大人になったら、親にされたことは忘れるのかと思っていた。実際はそんなことはなかった。

結婚もしてアラフォーと言われる年齢に差し掛かり、フリーのライターとして一応自立もできている。それでも昔の夢を見て飛び起きることがある。

当時、きょうだい5人、両親、父方の祖母の8人で暮らしていた。大阪、新潟、東京、神奈川……と引っ越しは多いほうだと思う。父が事業に失敗するたびに家が変わった。

家族に絆なんてない。お金もない。愛情なんかもちろんない。そこにあるのは父と祖母の暴力と、恐怖だけ。まず、父の話をしよう。

「手を使わずに食え」新聞紙の上の食事…女性記者が明かす“父に...の画像はこちら >>

「殴られる、蹴られる」はまだマシ

子どものころ、家の中が世界のすべてで、長らく父が王様だった。父が右と言えば右、1+1も父が3だと言えば、3になった。気に入らないことがあれば、いともたやすく暴力を振るう父に怯えて生きていた。


殴る蹴るなんて当たり前。食事のとき、私は父の隣に座っていた。常に父の機嫌をうかがっていた。機嫌が悪ければ、顔に拳が飛んでくるから。大人の男性に顔を拳で殴られたことがあるだろうか。目がチカチカする。口の中は切れるし、当たりどころが悪ければ鼻血も出る。顔は腫れるし、青あざにもなる。子どもが怪我をしていることについて、他人に何か言われるのを恐れたのかその間は外に出してもらえなかった。

殴られそうだと身構えれば、殴られる数が倍になる。早く終わらせたければ無抵抗でいるのが一番だった。

でも、「殴られる、蹴られる」はまだマシ。
最悪なのは道具を使われるとき。私が一番辛かったのは、ベルトでぶたれること。下着姿で頭を床にこすりつけるようにして土下座をする。ヒュンッ、と小気味の良い音のあと、裂けるような痛みが背中に走る。むかしむかし、罪人が受けたむち打ち刑が頭によぎる。なんの罪を犯したわけでもないのに……。これが一発で済めばいいのだけれど、最低5回は打たれる。これも逃げれば数が増えるので、痛みにじっとこらえるのが一番早く逃れられるコツだ。あと、泣いたほうがいい。泣かないと意地を張っていて「子どもらしくない」と余計にぶたれた。

「さしすせそ」が言えない妹に対して…

どうして殺してくれなかったのだろう、と大人になってからよく思った。自分が死ねば、少なくとも父にも何かしらの罰が与えられたのにーー。

それでも、私はまだ良いほうだった。
私が長子で、下に弟2人、妹2人がいたのだけれど、すぐ下の次女と長男に対する扱いは、さらに苛烈。煙草の火を押し付けられたり、裸でロープで縛られて家の中で吊るされたり……。

次女は「さしすせそ」がなかなか言えない子だった。「すし」が「つち」になってしまう。いま思えば、かわいい話ではないか。しかし、父からするとそれが許せなかったらしく、自分が寿司を食べる横で「お前が食べたいのは『土』だもんな」と庭の土を顔に押し付けていた。アホみたいなことを大真面目にやっていた。

「手を使わずに食え」と言われた


体の痛み以外で辛かったのは、食事を与えてもらえないこと。食べさせてもらえても、新聞紙の上に白米とおかずを盛られ、「手を使わずに食え」と言われるときもあった。犬と一緒だ。いや、犬でも器を使っているか……。これは、かなり屈辱的だった。私も子どもながらにプライドもあったのだろう。
そんなことができるかと食べずにいると、髪を掴まれ、食事に顔を押し付けられた。

「せっかく食べてもいいって言ってやってるのに」

反論はできないし、痛いし、息ができない。辛かった。呼吸をするために、口元にある食事を頬張った。泣きながら、無理やり飲み込んだら「こんなことをされても食べるなんて意地汚い」とののしられた。

味はしない。でも、結局、食べた。食べないと殴られるから。手を使わずに、動物のように食べた。

小学校に行かせてもらえなかった

逆らえばいいのに、家から逃げ出せばいいのに、と言うだろうか。

子どもだから、お金がないから、というだけじゃない。殴られるのも、食べられないのも全てお前が悪いからだ、と教え込まれている人間にそんなことができるはずがない。逃げてもその先でまた殴られるから。


食事がもらえないのも、殴られるのも私が不出来だから。泣いて乞うて、やっと食べさせてもらえる食事がおいしいはずもなかった。たまに母に会うと手料理をふるまってくれようとするのだが、いまだに母の手料理が好きではない。特に揚げ物。母には申し訳ないが、無理やり食べさせられた脂っこい肉の匂いと新聞紙の匂いが混ざったものを思い出す。

周りに助けてくれる大人はいなかったのか。当時はいない、と思っていた。なぜなら小学校には行かせてもらえていなかったから。

勉強は家でやらされていた。父は元塾の講師で、教材は山のようにあった。7歳のときから中学校程度の教材をやらされていた。自分の子どもだったらこれぐらいできて当然だ、と。
もちろん、できなければ殴られる。そして私は頭が良くないのでできない。

周りの大人は助けようとしてくれていた

振り返ると、周りの大人は助けようとしてくれていたのだと思う。隣家の住人が、何度もうちに尋ねてきていた。

「毎日のように子どもの泣き声が聞こえる」「虐待をしているのではないか」ーー。

そのときに、私たち子どもが「助けて」と声を上げられれば、よかったのだろう。でも、できなかった。「あのオバハンは非常識」「うちに嫌がらせをしてきている頭の悪い人間」と、父と祖母に言い聞かされた。万が一、外に出て声をかけられても返事はしてはいけないと言われた。その言いつけを破る勇気はなかった。

市からも大人が来た。「義務教育を受けるべき子どもがいるのに、小学校に行かせていませんよね」と指摘を受けたらしい。よくあのとき、あっさりと私を小学校に入れてくれたな、と思う。入学させないと罰金を取られるからだろうか。父は公的機関からお金をとられるのが大嫌いなので、そのおかげかもしれない。

私がはじめて外の社会に触れられたのは、小学校2年生の梅雨の時期だった。やっと人間への第一歩を踏み出したのはこの時だったと思う。

ただ、小学校に行けるようになったからと言って救われるようになったわけではない。うちには父だけではなく、祖母というモンスターもいたのだ。

<TEXT/ふくだ りょうこ>

【ふくだ りょうこ】
大阪府出身。大学卒業後、フリーランスのライターとして執筆活動を開始。ゲームシナリオのほか、インタビュー、エッセイ、コラム記事などを執筆。やせ型の夫とうさぎと暮らしている。X:@pukuryo
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