「ギャンブルを人類学する」筆者が考える、ヒトがオンラインカジ...の画像はこちら >>

「フィリピンの人々はギャンブルを通して連帯したり、世界を主体的に楽しんでいる。しかしオンラインカジノはこうしたギャンブルの魅力が根こそぎ奪われています」と語る師田史子氏

M-1グランプリ2年連続優勝の快挙を遂げた令和ロマン髙比良くるま氏が、4月末に所属事務所である吉本興業を契約解除になった。

事の発端はオンラインカジノでの賭博。同氏に限らず、ばくちで運命を狂わせた打ち手は古今東西を問わず数知れない。

ところが「ギャンブルは悪」という観念の強い日本から抜け出して、東南アジアに目を向けると、ギャンブルの違う姿が目に入る。

フィリピン社会をフィールドワークし、広く親しまれている賭博文化が人々をつなぐ様子を描き出した一冊が『日々賭けをする人々』だ。ギャンブルに命をたぎらせるフィリピンの人々について著者に聞いた。

* * *

――日本とフィリピンで、ギャンブルのイメージに違いはありますか?

師田 日本では「ギャンブルは非常に危ないので、社会的地位のある人は避ける」というイメージがある。 フィリピンにも同じイメージはあるのですが、実際は大金持ちでもギャンブルをしていたりします。

ビジネスとギャンブルの境目が曖昧で、日本に比べると裾野も広いんです。また、ギャンブルの収益は、政治活動に資金が必要な政治家に流れる構造もあります。

――社会の仕組みが違うんですね。フィリピンではどんなギャンブルが人気なんですか?

師田 人々の生活になじんでいるのは、特別に飼育したおんどりを争わせて勝敗を賭ける闘鶏や、好きな数字を申し込んで抽選に参加する数字くじです。一応、フィリピンにも日本でいうパチンコのような機械式のギャンブルもありますが、お金がかかりすぎるのであまり人気はありません。

――日本にもロトセブンのような数字くじはありますよね。

師田 はい。ただ、フィリピンの数字くじとはかなり異なる印象です。日本では、ギャンブルって少し孤独な行為ですよね。誰にも相談せずくじを買い、ひとりで結果を確認する。一方フィリピンでは、ギャンブルを通して人々がつながるんです。

例えば、彼らは近所に住んでいる隣人や親戚が何番の数字くじを買ったかをお互いによく知っていて、誰がくじを当てたとか、外れたとかをよく話しています。そういう会話を通して、次になんの数字が来るか予想をしていくんです。よくくじを当てる人がいれば、それはなぜかを考える。

そうした文化が根づいたフィリピンでは、ギャンブルを通じて一体感を持った人々のつながりが存在している。日本でも競馬や競艇の予想をしているおじさんたちがいますが、それが多くの庶民の生活に浸透して、みんなが常に話題にしているような感じです。フィリピンでは世間話として、数字くじや闘鶏の話をするのが普通なんです。

――くじの結果を予想するのって、なんだか日本の占いに似ていますね。

師田 ええ。ギャンブルも占いも、人間がどうしても到達できない「わからなさ」に到達したいという欲望に支えられているという点では同じかもしれません。

でも、占いには法則がありますよね。例えば、生年月日がこうだから、次にこういうことが起きる、みたいに。占ってもらった人はその法則に従って意思決定する。それに対しギャンブルでは、賭けた瞬間には勝ったり負けたりいろいろな結果がありえます。

占いでは他者が決めた法則によってすでに決まった未来が提示されますが、ギャンブルではまだ決まっていない不確かな未来が提示されるという違いがあるわけです。

――確かに。

師田 なので賭けるときには、その不確かな未来を予想するために、ひとりひとりが自分なりの法則を作り出します。例えば「私にはこういった良いことが起きたのだから、運気が上がっている。今こそ数字くじを買うべきだ」というふうに。

そして、多くの場合、それが裏切られる。

自分の持っていた法則がギャンブルを通して粉々に破壊されるのです。それが快感につながるのかもしれませんね。誰かに教えてもらう法則に従うのではなく、主体的に自分自身で法則を見いだすことでギャンブルを楽しむわけです。

――日本でくじを買う人でも、そこまでしている人は少なそうですね。自分なりのロジックを組み立てて資金を投入するという意味では、株式投資などの資産運用に似ている気がしました。

師田 ニューヨークのウォール街の金融マンとフィリピン・ミンダナオの闘鶏は構造として同じです。まず、賭けをする相手が必要です。そして勝敗が決し、勝つ人と負ける人が必ず現れ、少数の人間に富が集約される。

実際に、闘鶏に使われる鶏は金融商品のように扱われています。価値が上がると思われる鶏がいると、小さいときから特別な餌を与え、愛情を注いで育てる。投資するわけですね。

でも、みんなが勝てるわけではない。その点で、市場を動かす構造はギャンブルととても似ています。人類が営んできたギャンブルの思考法が、金融市場に育っていったのかもしれませんね。

――日本で多くの人がオンラインカジノにハマってしまうのも同じ理由なのでしょうか?

師田 個人的には、オンラインカジノにハマるのは、フィリピンのギャンブルに見られるのとは違う理由だと思います。

例えばフィリピンの闘鶏では、目の前にいるほかの人々と「賭けが成立している」という感覚、そして賭けの相手に勝ったり負けたりする感覚がある。人々がたくさんいて、熱狂がある。コミュニケーションが起き、つながりがつくられる。

オンラインカジノにはそういったギャンブルの持つプラスの価値が根こそぎなくなっている。ひとりでできるので人間を孤独にしますし、精緻な仕掛けが施されていて人間をギャンブル依存症にしてしまう。

――ということは、ギャンブルは対面でやってナンボ?

師田 そうですね。人々や世界とのやりとりを通して、フィリピンの人々は自分自身の生活をゲーム化するんです。そうすることで、「数字を探す」「賭けをする」という行為に主導権を持つ。

フィリピンの人々だって、確率は知っています。ギャンブルは胴元が勝つ割の悪いゲームだということも。でも、それはあくまで理論的な話であって、自分の人生を自分でコントロールする感覚とは違うんです。

人生の主導権を持つ。でも、全能の神ではないので、思いどおりにいかない。そこにギャンブルの醍醐味があるのでしょう。

●師田史子(もろた・ふみこ)
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科助教。1992年生まれ、神奈川県出身。2022年、同研究科(5年一貫制)修了。博士(地域研究)。専門は文化人類学で、フィリピンの数字くじや闘鶏といった賭博、宝探しなどの賭けの実践を対象に、「人々がいかに不確実性に対処しているのか」というテーマについて研究してきた。本書が初の単著。

写真は兵庫・園田競馬場での一枚

■『日々賭けをする人々 フィリピン闘鶏と数字くじの意味世界』
慶應義塾大学出版会 5940円(税込)
フィリピンでは賭博が日常的に行なわれ、庶民の間で文化として根づいている。そして、そのあり方は日本のそれとまったく異なる。そうしたフィリピンの賭博文化に注目し、フィールドワークを重ねた著者の博士論文を基にした一冊。第Ⅱ部は闘鶏、第Ⅲ部は数字くじについて考察。分類としては学術書になるが、魅力的な文体でフィリピンの日常が描かれるため、紀行文や旅行記、あるいは小説のように楽しむこともできる

「ギャンブルを人類学する」筆者が考える、ヒトがオンラインカジノにハマる理由

取材・文/室越龍之介

編集部おすすめ