MAO的コラム 中国語から考える 第77回-相原茂

 一時、野球のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で話題が持ち切りだったが、野球はどちらかというと退屈なスポーツではないか。

 ピッチャーが投げる。
しかしバッターは打つとは限らない。一度もバットを振らず見逃し三振もあれば、フォアボールもある。いつもヒットやホームランが出るわけではない。スコアボードには0が並んだりする。外野にぽつんと点在する野手なんて、のんびりしているようにみえてしょうがない。だから、ビールなどを飲みながらゆったり観戦するのに向いている。

 確かに今回のWBCの試合はひとときも目を離せない好ゲームが多かったが、まあ、普通のシーズン中のはのんびり観戦というのがふつうだ。

 相撲もそうだ。3分間ぐらいのしきりがある。その間は何が起こるというわけでもない。トイレにだってゆけるほどだ。考えてみれば、勝敗を決するだけなら、仕切り時間など無しにして1回でいきなり立っても不都合はなさそうだ。
だが、それではどうも相撲の醍醐味がない。動と静と、緩急をつけたい。それでこそ弁当などを広げて、一杯やりながらゆったり観戦できるというものだ。

 これは他のスポーツ、たとえばサッカーやバドミントン、卓球などの試合と比べてみると、その差は明らかだ。こちらはボールを追って選手たちはのべつまくなしに動いている。退屈な時間はない。せわしいことこの上ない。ともかく見る方も選手も緊張や興奮の連続だ。

 考えてみると、日本固有の武術である柔道や空手、剣の試合などもそうだが、強い者同士の決戦はたいてい一瞬で勝負が決まる(ことになっている)。

 そのまえに長い沈黙のにらみ合いがある。荒野にすくっと立ち、対決する。風が頬に吹きつけ、時が流れ、勝負は一瞬でつく。
つまり静と動のコントラストからなる。武蔵と小次郎だってそうだし、椿三十郎だってそうだった。

 柔道だって、静と動の対比で、互いに様子を伺い、隙をついて一瞬の技をくりだし、きれいに「一本」が決まる、というのが日本人の理想のイメージなのだ。このごろの試合は何だ。レスリングみたいにバタバタ動きまわり、ポイントを稼ぐやり方は、日本人はみんな大嫌いだ。

 日本人の好きな国民的スポーツが野球と相撲なら、中国では球技は卓球、相撲に当たるのはさしずめカンフーあたりだろう。

 カンフー映画などの最後の決戦はどうだ。決して一瞬では勝負は決まらない。延々と丁々発止とやりあう。なにしろこれこそが「見せ場」だからじっくり見せて、「堪能」してもらわねばならない。

 武器を持ってのやりとりでもそうだ、丈夫そうな青龍刀を振り回して、なんどもぶつけあいを繰り返す。日本刀であんな立ち回りを演じたら刃が欠けてしまいそうだ。
あちらはパワーとパワーのぶつかり合いだ。美意識が違う。

 本来、パワーの勝負である「相撲」でも「心」を一番重視する。

 要するに「ああ面白かった」というように「堪能」させることが大事なのだが、何に「堪能」するか、そのパターンが違うのだ。

 ところで、この動きの乏しい「間」の使い方がまた日本的だ。野球なら、解説者とアナウンサーがこの「間」を使っていろいろな背景的な知識を教えてくれる。いまの球はスライダーのすっぽぬけだ、とか言う。さらにはいまバッターボックスに立っている選手のエピソードなどが紹介される。それが個人的なことに及ぶことが珍しくない。

 お父さんがなくなったそうですとか、こんどお子さんが生まれるそうです、などといったものだ。「お父様によい報告ができましたね」などと言うに及んでは日本的叙情の完成だ。

 緩と急、その「緩」の時間に何を話すか。
それによって「ああ、面白かった」だけでなく、「ああ、いい話を聞いた」と思わせるのが日本である。わたしはここで「情をかき立てる」のが日本のやり方ではないかと思えてならない。(執筆者:相原茂)

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