきたことも認識している」

レコーディング・アーティストとしてのバンバータの遺産は、彼がソウルソニック・フォースおよびバック・ボーカルのプラネット・パトロールと共に制作した1982年の独創的な12インチ・シングル「Planet Rock」にある。アーサー・ベイカーがプロデュースしたこのゴールド・ディスク認定シングルは、バンバータの名を世界中の大衆の意識に刻み込んだ。ドイツのグループ、クラフトワークに多大な影響を受けたそのエレクトロニック・サウンドは、80年代半ばにかけて数年にわたり続くエレクトロ・ラップやダンス・ポップの流行を巻き起こした。ミッシー・エリオットからシティ・ガールズに至るまで、何世代ものミュージシャンがこの曲からインスピレーションを得た。ラップ・アーティストたちはリリックの中でバンバータの名を叫び、ケミカル・ブラザーズ(「It Began in Afrika」)のように、曲全体を彼に捧げる者もいた。

かつて『Rock & Roll Confidential』誌に「哲人王」と呼ばれたバンバータは、エジプト学やブラック・コスモロジー(黒人宇宙論)への言及を交えた、アフロフューチャリズムの感性に満ちた作品を残した。DJとしては「マスター・オブ・レコーズ」としての定評を誇り、その嗜好と選曲は、ソウルフルなファンク、ブギー・ロック、エレクトロ・ブレイクス、そしてあらゆる種類のノベルティなキッチュまで、広範な領域を網羅していた。彼が70年代後半に共同設立した組織「ユニバーサル・ズールー・ネイション」は世界中に支部を広げ、音楽業界のトップアーティストが出演する恒例の「アニバーサリー」パーティーを主催した。

「ヒップホップ」という言葉(グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブの故キース・”カウボーイ”・ウィギンズによるものとされる)が80年代初頭に普及した際──ブロンクスの先駆者たちは「Bビート」や「ヒップ・ヒップ」といった呼称も用いていたが──それをDJ、グラフィティ、ブレイクダンス、ラップの4つの要素として定義づけるのを助けたのがバンバータだった。

多作であったバンバータは、キャリアを通じて数十枚のアルバムを発表した。米国で「Planet Rock」ほどの成功を収めることは二度となかったが、海外のチャートではその後も成功を収め続け、特にアフリカ・バンバータ&ファミリー名義でイギリスのレゲエ・ポップ・バンドUB40と組んだ1988年の「Reckless」は全英トップ20入り、ゲスト参加したエレクトロニック・デュオ、レフトフィールドの1999年の「Afrika Shox」は全英トップ10入りのヒットとなった。
一方で、ジャーナリストたちはしばしば彼をクール・ハーク、グランドマスター・フラッシュと並べ、20世紀末における米国最大の文化ムーブメントへとヒップホップを成長させた非公式な「聖三位一体」と呼んだ。

性的虐待疑惑の闇

2016年3月、かつてギグでDJのレコードを運ぶ「クレート・ボーイ」を務めていたロナルド・サヴェージが、ニューヨークのラジオDJトロイ・タレインに対し、1981年にバンバータから性的虐待を受けたと語った。サヴェージの告発は広範な報道を巻き起こした。ローリングストーン誌に寄せた声明の中で、バンバータは「これらの告発は根拠がなく、私の名声とレガシーを汚そうとする卑怯な試みである」と述べた。その後、数人の男性が、10代の頃にバンバータや他のズールー・ネイションのリーダーたちから性的虐待を受けたと告発し、2021年には少なくとも1件の匿名(ジョン・ドウ)訴訟が提起された。その一方で、ズールー・ネイションの指導部は公に彼との距離を置いた(サヴェージは後に告発を撤回することになる)。

バンバータの衝撃的な没落に対するヒップホップ・コミュニティの反応は割れた。メリー・メルは、シーン内部の人間は何年も前からそのことを知っていたと主張した。ズールー・ネイションのスポークスマン、TC・イズラムは抗議のために組織を辞任したが、その1年後、アトランタで謎の死を遂げた。80年代から存在していたものを含む数十の旧ズールー・ネイション支部は離反し、新組織「ズールー・ユニオン」を結成した。

しかし、ブギ・ダウン・プロダクションズの名曲「South Bronx」でヒップホップ初期の発展を物語ったKRS・ワンは、バンバータのレガシーを擁護した。「俺に言わせれば、ヒップホップという枠に留める限り、アフリカ・バンバータから奪えるものは何もない」と彼はポッドキャスト『Drink Champs』で語った。
「歴史は歴史だ」

アフリカ・バンバータことランス・テイラーの生い立ち

ランス・テイラーは1957年、ニューヨーク、サウス・ブロンクスの公営住宅ブロンクス・リバー・プロジェクツで生まれた。母親はジャマイカ出身、父親はバルバドス出身だった。2014年、彼はViceに対し、母親のレコード・コレクションが、彼の代名詞である折衷的なDJセットのインスピレーションになったと語った。「ある瞬間にはジェームス・ブラウンやモータウン、スタックス・ヴォルト・サウンドのようなソウルが聞こえたかと思えば、次の瞬間にはミリアム・マケバの『Mama Africa』のようなアフリカン・サウンドやカリプソ、サルサ、あるいはサルソウル(・レコード)が流れ……さらにエディット・ピアフやバーブラ・ストライサンドのようなポップスから、スリー・ドッグ・ナイトやクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルまで聞こえてくるといった具合だった」

テイラーの人生の多くは謎と神話に包まれている。何十年もの間、彼は記者に対し、自分はハーレム・アンダーグラウンド・バンドの匿名メンバーであり、コズミック・フォースと共に制作したバンバータの1980年のデビュー12インチ「Zulu Nation Throwdown」を編曲した「ケビン・ドノヴァン」であると語っていた。研究者たちがバンバータの本名を確認したのは、虐待疑惑に関する口述証言が広まった2016年になってからのことだった。彼はまた、「Planet Rock」で公人となる前の人生の出来事についても、一貫性のない日付を語っていた。

若かりし頃、テイラーは60年代後半のサウス・ブロンクスで活動していたストリート・ギャングの一つ、ブラック・スペードに加わった。アドレイ・スティーブンソン高校在学中、彼は数人の元スペードのメンバーと共に「ジ・オーガニゼーション」を設立し、それが後のズールー・ネイションへと発展した。テイラーは、ユニセフの作文コンクールで優勝した結果実現した1975年のアフリカ旅行や、アングロ・ズールー戦争中にイギリス軍の部隊がアフリカの戦士たちと戦った1964年の戦争映画『ズール戦争』からインスピレーションを得ていた。

テイラーは、最初にレコードを回し始めたのはホームパーティーで家族のためであり、プロとして初のDJパフォーマンスを行ったのは1976年だったと語っている。「当時はレコードをミックスするだけで、エフェクトなどはなかった」と、彼は1982年に『East Village Eye』誌に語っている。


バンバータは、『East Village Eye』紙に語ったように、「ワイルドで型破りなレコード」でパーティーの参加者を驚嘆させるという評判を確立した。その一方で、駆け出しのズールー・ネイションが彼のクルー兼セキュリティ・チームとしての役割を果たした。地元住民が自警を行い、手に負えないティーンエイジャーのエネルギーが暴力へと発展するのを抑えようとしていた環境において、後者の存在は不可欠だった。「元ブラック・スペードのメンバーだったバムの周りには、常に血気盛んな連中がたむろして、パーティーが収拾不能にならないよう目を光らせていた」と、グランドマスター・フラッシュはデイヴィッド・リッツとの共著である自伝『The Adventures of Grandmaster Flash』に記している。「おかげでDJブースに近づくのも一苦労だったが、いざ話してみるとバムはいつも親切だった。彼は、自分が持っているレコードなら何でも貸してくれるような男だったんだ」

多くのトップ・ラップ・アーティストがそうであったように、1979年にファットバック・バンドの「King Tim III」やシュガーヒル・ギャングの「Rapper's Delight」がリリースされ、メインストリームへのラップ音楽の到来が告げられた際、バンバータは当初それらを歯牙にもかけなかった。彼は1980年に2枚の12インチをリリースしたが、大きな影響を与えるには至らなかった。しかし「Planet Rock」で成功を収めた後、高校でのバンバータのギグを録音したミックステープから制作された『Death Mix — Live!!!』が、このDJの初期のパフォーマンスを伝える貴重な公式の証拠となった。

1981年、バンバータはトミー・ボーイ・レコードの創設者トム・シルバーマンと繋がり、同レーベルの最初のリリースであるコットン・キャンディの「Havin' Fun」のミックスを手伝った。また、クリプティック・クルーや、DJジャジー・ジェイ、ブロンクスのラップクルーであるジャジー5といったズールー・ネイションの仲間たちと共に、クラブでささやかなヒットとなった「Jazzy Sensation」を作り上げた。

「Planet Rock」の誕生、ジェームス・ブラウンとの共演

翌年、バンバータがイースト・ヴィレッジの「マッド・クラブ」で、パンクス、ヒップホッパー、ニュー・ウェーブ信奉者、ファッショニスタたちが入り混じる80年代初頭の有名なニューヨークの「ダウンタウン」シーンに触れ、多様な観客を前にプレイした経験から一部着想を得た「Planet Rock」が登場した。「マッド・クラブでの経験を経て、彼は何をすべきか確信した。
あとのことは歴史が証明している通りだ」と、ファブ・5・フレディは1982年の『Village Voice』誌の記事で語っている。この12インチはビルボードのブラック・シングル・チャートで最高4位を記録し、ポップ・チャートでもトップ40目前の48位まで上昇、65万枚以上のセールスを記録した。その傍ら、バンバータはニューヨークの放送局WHBI-FMにて、アフリカ・イスラムやDJレッド・アラートといったズールー・ネイションの秘蔵っ子たちをフィーチャーしたラジオ番組「Zulu Beats」の立ち上げにも尽力した。

「Planet Rock」のビデオに収められているように、バンバータ&ソウルソニック・フォースのパフォーマンスでは、サン・ラやアース・ウィンド&ファイアーを彷彿とさせる精巧なアジア風の衣装が身にまとわれた。ジョージ・クリントンのPファンクさながらに、バンバータは自らのレコーディングのために、ズールー・ネイションのラッパー、DJ、ミュージシャンからなる緩やかな集合体を統括した。彼は彼らを自身の「ファンク・ファミリー」と呼んでいた。

バンバータのファンク精神は、驚くほど多くのプロジェクトを生み出した。彼はビル・ラズウェルのマテリアルと共にシャンゴを結成し、1984年にアルバム『Shango Funk Theology』をリリースした。これは合成されたビートに乗せて唱え(チャント)やヴォーカル・フックを繰り出す作品集だった。また、バンバータとマテリアルは1984年の「World Destruction」でもコラボレートしている。これは元セックス・ピストルズで、当時はパブリック・イメージ・リミテッドのフロントマンだったジョン・ライドンを迎えた反核を訴える12インチ・シングルだった。

アメリカのヒップホップ聴衆にとって、バンバータの最後の大ヒットとなったのは、1984年にジェームス・ブラウンと組んで絶賛された「Unity」だった。
ローリングストーン誌はこれを「その年を代表するクラシック・ファンク・レコード」と評した。生涯を通じてバンバータはイギリスのチャートに16曲を送り込んでおり、これは彼の音楽が合衆国よりもヨーロッパでより大きな受容を得ていたことの証左でもある。

Bボーイたちの関心がラン・DMC、フーディニ、LL・クール・Jといったニュースクールのアーティストへと移り変わる中でも、バンバータは重要な父方的存在であり続けた。彼はBETの番組『Rap City』で知恵を授け、『The Source』誌の表紙を飾った。パブリック・エネミーが1988年のシングル「Night of the Living Bassheads」で「Here it is, Bam!」と彼にシャウトを送ったのは有名である。1991年のア・トライブ・コールド・クエストの楽曲「Vibes & Stuff」では、Qティップが「アフリカ・バンバータに十分なリスペクトを」と敬意を表した。

ユニバーサル・ズールー・ネイションは世界中に支部を増やし続けた。ラップ界の多くは、メンバーであるか、数々のイベントに関わっているか、あるいはその平和的な精神と親黒人(プロ・ブラック)的な哲学への賞賛から、この組織と「繋がって」いた。この組織は「ネイション・オブ・イスラム、ブラックパンサー党、ヤング・ローズなど、さまざまなイデオロギー」からインスピレーションを得ていたとバンバータはViceに語っている。「我々はファイブ・パーセンターズ、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒とも関わってきた。ズールー・ネイションにおいて、我々の教えは調査研究を怠らないあらゆる人々からもたらされる」。しかし、ズールー・ネイションの発祥であるブロンクス・リバー支部は、ニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニの標的となった。犯罪活動の証拠がないにもかかわらず、市はズールー・ネイションを「ギャング」と決めつけ、1995年に彼らを公営住宅から追放した。「そんなものはデタラメだと分かっている」と、バンバータはニューヨーク・タイムズ紙で反論した。

クラブシーンからの評価、複雑な晩年

音楽面では、バンバータは特にチャリティ・プロジェクトを中心に活動を続けた。1985年、彼はスティーヴン・ヴァン・ザントが南アフリカのアパルトヘイト政権に抗議するために結成したコレクティブ「アーティスツ・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイト」に参加した。彼らの1985年のアンセム「Sun City」はビルボードHot 100で38位を記録し、ローリングストーン誌の「シングル・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。

しかし、バンバータの活動は次第に、自身のソウルソニック・フォース時代のヒット曲に多大な影響を受けたエレクトロ・ブレイクスやハウス・ミュージックのシーンへの進出によって定義されるようになっていった。彼はレイヴやフェスティバルでDJを務め、ドイツのウエストバムやイギリスのポール・オークンフォールドといったテクノ・プロデューサーとコラボレートした。後者との共作は、2001年の映画『ソードフィッシュ』のための「Planet Rock」のリメイクへと繋がった。1999年にはミックス・コンピレーション『United DJs of America — Volume 13: Electro Funk Breakdown』を、同年に『Planet Rock: The Dance Album』を発表した。

バンバータは生涯を通じて数多くの栄誉を手にした。2007年にはロックの殿堂にノミネートされた。2012年にはコーネル大学の客員教授として3年間の任期を務め、同大学は彼の資料も収集した。2014年、DJシャドウとカット・ケミストは、彼の有名なコレクションを使用した国際ツアー「Renegades of Rhythm」を開催し、ブロンクスの先駆者にオマージュを捧げた。2011年、バンバータと、元DJでレコード会社幹部のロッキー・ブカノが率いるグループは、ブロンクスにヒップホップ博物館を建設するための活動を開始した。その努力は、数百万ドルを投じた複合施設として2024年に開館予定のユニバーサル・ヒップホップ・ミュージアムへと結実した。

性的虐待の告発が明るみに出た際、発足して間もない同団体は「アフリカ・バンバータは2016年以降、ユニバーサル・ヒップホップ・ミュージアムにおいていかなる役割も担っていない」との声明を出した。しかし、彼はその後もマーケティング資料に登場し続けた。また、彼は死に至るまでズールー・ネイションにおいて役割を果たし続けていたという噂が絶えなかった。

晩年までバンバータは、自らをヒップホップ界の太陽神「アメン・ラー」になぞらえ、宇宙的なエレクトロ・ファンクを追求しては海外での制作やツアーを続けた。共演者たちは彼への告発を知らないか、あるいはあえて見て見ぬふりをし続けた。世間の多くにとっても、彼は依然として「Planet Rock」を生み出し、世界的ムーブメントを広めた立役者であり続けたのである。彼はInstagramに、いかにも彼らしい不可解なメッセージを残している。「毎年、アーティストたちが集まり、パフォーマンスを披露してきたのは、このズールー・ネイションの周年祭ではなかったか。それともお前たちは皆、あまりに物忘れがひどく、(メディアなどに)簡単に操られてしまうのか?」

From Rolling Stone US.
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