さて、数多いる出演者の中でも、大きな声と独特のジェスチャーで意見を発し続けたゾマホン・ルフィンさん(60歳)のインパクトはものすごかった。実は、番組終了後の彼もすごいのだ。いつの間にか駐日ベナン共和国大使として活動したり、ベナンの大統領特別顧問という重要ポジションについたり、はたまたベナンの国会議員選挙に出馬したり……。
そもそも、なぜ彼は日本へやってきたのだろう? どういう経緯でテレビに出るようになったのか? どうして、そこまでビートたけしに恩義を感じているのか? 『ここヘン』終了の2002年から23年後となる2025年に敢行した、ゾマホンさんのロングインタビュー。これを読めば、世界がわかる。
“11人きょうだい”だが、残ったのは3人
――西アフリカのベナン共和国から日本にやってきたゾマホンさんですが、生まれ育ったのはどんな環境でしたか?ゾマホン:私は家族のなかでは末っ子でした。母は11人の子どもをつくったけどそのなかの8人が死んで、残ったのは私を含めて3人。当時の途上国は、子どもの死亡率が高いですね。
――どういう生活を送っていたのでしょうか?
ゾマホン:まず、朝起きて家の作業。掃除とか皿洗いをして。あとは、ちゃんと家で勉強する。朝だから電気がなくても明るいですね。そして、シャワーを浴びてから学校に行きます。
――そのシャワーは、川の水ですか?
ゾマホン:そう、汚い川の水ですね。それをみんな飲んでるし、動物も飲んでいる。だけど、危ないよ。だって、飲むと体から虫が出るから。
――体から虫が出る?

途中で死んだ子どもたちはいっぱいます。だから、子どもたちの死亡率は高い。あと、近くに病院がないのでそんな簡単には診てもらえないですね。みんな、お金もないし。
――川は離れた場所にあるんですか?
ゾマホン:もちろん。
ベナンも学歴社会…「夜中は外の街灯で勉強」
――それから学校で勉強して、家に帰ってからまた仕事をするわけですか?ゾマホン:そうだよ。でも、夜暗くなる前まで宿題をしないと。
――そうか。明るいうちに宿題もしなきゃいけないですね。
ゾマホン:いけない。夜中は外の街灯で勉強したですよ。
――ビートたけしさんも小さい頃、家が狭いから外に出て街灯の明かりで勉強したらしいですよ。
ゾマホン:足立区で? うちは狭いだけじゃなくて、電気もないよ。水道もない。
でも、45歳のときに父が死んで。そのとき、私は15~16歳だったです。経済的に弱くなったお母さんは、私の学費が払えなくなりました。ベナンは学歴社会だから、大学を卒業して高学歴じゃないと社会に出てもいいことはない。
自分のことをエリートだとは思わない
――では、学費はどうしたんですか?ゾマホン:もちろん、自分で働いて稼いだ。ベナンには上流社会と中流社会と下流社会があって、私は下流社会の人間だったですね。だから、学費を稼ぐためには結構大変だった。
小学校を卒業して、中学1年生から私は家庭教師をしていたですね。あれは楽なアルバイトだけど、もっときつい車の掃除のアルバイトとかもしたね。
――そういうふうに大学の学費を稼いでいったわけですか。
ゾマホン:もちろん。
――周りの子どもたちも、ゾマホンさんみたいに勉強したんですか?
ゾマホン:勉強した人も、そうでもない人もいるよ。でも、学歴社会だからハングリー精神で勉強した。金持ちの人は、子どもをフランスに留学させるですね。私みたいな貧乏な家の子どもは、海外なんて考えられない。でも、大学に行ってからベナンの国家試験を受けて全国3番目の成績だった。「人生に勝ちたい!」という気持ちで国家試験を受けて、中国に国費留学することができた。
――たけしさんは、ゾマホンさんのことを「あいつはエリートなんだ」と言っていました。ご自分のことをエリートだと思いますか?
ゾマホン:思わない。プータローと思ってます(笑)。
本当は日本に留学したかったのだが…
――中国に留学しようと思った理由は?ゾマホン:行きたい国は日本だった。でも、残念ながらベナンに日本大使館はなかった。だから、行けない。
――なぜ、そこまで日本に憧れを?
ゾマホン:中学で日本の歴史と技術について学んだからです。ベナンではみんな、日本人はちょんまげをして、刀を持って歩いている人たちだと思っていた。今思い出すと、それは全部うそですね(笑)。
――中国の暮らしはどうでしたか?
ゾマホン:とっても楽しかった。国費留学だから、毎月3000円支給されたよ。3万円じゃなくて3000円の生活。
――中国でもアルバイトはしたんですか?
ゾマホン:もちろん、したよ。ルワンダ大使館の事務所の掃除をした。そこで大使と仲良くなった。大使が俺のことを好きで「車の免許は持っていますか? 私の運転手をやってください」って。
――えーっ、すごい話ですね。
ゾマホン:うん。勤勉に掃除を綺麗にやってたから。
――だから、信用を得たわけですね。
ゾマホン:そうです。だから、中国は楽しかったよ! 天国。
ちょんまげでもないし、刀を差してもいなかった
――そこから、どういう経緯で日本に来たのですか?ゾマホン:初めて日本人と会ったのは中国だったですよ。中国で勉強していたとき、クラスメイトの多くは日本人でした。誰もちょんまげをつけていないし、誰も刀を差していないから、「Are You Japanese?」「Show me your passport?」って聞いたら「この黒人、頭おかしいよ。俺のパスポートを見せろって言ってる」って(笑)。
そのなかに、高橋昭明さんという人の子どもがいたわけ。4年間一緒に勉強したら「このアフリカ人の態度はいいな」と思われて、彼の信用を受けた。「ゾマホンの気持ちはわかってます。日本に留学をするなら父が保証人になる」と言ってくれた。だから、私は運命を信じている。みんな、運命を持っています。
――はじめは「なんで、ちょんまげ結ってないの?」という出会いだったのに、すごいめぐり合わせですね! そこから日本に行ったわけですか?
ゾマホン:はい。私がお世話になった恩人として、高橋昭明さんと北野武さんがいます。
――そこに、(『ここがヘンだよ日本人』で共演した)テリー伊藤さんの名前は入らなそうですね(笑)。
ゾマホン:テリー伊藤、最初は敵だった。今はもう、敵じゃない。今は本当に仲いいです。昔は、私が「日本人になりたい」と言ったら「おまえは無理だよ、馬鹿野郎。あの馬鹿な黒人は日本人になれない!」って(笑)。
――テリーさんは、そういうキャラを演じていたところがありましたけどね(笑)。
ゾマホン:テリーが演技をしているかどうか、当時はわかんない。俺は本気で言ってるから。「おい、黒人! おまえ、死ね」「え、俺? 死にたくないよ」「死ね、馬鹿野郎」「ダメだな、こいつ」って。
――毎回、ケンカしてましたね(笑)。
ゾマホン:もう、殴りたいぐらいですよ。いつもプロデューサーが警備員を呼んで、「ゾマホンが暴れないように気をつけろ」って言ってたです。でも、今は本当に仲良くなった。
――今もテリーさんとはお付き合いがあるんですね。
ゾマホン:ああ、携帯番号も知ってるし。高橋さんやたけしさんのなかには入ってこないけど、でも恩人です(笑)。
来日当初は「睡眠時間が毎日1時間半」
――国費留学だった中国とは違い、日本への留学はお金がかかったと思います。ゾマホン:そうですね。持っていたお金は350ドル、3万5000円しかなかったです。江戸川区西小岩の学旺日本語学校に通って、学費は雑費を入れて年100万円だったですよ。朝8時から12時までは日本語学校の授業に出て、それが終わってから八千代台にある印刷工場で2時から6時まで時給450円のアルバイト。
その後、高円寺の中国センターで日本人とアメリカの黒人に中国語を教えてた。時給3000円もらえるですよ。でも、残念ながら夜8~9時の1時間だけだった。人生、甘くないねえ。その後に東中野まで行って、宅急便の下請けの会社で夜10時~深夜3時まで荷物を運ぶ。あれも時給450円。土日に10時間仕事しても5000円しかもらえないよ。
――えーっ、安い!
ゾマホン:アパートは高円寺の家賃4万円、4.5畳の風呂なしだよ。銭湯は週に2回。だから、3時にアルバイトが終わって、4時に家に帰ってきたら台所でタオルで体を拭く。そこから、宿題をやらないとだめです。ちゃんと勉強してちゃんと学校に行かないと、学生ビザの更新はできないから。
――全然寝られないですね。
ゾマホン:4時から宿題を始めて、5時前には横になって。朝は7時11分の電車に乗らないと、8時から始まる授業には出られません。睡眠時間は2時間いかないね。毎日1時間半くらい。
だから、電車のなかで立ちながら寝てた。それで周りの人に「すいません」って、すいませんばっかりだよ。初めて日本に来たときは「なんで、電車のなかで日本人は寝る?」って思ったけど、授業が始まってからは俺が立って寝てる(笑)。朝は電車がギュウギュウだったから。
それで、結果的に胃潰瘍になった。四谷の病院に入院して、胃カメラで見たら「この黒人は死ぬだろう」と言われたの。「睡眠時間が少ない」って言われて(笑)。
左手の指を切断したおかげで今がある

ゾマホン:そしてある日、寝不足で疲れたまま工場で働いていたら、左手の人差し指を機械で切りました。
――(ゾマホンの人差し指を見て)本当ですね……。そんなことがあったんですか。悲しい出来事だと思います。
ゾマホン:悲しいと思ってないよ! この事故のおかげでお金が出たですよ。労災、173万円。国からもらえたです。そのお金のおかげで上智大学に入る機会ができたですよ。一般試験を受けて、1996年に上智の教育社会学部に入った。博士課程前期の論文のテーマは、ベナンをはじめ中国、日本の初等教育で勉強する教科書の内容の比較でした。
――その事故で、心はくじけなかったですか?
ゾマホン:ないないない! この事故のおかげで、私には今日という日があるわけだから。日本で一番好きなのは、「おかげ様」という言葉。中国の「おかげ」で、私は日本人に出会えた。そして、日本人の「おかげ」で私は成功しました。今、1人で歩いても心がうれしくてたまらないです。本当に幸せ。「やったね! 日本にお世話になった32年間、これはすごいな」と、思ってます。
偶然の巡りあわせで番組出演することに
――ゾマホンさんといえば、『ここがヘンだよ日本人』の出演が印象深いです。この番組に出演するようになった経緯を教えてください。ゾマホン:私は神様を信じてます。1994年3月17日、私は成田空港に着きました。ちょうど4年後の1998年3月17日、夜中3時にアルバイトが終わって給料をもらったですよ。1ヶ月分の給料だから6万ちょっとをもらい、いいものを食べようと阿佐ヶ谷のラーメン屋さんに入った。480円の味噌ラーメン(大盛り)頼んで待っていたら、稲川素子オフィス(※外国人タレントが多数所属する芸能事務所)の人が急に店に入ってきたですよ。
その人に「Can you speak English?」「Can you speak Japanese?」と聞かれました。「うん、少し」って答えたら「オッケー。明日、赤坂のTBSで『ここがヘンだよ日本人』という番組があります。1回出たら1万5000円もらえます」と言われたの。「え!? 出ますよ」と答えました(笑)。次の日、電車に乗って赤坂に行ったですよ。そしたら、外国人が300人いた。多くの出演者は配偶者のビザで来てて、あとは学生もいっぱいた。
「本当に今日は1万円もらえますか?」って言ったら、みんな笑ってた。「いや、笑い話じゃなくて本当にもらえるんですか?」とスタッフに聞いたら「うん、身分証明書を見せたらすぐ渡すから」って。
そして、番組が始まったら我々300人の前に座っていたのはビートたけしさん。知らない。会ったこともない、名前を聞いたこともない。
ビートたけしに「おまえは相当頭が悪い」
――そのとき、ゾマホンさんはたけしさんのことを知らなかったんですね。ゾマホン:知らない。私が持ってたのはゴミ置き場で拾ったテレビだったです。バンバン叩かないと映像が出てこない。残念ながら、私はテレビを見れない! だから、名前も聞いたことない。ビートたけし、舛添要一、猪瀬直樹、曙、RIKACO……みんないっぱい出てたですよ。誰も私は知らなかった。そして、私は体が痛いですよ。
――仕事で疲れていたんですね。
ゾマホン:荷物を運ぶのが大変で。だから、番組始まってから2~3分後に、私は寝てしまったです。途中でいびきかいて「カーッ、カーッ」。
――収録中にいびきをかいたんですか(笑)。
ゾマホン:そしたら、プロデューサーが収録が終わる3分前に「まだ喋ってない外国人はいますか?」。そしたら、隣にいたウクライナ人が私のことを指差した。そして、ガンマイクでいびきを録られて。私は本当にぐっすり寝ている。だって、みんなワーってしゃべって、配偶者がいるから私より日本語がペラペラ。私はそんな流暢な日本語を喋れなくて、言いたいことが言えないから怒ってたですね。だから私は収録が始まってからずーーっと寝てたですよ。
ほかの外国人は「寝てるぞ、あの黒人が!」と騒いで、たけしさんも「(木槌を叩いて)バン、バン! 静かに、静かに!」と困ってた。起きたら、ケビン・クローン(※アメリカ人の出演者)から「何やってんの、お前!」と言われて、「うるせえよ、おまえ」ってケンカが始まったですよ。そして「このテーマ、誰がつくったの?」って言ったら、たけしさんが「俺だよ、俺だよ」って。
だから、たけしさんに「このテーマをつくったのはおまえ? 相当頭悪いね」と言ったら、ほかの外国人が怒りだしたね。「誰が『お前』なの!? ビートたけしさんだよ!」って言われたけど、私は「ベナンで日本人に会ったことはないです」と言った。「自分の国で日本人に会ったことがない! 日本人の観光者はヨーロッパとかアメリカとか、欧米しか行かない!! アフリカのほうは行かないでしょう。だから、このテーマは話にならない!!! もう、終わり!!!!」って怒りながら言ったですね。
楽屋に呼ばれ、その後レギュラーに
――本気でゾマホンさんは怒っていたんですね。ゾマホン:そうです、演技じゃない! タレントじゃないから、演技なんてわかんない!! それで収録が終わって、ほかの外国人とケンカしないように私はガードされたですね。でも、殴りかかられても私はオッケーだよ。俺、もうやってやるからさ。
――ケンカは買うと(笑)。
ゾマホン:やるやる! もう、殺すまでやるよ。不安は全然ない。お腹すいてたし、1万5000円もらえるし、やるよ! ただ、収録が終わったらプロデューサーがビートたけしさんの楽屋に私を連れて行ってくれたですね。
――えっ、たけしさんの楽屋に行ったんですか?
ゾマホン:そう。なぜかと言うと、たけしさんが「ゾマホンに会いたい」って。
――きっと、「あいつ、おもしろいぞ」とたけしさんは思っていたんでしょうね。
ゾマホン:それで、番組のレギュラーになった。
――レギュラーでしたね。ゾマホンさんは番組が生んだスターでした。
ゾマホン:ありがたいことです。だから、私は縁を信じています。中国から日本に来たり、ラーメン屋さんでスカウトされたり。
レストランで渡された「100万円」
――その後、現在に至るまでたけしさんとの縁は長いですね。ゾマホン:番組が終わった後も、水道橋博士さんの紹介でレストランでたけしさんに会って。なぜ紹介されたかと言うと、番組が終わってから私はプータローになったですよ。「家賃、どうしよう……」って。あとそのとき、母が病気で死にそうだったのでベナンに帰ろうとしたけど、帰るお金もなかった。そういう悩みがある中で、「たけしさんだったら」って博士が会わせてくれた。そこでお母さんの話をしたら、たけしさんが「おまえのお母さんへのお金だよ」って、パ~ン! と100万を現金で渡してくれた。
――現金をレストランで“バン!”と出したんですか! すごい話ですね……。
<取材・文/寺西ジャジューカ 撮影/スギゾー>
【寺西ジャジューカ】
1978年、東京都生まれ。2008年よりフリーライターとして活動中。得意分野は、芸能、音楽、(昔の)プロレス、ドラマ評。『証言UWF 最後の真実』『証言UWF 完全崩壊の真実』『証言「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』『証言1・4 橋本vs.小川 20年目の真実 』『証言 長州力 「革命戦士」の虚と実』(すべて宝島社)で執筆。