毎号必ずと言っていいほど長嶋さん、本屋敷錦吾さん、杉浦忠さんのいわゆる「立教三羽がらす」が誌面をデンと飾っている。自然と立教ファン、長嶋ファンになるのも無理はなかった。
※本記事は、江本孟紀著『昭和な野球がオモロい!』(日之出出版)より抜粋・編集したものです。
長嶋さんに憧れた野球仲間たち
「4番・サード・長嶋茂雄」に憧れて、サードを守りたがる野球仲間は多かった。毎日放課後になると、一目散に教室を飛び出し、仲間たちがグラウンドに飛び出していく。「一番にサードのポジションに就いた者が、サードを守れる」という、独特のルールを掲げ、うまいヘタに関わらずサードのポジション争いが勃発していたあの頃。だが、中学校、高校と年齢が上がるにつれ、あれほどサードを守りたがっていた仲間が次々と野球から離れていった。私が考えるに、レベルが上がるにつれて「オレは長嶋茂雄になれない」ということに気が付いてしまったのだと思う。
かくいう私は一度もサードを守らなかった。「守ろうとしなかった」が正解かもしれない。なぜなら私にとってサードというポジションは“聖域”だったからだ。
立教大学から推薦入学の誘いがあったが…
そんな中、高校で実績を残した私にとって、うれしい出来事があった。長嶋さんのいた立教大学から推薦入学のお誘いを受けたのだ。だが、その後の12月はじめ、立教大学から推薦入学がキャンセルになったという連絡が入った。慌てた私は、先輩から法政大学野球部が淡路島でセレクションを開催することを知り、ワラをもすがる思いでテストを受け、そして見事合格したのだ。当時は薄氷を踏む思いだったが、あれを運命の分かれ道とでも言うのだろう。
そんな私が、野球仲間の中でも長く野球を続け、あげくプロの世界に入ることができた。その上、長嶋さんと対戦する機会にも恵まれたのだから、人生は何が起こるか分からない。
現役時代に対戦したのは「一度だけ」
私が現役時代に長嶋さんと対戦したのは、記憶に間違いがなければ一度だけだ。当時のプロ野球は、今のように交流戦がないので、練習試合であるオープン戦は別にして、南海のいたパ・リーグはシーズン中に巨人と真剣勝負する機会がない。あるとすればセとパが対戦する日本シリーズかオールスターの舞台だけだった。
対戦が実現しかけたのが1973年だった。当時のパ・リーグは前期・後期に分かれての2リーグ制で、前期と後期の優勝チームがそれぞれ違えば5試合制のプレーオフで勝敗を決めるルールになっていた。
この年の南海は前期優勝を果たし、後期優勝を果たした阪急との最終戦までもつれこんだプレーオフも3勝2敗で制し、見事に日本シリーズ進出。セ・リーグの覇者だった巨人と対戦することになった。
「V9達成の瞬間」を眼前で見ることに
「これで長嶋さんがいる巨人と対戦できるぞ!」その喜びもつかの間、長嶋さんは10月の阪神戦で右手薬指を骨折し、日本シリーズに出場できる状態ではなかった。長嶋さんと対戦できずに残念な思いを抱きながらも、私は南海のエースとして第1戦に先発することになった。
試合は劣勢だった。2回に四球から土井正三さんに先制の本塁打を打たれた後、8回にも森祇晶(当時は昌彦)さんにソロ本塁打を打たれて3対1で2点のビハインドとなった。
けれども、その裏に先発の髙橋一三さんに対して、3つの四球に2本の安打を重ねて3点を奪って逆転し、121球を投げて4対3で逃げ切り、南海にとってこのシリーズ唯一となる完投勝利を収めたが、その後チームは巨人に対して4連敗を喫し、巨人の前人未到のV9達成の瞬間を眼前で見ることになってしまった。
自身の誕生日に開催されたオールスターでついに…
そして翌74年、ついに長嶋さんと対戦する機会に恵まれた。7月22日に西宮球場で開催されたオールスター第2戦だった。私がこの日付を今でもよく覚えているのにはワケがある。私の27回目の誕生日だったからだ。この年は前半戦までで9勝7敗、防御率2・88という成績を挙げ、監督推薦で選ばれた。73年にも選ばれていたが故障でやむなく出場辞退したため、なおさら意気込んでいた。しかも第2戦で私は栄えあるパ・リーグの先発ピッチャーとしてマウンドに立ったのだ。
この試合の両チームのスターティングメンバーは、次の通りである。
【先攻:セ・リーグ】
1番ショート 藤田平(阪神)
2番レフト 若松勉(ヤクルト)
3番キャッチャー 田淵幸一(阪神)
4番ファースト 王貞治(巨人)
5番サード 長嶋茂雄(巨人)
6番ライト 山本浩二(広島)
7番センター 柴田勲(巨人)
8番セカンド 三村敏之(広島)
9番ピッチャー 江夏豊(阪神)
【後攻:パ・リーグ】
1番センター 福本豊(阪急)
2番セカンド 桜井輝秀(南海)
3番ファースト 加藤秀司(阪急)
4番ライト 長池徳二(阪急)
5番レフト 土井正博(近鉄)
6番ショート 有藤通世(ロッテ)
7番サード 羽田耕一(近鉄)
8番キャッチャー 中沢伸二(阪急)
9番ピッチャー 江本孟紀(南海)
江夏と投げ合い、王さん、長嶋さんと対戦する──。
だが、一番に対戦したかったのは、誰が何と言おうと長嶋さんだった。私のボールがどれだけ通用するのか、小細工なしの真っ向勝負で挑んだ。
無我夢中で腕を振った結果は…
2回表。先頭バッターの王さんをキャッチャーフライに打ち取った直後、その時が来た。「5番サード、長嶋、背番号3、読売ジャイアンツ」
場内に長嶋さんの名前がコールされると、スタンドから一斉に歓声や拍手が沸き起こる。小学生の頃から憧れだった、あの長嶋さんとオールスターの舞台で対戦できる──。私は胸の高ぶる気持ちを必死に抑えながら、「フォアボールはダメ。打たれてもいい。とにかくど真ん中に思い切り投げよう」と無我夢中で腕を振った。
結果は──。サードゴロとなり、羽田がさばいてファーストに送球した。
本音を言えば結果なんてどうでも良かった。ただ、「夢の舞台で長嶋さんと真剣勝負ができたこと」。それだけで十分に満足していた。
結局、この試合は3回を投げて打者11人に対して被安打2、奪三振1で無失点に抑えたのだが、それ以上に「憧れの長嶋さんと対戦できた」喜びの方が格別だった。
同時にこの年長嶋さんと対戦できたことは本当に光栄だったと思っていた。なぜならこの年限りで現役を引退されたからだ。
長嶋さんはこの試合の4回表に、ノーアウト一、二塁という場面で打席が回り、近鉄の神部年男さんからレフトへ本塁打を放った。プロに入って初めて生で見る長嶋さんの放物線を描く当たりを、私は一塁側のベンチからあっけにとられながら見ていたのを、まるで昨日のことのように思い出す。
長嶋さんのような人は「おそらく二度と出て来ない」
ルーキーイヤーから16年連続してファン投票のオールスターで選出された長嶋さん。このような人は、今後のプロ野球界ではおそらく二度と出て来ないだろう。長嶋さんの引退された最後の年にオールスターで対戦できたこと、レフトに放った本塁打、さらに私の27回目の誕生日にこのような形で対戦ができたこと自体、生涯忘れることのない、最高のバースデープレゼントとなった。
1975年のオフに、それまで在籍していた南海からノムさんに「旅に出ろや」と言われて阪神に移籍することになったが、私はノムさんを恨んだりしていなかった。なぜなら 「あの長嶋さんが監督として指揮する巨人と対戦できる」と胸躍らせていたからだ。
当時からすでに「人気のセ、実力のパ」と言われていたが、阪神のホームである甲子園球場、巨人のホームである後楽園球場のマウンドで投げられるなんて、幸運としか言いようがない。白黒テレビを見ていた小学生から中学生の頃、「あんな所で投げられるなんてスゲえな」と羨望のまなざしで見ていた江本少年が、大人になってプロ野球選手となって登場する。しかも巨人を相手に挑むことができるなんて、あの頃の野球仲間に「どうだ、スゲえだろ」と自慢したいところではあったが、いざマウンドに上がると、ひたすら緊張から来る気持ちの高ぶりを抑えるのに必死だった。
同世代が皆憧れる存在だった
結果的に私は阪神にいた6年間で巨人との対戦成績は15勝14敗だった。「巨人キラー」と言わずとも、巨人を苦しめたと言える成績は残せたと思う。ある年のシーズンオフ。表彰式の場で、当時の長嶋監督とお会いする機会があった。そのとき言われたのが、「元気!?」と、わずかこの一言だけだったが、不思議なくらい緊張してしまったことをよく覚えている。なんと言っても長嶋さんは私にとって「野球の神様」と呼べるような人だから、多少の緊張は致し方ない。
それに長嶋さんに対する憧れは、私たちの同世代は皆が持っていた。若松勉、平松政次、大矢明彦……。長嶋さんに憧れ、野球を始めてプロを目指し、同じ舞台で戦えることに喜びを感じていた男たちの名前を挙げればキリがない。
<談/江本孟紀>
【江本孟紀】
1947年高知県生まれ。高知商業高校、法政大学、熊谷組(社会人野球)を経て、71年東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)入団。その年、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)移籍、76年阪神タイガースに移籍し、81年現役引退。プロ通算成績は113勝126敗19セーブ。防御率3.52、開幕投手6回、オールスター選出5回、ボーク日本記録。92年参議院議員初当選。2001年1月参議院初代内閣委員長就任。2期12年務め、04年参議院議員離職。現在はサンケイスポーツ、フジテレビ、ニッポン放送を中心にプロ野球解説者として活動。2017年秋の叙勲で旭日中綬章受章。アメリカ独立リーグ初の日本人チーム・サムライベアーズ副コミッショナー・総監督、クラブチーム・京都ファイアーバーズを立ち上げ総監督、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督として北京五輪アジア予選出場など球界の底辺拡大・発展に努めてきた。ベストセラーとなった『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(ベストセラーズ)、『阪神タイガースぶっちゃけ話』(清談社Publico)をはじめ著書は80冊を超える。