両親の離婚直後に、父から虐待を受けるように
橋本さんの両親が離婚したのは、彼が4歳のとき。一度は弟とともに母親に引き取られ、別居状態となったものの、父親が家庭裁判所に訴えたことで事態は一変した。家裁からの出頭命令によって、2人の兄弟は父親に引き取られることになったのだという。虐待は、その直後にはじまった。「私が5歳くらいのときです。父は体育大学で柔道をやっていた過去があり、体躯の大きな人でした。グーで殴るなどは当たり前で、背負投をされて呼吸ができなくなることもありました。ほかにも包丁を向けられたり……。特に父が怒るのは、食べ物を残したときです。それがわかっていたので、私も弟も逆鱗に触れないように過ごしていました」
いつもより長く父から暴行を受けた弟が…
だがこの日だけは、事情が違った。出来合いの弁当が連続する日々、弟はそれを残したうえ、怒られるのを恐れてゴミに捨ててしまったのだ。それは瞬く間に父の知るところとなった。「弟がいつもよりも長く父から暴行を受けているのを、私はただ立ち尽くすしかできずにいました。身体が硬直してしまって、『いつこっちに矛先が向くのか』と震えていました。ボロボロになった弟を父が風呂場に連れていき、『そこで反省しろ』みたいなことを言ってリビングに移動したのだと思います。しばらくして、父が私に『あいつを見てこい』というので見に行くと、浴槽にうつ伏せで浮かんでいる弟を見つけました。弟は息をしていませんでした」
急いで父親が心臓マッサージを行い、救急車も呼ばれたが、命を繋ぎ止めることはできなかった。その出来事のあと、警察がきたが、父親のこんな言葉を耳にしたという。
「あまり詳しいことは覚えていませんが、父が警察官に『事故なんだ』みたいなことを言っていました。その後、父は相変わらず一緒に生活をしていたので、逮捕はされていないのだと思います」
虐待から逃げるように非行に走った中学生時代
父親は、橋本さんが小学校2年生のときに再婚した。1年ほど生活をしたのち、今度は継母の虐待を受けることに。「あとから聞いた話では、あまりにも懐かない私に業を煮やして虐待をしたということでした。真冬に裸で外に出されたり、熱したアイロンを肌に押し当てられるなどしました。現在でも痕が残っています。『死ね』『消えろ』『なんで生きてるんだ』という言葉による暴力や、食事を食べさせないなどのネグレクトもみられるようになりました」
自宅に居場所はない。
「中学校に行かず、窃盗で得たものを売ったお金で食べ物を購入していたんです。食べるための非行だったような気がします。中学生になると暴力から逃げることを覚えるので、最初は公衆トイレなどで寝泊まりをしていました。そのうち、当時はたくさんあったボーリング場が深夜2時くらいまで開いていることに目をつけて、閉店ギリギリまでいました。その後は、コインランドリーが温かいことに気づいて、そこで夜を明かす生活をしていました。ただ、ときには補導されたのち、児童養護施設に一時保護をされることもありました」
自分が親になって、当時の父親の心境が知りたかった
中学ではほとんど家にも学校にも顔を出さず、高校は全寮制高校へ進学。その高校は大企業の育成校の側面があったので、流れるように就職した。父とは顔を合わせない日々が続いた。結婚を経て、自身に子どもができたタイミングで、橋本さんは父親に会うことを思いつく。
「最後にあったのは就職後に身元保証人になってもらうためにお願いしたときでした。そのときに大喧嘩になったため、一切会わずにいました。しかし誕生日になると必ず電話がかかってきたんです。

「久しぶりに会った父は、もう子どものときに感じた“巨人”ではありませんでした。『よく会ってくれた』と泣く父は小さく見えました。面会は長い時間だったので、さまざまな話ができました。弟のことに話が及んだとき、『隆の事故は残念だった』と父は言いました。私が『事故じゃないのはわかっている』と伝えると、下を向いてそれ以上何も言いませんでした」
「父の生い立ち」を聞いて訪れた心境の変化
弟を殺したことを決して許さないと言う橋本さん。一方で、心境の変化もあった。「父の生い立ちをはじめて聞きました。父は体育大学へ通い、体育教師になりたいという夢があったようです。しかし長男が亡くなったことで、大学を中退して家業を継がされることになったというのです。しかも、親が決めた女性と強制的に結婚をさせられ、けれども奥さんに子どもができないことを知った父の両親は、すぐに2人を離婚させたというのです。
とはいえ不可解なのは、子どもを“事故”で亡くせば通常は行われるであろう供養が一切行われていないことだ。
「我が家では、『隆の何周忌』といったお墓参りをしたことがありませんでした。父は2019年に他界しましたが、遺品整理の際に弟を預けたお寺の電話番号を知りました。連絡を取ってみると、そのお寺では遺骨を一定期間預かってくれて、その間に無縁仏にするかお墓を建てるかを決めさせてくれるという制度を採用しているのだそうです。当然、その期間はとうに過ぎていましたが、隆の遺骨はまだ保存してくれていました」
自らの使命をまっとうしていきたい

「母は『謝っても謝りきれない』とずっと泣いていました。隆のことも、自分が殺したようなものだと言っていました。母は裁判所からの命令もあって私たちに大っぴらに近づけなかったため、陰ながら保育園に行く私たちを見ていたようです。隆のことが、母の心にも影を落としていたんだなと思います」
これだけの経験をしてなお、“日本一明るい虐待サバイバー”を名乗るのか。
「日本一明るいというのは、テンションが高いという意味ではありません。自らの経験が社会の役に立つなら、喜んで話すという意味です。
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どんなに言葉を尽くしても、忌まわしい過去は消えない。だが父親と同じだけのしがらみを纏ったとき、橋本さんは少し自らの過去を成仏させた。決して消えない弟の名を刻んで、橋本さんは虐待についてみえた実情を世の中に叫び続ける。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki