光緒帝(1871-1908年、在位1875-1908年)は清の第11代皇帝。
1875年に先代の同治帝が19歳の若さで死去すると、西太后によって擁立され、わずか4歳で即位。朝廷内の実権は「摂政」西太后が握っており、光緒帝が親政を開始した後も常に西太后が監視の目を光らせていた。
日清戦争での敗北後、列強の侵略が進むなか、1898年には康有為、梁啓超などの知識人を起用して国政改革に取り組む(戊戌の変法)。しかしほどなく西太后を中心とする保守派のクーデターによって弾圧され、改革はわずか100日で挫折した(戊戌の政変)。光緒帝は中南海の瀛台に幽閉され、監禁されたまま亡くなった。
死因については毒殺説や病死説などがあり論争が続いていたが、2003年から調査を続けてきた中国の専門家チームはこのほど、光緒帝の遺髪や衣服の一部から致死量を超えるヒ素が検出されたとして、死因は急性ヒ素中毒であり、光緒帝は何者かに毒殺されたと結論付けた。殺害の首謀者については、西太后とする説や袁世凱とする説などがある。なお、西太后は、光緒帝崩御の翌日11月15日に死去した。(編集担当:梅本可奈子)
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