昔の東アジアの人々にとって、中国はいかなる存在であったのか。

 そもそも日本にかぎらず、東アジアの諸国は、みな中国を文化の祖として仰いでいるわけである。
そのことに対する尊敬の念というのは、いまでも色濃く残っているといえよう。一方で中国や中国人自体も、自分たちが高度な文化を周囲に及ぼしたとということを(近年の愛国教育も相俟って)自覚しているし、誇りの念を抱いているだろう。

 さてそうした観点から見ると、かつての中国というのは、それ自体がもはや、ひとつの「世界」であった。「中華」の言語すなわち漢文や漢字、それから知識、教養、これらすべてが、すでに「世界」それ自身だった。日本人が持っている古典には、中国の典籍がおびただしく引用されている。だからそれを知らないことには、日本の文化もまた語れないということになる。前回も述べたが、それは西欧が古典古代を下敷きにしているのと同様だ。

 つまりこれを逆に見れば、中国とは文化的な総合体そのものであったといえるのである。

 しかもそれには、十分な道理があった。なぜならば、これはたいへん重要なことだが、ほかの民族もまた、中国人になるチャンスを持っていたからだ。しかも、それに対する正当性を等しく主張する権利をも、また持っていたのである。つまり、ここでいう「中国人」とは、なにかある特定の民族や、人種をあらわすことばではなかったからである。
それは、限定されたり、区別されたりするものではなかったのだ。中国語が達者にでき、中国文化の素養を持っていれば、その人はそれでもう中国人である。

 遣唐留学生阿倍仲麻呂は晁衡という中国名にあらため、李白(この人もシルクロードの砕葉〈スイアブ〉出身の西域人だと、故松浦友久先生は見ていた)や王維といった、歴史に名を残すそうそうたる詩人たちと友人付き合いをした。また同時期に大反乱を起こした節度使安禄山は、出自を中央アジアに持っていた。いや五胡十六国~南北朝を経た「中国」全体が、そもそもそうであった。もっと言えば、大動乱を経た後の「中国地域」は、いつもそうであった。

 つまり、ある意味では、だれでも中国人になれたのだ。「中国人」というのは、いわば、ひとつの世界理念でもあった。クローヴィスやシャルルマーニュがローマの後継者に擬せられるようなものだ。

 ところが大航海時代に始まり、西欧市民革命を経て、いわゆる帝国主義の発展に伴ってヨーロッパ文明が伝わってくる。そのなかで中国は、この世界の一「地方」、あるいは一「部分」でしかなくなっていく。

 そのとき、中華の魅力というのは、たちまちにして衰えていってしまった。
そして中国とは、近代的な国境や、領土に限定された概念となる。またそこに住む中国人というものも、近代国家の国籍をもった国民、あるいはひとつの民族として意識され、自分たちもまたそうした意味での中国人というふうに意識して行動するようになる。そうすると、ここで中国は、みずからを限定された存在にしてしまったということになった。

 これこそが、以後のすべての矛盾のはじまりだと、私は思う。

 なぜならこの場合、中国は、もはや「中国」とはいえない。ましてや「中華」でもない。というのも、いまや中国とは、単なる国名という記号にすぎなくなるからだ。

 ところが中国人にしてみると、なまじ同じことばを使用してしまっているために、かえってその概念の変化に気がつかない。だから中国といえば今でも世界そのものであり、中華といえば相変わらず文化そのものであると考え続けることになる。そのため中国人は、現代の世界からもはやかつてのような尊敬を受けられないことを理解できないまま、ただいらだつことになるのである。

 しかもその一方では、中国人もまた、19世紀末以来、近代西欧社会の文化概念の洗礼を受けてしまっている。その結果、心中には「中国イコール領域国家、中国人イコール国民国家を構成する民族」という図式が、すでに定着している。
このために中国人の心理は、ますます複雑で、矛盾をはらんだものとなるわけだ。

 このように見てくると、中国および中華ということばには、二つの語義があることになる。まず世界としての「中国」、および仰ぎ見る文化的総体としての「中華」。そうして、近代的な国家としての中国や中華。

 かぎかっこつきの「中国」と、中国。「中華」と、中華。さらには「中国人」と、中国人。これらのことばのなかにある二重性に気がつかないかぎり、当事者たる中国はもとより、われわれの中国認識もまた、アンバランスなものにとどまってしまうだろう。

※この文章は、拙論「天安門事件と現代中国のゆくえ」(『紺碧要塞の国際論・紺碧の艦隊の読み方IV』、荒巻義雄・辻野功・濱田英作共著、徳間書店、トクマ・ノベルズ、1994年4月)より抜粋・改筆した。もとより当時と今日とでは世界情勢は一変し、筆者の考察もまた推移しているが、それでもここにおける認識の大筋はそれほど的外れでもないかと思う。

(執筆者:濱田英作 国士舘大学教授)

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