1912年、孫文に代わって中華民国の臨時大総統となった袁世凱は、初の国会選挙に向けて御用政党の共和党を結成。
1913年初め、国会選挙で国民党が圧勝を収めると、危機感を募らせた袁世凱は、国民党の実質的なリーダーであった宋教仁を暗殺するなどして、国民党への弾圧を強めた。
13年夏には袁世凱の打倒をめざす「第二革命」が起こるが失敗し、参加者の多くは日本などへ亡命。袁世凱は10月、正式な大総統に就任するとますます独裁を強めた。
これに対し、国民党議員が大多数を占める憲法起草委員会は、大総統の権限を大幅に抑制する内容の憲法草案(いわゆる「天壇憲法」)を策定。これを不満とする袁世凱の修正要求にも応じず、憲法公布に向けて準備を進めた。
袁世凱は11月4日、第二革命の主要人物・李烈鈞と国民党議員が交わした密書が見つかったとし、「反乱に加わった」との理由で国民党に解散を命じ、国民党議員の資格を剥奪した。その後、袁世凱は国会および各省議会を解散し、さらに専制政治を進めた。(編集担当:梅本可奈子)
【関連記事・情報】
・【今日は何の日】1903年:黄興が華興会を結成(2007/11/04)
・社会>コラム>今日は何の日 - サーチナトピックス