活動を始めたきっかけは…
――宮城県内随一の名門校・仙台第二高校に通っていた白坂さんの投稿は、非常に衝撃的でした。Twitterに投稿された写真を見る限りでは、特定の政党に対する応援も批判もしておらず、18歳になる同級生もいるなかで、「国政に参加しよう」と呼びかけているようにみえました。学校側はそれでもNGだということですね。白坂リサ:そうですね。当時、私は仙台二高のなかで「この国の学校制度を考える会」を1人で立ち上げて、社会への関心を促す活動をしていました。
活動を始めたきっかけの一つは、「東京大学前刺傷事件」です。2022年1月の共通テスト会場だった東京大学で、当時高校2年生で私と同い年だった男子高校生がその場にいた人々を刺したんです。
仙台二高内では実際、成績不振で不登校や退学を選択する人もいました。私も図書室登校だった時期があります。
騒動後、SNSには同級生らしき人物の書き込みも
――当時の仙台二高での白坂さんの立ち位置は、どのようなものだったのでしょうか。すごくフランクにいえば、“やばいやつ”という扱いですか?白坂リサ:面と向かって批判をしてきたり、悪口を言われるようなことはないものの、そうでしょうね。というのは、SNSでは結構いろいろな意見が飛び交っていました。そのなかには明らかに仙台二高生が書いたと思われる内容があって。当時、私のアカウント名は「政治系高校生@ハートのメガホン」だったことからSNS上で私のことを「ハーメガ※」と呼ぶ一派がいました。「今日、ハーメガとすれ違った」「ハーメガがこんな本を読んでいる」というような書き込みがあったのを記憶しています。
また、結果的に仙台二高が炎上してしまったことによって、「先生たちが可哀想」「愛校心はないのか」といったSNS上の批判もありました。当時、私がリベラル系の発信をしていたことと結びつけて、私にかかわると政治思想に引っ張られるのではないかと考えて距離を置いた同級生も多数いたと思います。
※実際には、ハート、メガホンの絵文字
価値観を縛るものを理解し、抗いたい
――白坂さんが教育制度においてもっとも疑問に感じること、理不尽に感じることは何でしょうか。白坂リサ:東京大学前刺傷事件を起こした少年が口にしたのは、「医者になるために東大を目指して勉強していたが、成績が一年前からふるわなくなり、自信をなくした」という言葉。高い偏差値を維持しなければ自らを落伍者だと感じてしまう現在の教育とは、何なのだろうという疑問がありました。
誤解を恐れずに言えば、私も、彼と共鳴する部分がなかったわけではありません。私は昔から人よりも運動や勉強がうまくできるほうでした。
けれども高校に入学し、エリートと呼ばれる人が寄せ集められた学校のなかで、偏差値至上主義の学校内に息苦しさを感じるようになりました。私たちの価値観を縛っているものは何なのか、その正体にしっかりと抗いたいと思ったんです。
“与えられた自由”から一歩踏み出すために…

白坂リサ:そう考えて私も入学をしました。しかし最近は、その自由が与えられた自由のように感じます。たとえば、明文化こそされていないものの、大学内での個人活動は全て認められていません。つまり、サークルや研究会等、学校が完璧に管理したなかでしか、表現をすることができない。立て看板も立てられないんです。
慶應義塾大学はもともとスマートで、「気品」を重視する校風です。権利や変化を求めて声をあげる「運動的なもの」はおそらく、もっとも嫌われるもののひとつで、品性がないとみなされるのでしょう。
SFCは、「時代をサバイブしろ」という空気感が強く、高度知識社会への迅速な適応が求められます。そうした環境は確かに高揚感を与える一方、「脱落してはいけない」という強迫観念を生むこともある。技術の進歩や日々のニュースは、かつてない速度と情報量が私たちに押し寄せ、さらに、「教養」がより強く求められるようになってきています。ただでさえ、その適応のためにこなさねばならない課題は多く、余裕のない状態が常態化している。
そんななかで、もしその“バトルフィールド”から転げ落ちてしまったとき、かつて東京大学前刺傷事件の少年が語った絶望のように、自分を無意味な存在だと思い込んでしまう危険がある。でも私は、どんな場所やどんな分野でも知的活動はできると思っています。むしろ転げ落ちたときにこそ、借り物でない、本当の「知」が生まれると考えます。そういうある種のセーフティネットとなるような、開かれた“場所”を大学に作れたらと画策しているところです。
「塾生議会選挙」に立候補した理由

白坂リサ:慶應義塾大学の自治組織である全塾協議会において、塾生議会選挙に立候補しています。今、社会は殺伐としていますが、そんな世の中だからこそ、大学という研究・教育機関がもっと寛容で、自由であるべきなのではないかと私は思っています。学生は不自由を内面化してしまって、既存の大きな体制の妥当性を問うことを辞めているけれども、自由は享受するものじゃなく、自分たちで作り出していけるものだと示せたら良いですね。
エリートと呼ばれる人たちが、あまりに権威に従順であると、自他を測る物差しは他律的で一元的な価値観――いわば「偏差値的思考」――に固定されてしまいます。さらに、制度的な手続きに忠実であろうとするあまり、強大な権力を前にして身動きが取れなくなってしまう。その結果、小さな違和感は見えないまま、やがて麻痺していきます。けれど、知とは本来、誰かに評価されるためではなく、自分の足元から問いを立て直すための営みであるはずです。私は、そうした営みを支える「遍在知」――場所や立場を問わず、自らの問いに根差した自律的な知のあり方――の重要性を信じています。
もし、「独立自尊」という理念が制度の運用と矛盾し、形骸化しつつあるのなら、もう一度、自律的な塾生の姿を見据え、自由と無限の可能性に満ちた大学の在り方を、ともに再構築していきたいのです。
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教室を支配する大人に好かれれば、最小限の努力で高い評価を得られる。多くの省エネ型エリートたちが選んだ、高コスパな学生生活。だがそれは思考停止という代償を伴い、与えられた仕組みのなかでしか生きられない脆弱なエリートを量産することにならなかったか。
“いい子”出身の白坂さんが敷かれたレールを降りて自ら歩き出すまでに、どれほどの葛藤があったか知れない。だが彼女は自分の頭で考え、批判を喰らいながらも行動を起こした。それを勇敢だ、美しい、と無責任に称える気はない。
20歳の女性が自らの疑問を抱えて大学と対峙しようとしている。より長く生きた者たちがそれを一笑に付すか、受け止めるかで、この国の未来がほんの少しだけみえてくる。そんな気がする。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki