2月20日の映画公開が迫る、太宰治の『人間失格』
 新潮文庫版だけでも約600万部以上は売れており、日本人の20人に1人は読んでいるという、おそるべき文学作品だ。


 昨年2009年は太宰治生誕100周年の年にあたり、さまざまなイベントやフェアが開催されたほか、『ヴィヨンの妻』『パンドラの匣』といった作品の映画化も記憶に新しい。そしてついに今月20日には、満を持して、代表作『人間失格』が映画で公開される予定だ。

 さて、映画公開前に『人間失格』のストーリー、ちゃんと把握しているだろうか。
 まだ把握できていない人のために、『人間失格』をまとめてみたので、予習しておこう。

 『人間失格』は主人公である大庭葉蔵の手記を通して展開していく。

 葉蔵は東北の田舎の良家の出身で、子どもの頃から他人(人間)と関係を保つために道化を演じ、親に口答えをしたこともなかった。自分がどのように見られるかに固執し、学校でも自分が必死に尊敬されることから逃れるように仕向けるほどであった。

 葉蔵は高校入学と同時に東京に上京するが、そこで「道化」は何の役にも立たないことを知り、悪友・堀木正雄から教えてもらった酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想にハマり込んでいく。しかし、結局そうした環境からも逃れたくなり、情婦のツネ子とともに鎌倉の海で入水自殺を決行。葉蔵だけが生き残り、自殺幇助罪として起訴処分となり、生家からの義絶や、高校からの追放などの厳しい現実が待ち受けていたのだった。

 「下手なマンガ家」になった葉蔵は女記者やバーのマダムら、次々に女性と関係を持つが、それでもうだつはあがらず、次第に絶望へと追いやられる。
 そんな最中、バーの向かいにあるタバコ屋の娘・ヨシ子と出会う。
ヨシ子は何故か葉蔵を献身的に支え、酒浸りになっていた葉蔵の気持ちの支えとなる。ところが明るい兆しが見えていた2人に悲劇が襲う。「信頼の天才」であったヨシ子が商人に犯され、そのシーンを葉蔵は目の当たりにしてしまうのだ。

 再び精神を乱し、酒を浴びるように飲んでいた葉蔵はついに喀血(かっけつ)。薬を求めて入った薬局で処方されたモルヒネにハマり込んでしまい、脳病院へと入れられることになる。
 そこで葉蔵は「自分は人間ではなくなった」ということに気づく。そして、「ただ、一さいは過ぎて行きます。」と自白して手記は幕を閉じるのである。


 本作からは葉蔵の異常なまでの繊細さと凄まじいダメ人間っぷりを読み取ることができるが、例えば自分自身を演じ、人との関係を構築するなどの部分は、いわゆる「空気を読む」といった現代の世相と非常に通じているものがある。だからこそ、葉蔵の姿を重ね、なんとなく親近感を沸いてしまう部分もあるのだろう。

 なお、この『人間失格』は「遺書」的な位置づけの小説として捉えられてきたが、実際の太宰にとっての最後の作品は『グッド・バイ』(未完)であるため、最後の作品ではない。また、文体は全くおどろおどろしくなく、リズム感の良さに明るさを垣間見ることができる。
 映画化の前に一度読んでみてはどうだろうか。

(新刊JP編集部/金井元貴)


【関連記事】
さっくりと分かる『ライ麦畑でつかまえて』のストーリー
太宰治生誕100年を記念し、角川文庫がカバーを一新
編集部おすすめ