「報酬とか働き方については、きちんと話し合って決めます。契約違反があれば、そのたびに話し合って改善を求めていきます」というのは、木野雄介さん。
彼は、「フリーランス教員」を名乗っている。
 教員には正規と非正規があり、非正規にも常勤と非常勤がある。常勤は正規と同じように担任や部活動の顧問などもやらされるが、報酬を含めて待遇は正規よりも劣る。非常勤は、いわゆる「時間講師」で、契約した時間数の授業を受け持つだけで、ほかのことはやらない。正規や常勤にとって負担の大きい校内分掌(雑務)もやらない。処遇は、常勤よりも悪くなるのが普通だ。

「子どもたちの人権は後回しだった」元教師が選択した“フリーラ...の画像はこちら >>

「報酬を含めた条件」を交渉して決めている

 フリーランス教員の木野さんを分類するなら、この非常勤ということになる。しかし普通の非常勤とフリーランスである木野さんの違いは、報酬を含めた条件を学校との話し合いで決めていることだ。一般的な非常勤だと学校に言われるままなので低い報酬になってしまうが、木野さんの場合は交渉して決めるので“悪くはない”という。

 大学を卒業した木野さんは、スキーインストラクターとして働く道を選択する。初めて教員採用試験を受けたのは、28歳のときだった。1990年のバブル崩壊の影響による不況が長期化していて就職氷河期といわれた時代が、まだ続いているころだ。企業が採用者数を減らしている反動で公務員人気が高まり、同じく安定している教職にも応募が殺到していたそうだ。
教員不足が深刻となっている現在では信じられない状況で、競争率は何十倍にもなっていたそうだ。結果、最初の教職へのチャレンジは大敗する。

「教わってきた先生」と同じことをしていた

 そこで、教育IT系の国内企業に勤めたり、海外の企業でも働いた。「海外で働いたのは、その経験が教員採用試験においてプラスに評価されると考えたからです」と、木野さん。

 そして、私立の中高一貫校に採用されたのは29歳のときだった。非常勤ではなく、正規教員としての採用である。その教職を2020年3月末に辞めてしまうことになるのだが、その経緯を次のように木野さんは説明する。

「教職に就いたばかりのころは、自分が小中高と教わってきた先生像が自分のなかにあったのか、同じことをやっていました。子どもたちの人権は後回しで、とにかくクラスの秩序を最優先して子どもたちを大人しくさせます。手こそだしませんが、怒鳴って子どもたちを黙らせる、脅して良い成績をとらせる、そういうことをやっていました。それで上手にクラスをまとめているとおもっていて、自分では先生としてうまくやっていると考えていました」

脅すようなかたちで大人しくさせるやり方は違う

「しかし」と、木野さんは言う。「それは大きな勘違いでした」と続ける。

「最初は高校生の担任で、卒業させると、次には中学1年生の担任になりました。中高一貫校なので、そういうローテーションになっていました。
受験勉強を経て、いろいろな夢や希望を抱いて入学してきた子どもたちを、それまでやってきたように脅すようなかたちで大人しくさせるやり方は違うな、と考えるようになりました」

 さらには、その中学1年生が大学を受験する2020年度からは大学入試制度が大きく変わることになっていた。それまでの知識偏重ではなく、自ら学ぶ主体性などが評価される入試に変わるといわれていたのだ。

「主体性を優先する指導などしたことはありませんでした。そこで、いろいろな研修を受けて勉強しました。そうしたなかで気づいたのは、怒鳴って従わせるとか、『夢を実現するには勉強しなければダメだ』と脅すやり方は、全部が外発的な動機づけでしかないといことでした。それでは主体性は育ちません。子どものためとおもっていたけれど、実は自分のためでしかなく、『木野先生のクラスはまとまっているよね』などと言われて、教員としての自分が一目置かれる存在になりたいという思いでしかなかったとにも気づきました」

学校の方針とズレが生じ、担任を外される

 そこから木野さんの指導方法は、ガラリと変わる。子どもたちにも意見を言わせて聞いて対話し、合意形成していくやり方になったのだ。

「かなり変わりましたね。変わりすぎて、従来の有名大学を目指す知識偏重の指導法を変えられない教員とは、かなりぶつかりました」と、木野さん。学校の方針ともズレが生じることになる。

「東京大学に合格できる学力があっても、その生徒が『上智大学を目指したい』と言えば、『いいじゃないか、がんばれ』というのが私の指導でした。しかし、それは学校の方針とは違う。
進学率を優先する学校だったので、実力があるなら本人の希望でなくても東京大学に合格させるのが学校の方針だったのだとおもいます」

 その食い違いなのか、中学1年生から担任してきた子たちが、高校2年生になるとき、木野さんは担任を外されて、違う担任にまわされた。その学校ではそのまま高2、高3と卒業するまで担任するが通常のスタイルだったにもかかわらず、外されてしまったのだ。

 これをきっかけに、木野さんはその学校を辞めた。そして他校の非常勤となり、同時に教育系ベンチャー企業にも就職する。

「非常勤の仕事が決まったのが先だったので、ベンチャー企業に採用が決まったときに『学校の非常勤は辞めるべきですか』と訊いたところ、『教職もやってる社員がいるのもいいかも』と副業が認められました」

主夫業と並行してフリーランス教員に

 そのころから新型コロナウイルス騒ぎ(コロナ禍)で、在宅勤務が増えていく。木野さんだけでなく奧さんも、そして休校になって2人のお子さんも家にいる状態が続くことになる。

「在宅で仕事をしていると私も妻も時間感覚がなくなって際限なく仕事をしていたので、洗濯や掃除などの家事が疎かになっていきました。『これはマズい』というので、会社との折り合いがうまくいっていなかったこともあって、私が会社を辞めることにしました。そして、『僕が主夫業をやる』と妻に宣言しました。妻は仕事をがんばりたい人なので、賛成してくれました」

 学生時代に飲食店の厨房でアルバイトをしていたこともあって、料理は得意なほうなので苦ではなかった。ただし奧さんの希望で、朝食と弁当は奧さん担当になっているという。お子さんの休校が明けると、学校の保護者参観には、ほぼ木野さんが参加するようになった。家事を優先するために夜の仕事やイベント出席も、できるだけ避けている。
主夫業をやりながらフリーランス教員をやっている、というスタイルだ。

フリーランスだからこそ仕事の幅も広がる

 学校の非常勤の仕事も、複数校でかけもちしている。もちろん、条件は話し合って合意できれば決める。

「応募するときに、履歴書の本人希望欄にちゃんと報酬額の希望を書きます。それで『この金額はだせません』と言ってきたら、それで話は終わりです。先方も交渉の余地があるということなら、会って話します」と、木野さん。

 働き方も、何コマかの授業を担当する従来どおりの非常勤スタイルだけでなく、ある探究活動を年間単位で請け負うといったスタイルを提案することもある。学校の仕事だけではない。教育系企業のイベントを引き受けたり、動画作りなどにも参加したりしている。執筆を依頼されることもある。フリーランスだからこそ仕事の幅も広げることができているわけだ。

正規教員の何倍も稼いでいるわけではないが…

 フリーランス教員としての木野さんの職場は、いまのところ私立だけである。非常勤の報酬がきっちり固定されてしまっている公立では、交渉の余地がないからだ。
フリーランス教員など多様な働き方を受け入れられない公立は、ますます教員不足に悩まされることになるかもしれない。それが質の差になっていく可能性すらある。

 正規教員の何倍も稼いでいるわけではない。共稼ぎだからやれているともいえる。しかし、木野さんは家事を楽しんでいるし家族を大事にしている。そしてフリーランス教員として子どもたちと接し、教育に携わる生活も楽しんでいる。

 ブラックといわれる教員という職場で失われているのは、この「楽しむ」ことである。多くの精神疾患に休職教員をだしているのも、そこに要因のひとつがある。楽しむことを実現している木野さんのようなフリーランス教員という生き方は、これからの教員の働き方の選択肢になっていくかもしれない。

<取材・文/前屋毅>

【木野雄介(きの ゆうすけ)】
1980年、横浜市生まれ。中央大学文学部史学科日本史専攻卒業。スキーインストラクター、国内企業、海外企業勤務後に私立の中高一貫校に正規教員として採用される。
そこを辞めて現在は、主夫件フリーランス教員。

【前屋毅】
1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。ジャーナリストの故・立花隆氏、田原総一朗氏のスタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーランスに。流通、金融、自動車などの企業取材がメインだったが、最近は教育関連の記事を書くことが多い。日本経済が立ち直るためにも、教育改革が不可欠と考えている。著書に『教師をやめる』(学事出版)、『疑問だらけの幼保無償化』(扶桑社新書)、『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社)などがある。
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