芸人を辞めて就職したジムは「スーパーブラック」だった
ーー元パートナーと別居がスタートし、レイラさんと2人暮らしを始めた当時、57さんはお笑いを辞めてスポーツジムのトレーナーをしていたとのこと。当時はどのような働き方でしたか。池田57CRAZY(以下、57):トレーナーの仕事をしていたのは、2013年からの4年余りです。職場は、一言でいうとスーパーブラックで(笑)。
何がブラックかというと、とにかく拘束時間が長かったんです。当時の起床時間は、朝の3時前後。ジムが開くのが朝の7時なんですが、そのために掃除やブースの準備があり、朝6時には出社しなくてはいけませんでした。
1時間の休憩を挟んで3~4時頃まで働いたのち、一旦家に帰って夕飯の準備に取りかかります。21時までにレイラを寝かしつけた後、閉め作業のため22時頃に再び出勤することもありました。
ーーそれはかなりのオーバーワークですね……。
57:当時は「家事も仕事も全部完璧にやる!」と、啖呵を切っていました。無理がたたり、レイラと2人暮らしを始めて約1年半後の’15年5月に一度倒れ、約1ヵ月間入院してしまったんですよね。
最初は単なる過労だと思っていましたが、医師には「免疫系の病気が絡んでいる」と言われ、人生を考え直すようになりました。
ちょうど同じ年に「M-1グランプリ」が5年ぶりに復活したんですけど、M-1で死ぬほど滑ったら諦めもつくのかな? なんて思ったんです。それでレイラを誘って’16年に「完熟フレッシュ」を結成、その年に3回戦進出を果たして、翌年のM-1では準々決勝まで進みました。アマチュアでは日本一の結果でした。
しばらくは仕事と兼業でネタ作りをしていたのですが、’17年、若手芸人がネタを披露し、ナインティナインさんが審査するバラエティ番組「おもしろ荘」(日本テレビ)のオーディションに合格し、仕事を辞める踏ん切りがつきました。
ーー子育て中、かつ安定した収入がある中で、専業の芸人に戻る決心がよくできましたね。
57:ジムの基本給は17万ぐらいと低めでしたが、残業代やインセンティブなどを合わせると、一番いい時の月収60万程度はありました。
なので確かに生活は安定していたんですけど、何年もやっていると先が見えてきてしまって……。芸人時代はお金もなかったですし、パワハラも当たり前のようにありましたけど、不思議と楽しかったんですよね。12年近くやっていたというのもあったのかもしれません。
緞帳が閉まった瞬間、バタンと倒れるのが理想

57:中学までは公立に通わせていたので、教育費の負担はそこまで大きくありませんでした。
苦労したとすれば、同級生のお母さん達との人間関係でしょうか。離婚後はPTAや学校行事などにも出席するようになりましたが、すでにママ友同士の輪が出来上がっていて、男一人だと警戒されて入れないことが多かったんです。それまでは元妻ありきの人間関係だったので、母親が間にいるのといないのとでこんなに違うのか、と思ってしまいました。
ーー子育てにせよ支援制度にせよ、シングルマザーと比べれば、シングルファザーの方が情報を得づらい側面はありそうです。
57:ママ友がいれば情報が流れてくるのも早いですけど、男親の場合、情報面で損をしている部分は間違いなくあると思います。
児童扶養手当や医療費助成制度など、「ひとり親家庭」を対象とした制度は、性別に関係なく利用できるものがほとんどですから、もしわからないことがあれば、役場の子育て支援課に足を運んで図々しく聞いてみてもいいと思います。
ーーコンビ結成から9年が経ち、最近ではレイラさんのグラビアなど、ソロでの活動も増えています。
57:ニーズがあれば、ソロ活動はお互い積極的にやっていきたいです。僕自身は、「路線バスで寄り道の旅」(テレビ朝日)のような、カッチリしすぎていない旅番組をやってみたいですね。
特に関心があるのが神社で、御朱印帳は2年で11冊を越えました。今、山梨県にある丹波山村という村でふるさと大使を務めているんですけど、「ささら獅子舞」という村の伝統行事が行われる熊野神社が特に好きですね。
ーーお笑いは今後も続けていく予定ですか?
57:死ぬまで続けたいです。
一度は芸人の夢を諦めながら、わが子とコンビを組むことによって、芸人としての再起を遂げた57さん。親子の仲を深めつつ、自己実現も叶える「一石二鳥」のスタイルで、シングルファザーという生き方の新たな可能性を切り開いていく。
<取材・文/松岡瑛理>
【松岡瑛理】
一橋大学大学院社会学研究科修了後、『サンデー毎日』『週刊朝日』などの記者を経て、24年6月より『SPA!』編集部で編集・ライター。 Xアカウント: @osomatu_san