―[貧困東大生・布施川天馬]―

 みなさんは「教養」とは何だと思いますか?
 どんなことができる人を「教養がある人物」だと形容するでしょうか。

 最近、本屋に行くと一冊は「教養を身につけるために!」のようなポップとともに、ゴテゴテのギラついた表紙に飾られた「教養のための必読書」を見かけます。


 タイトルには「毎日読めば教養が身につく」だの「世界のエリートが読んでいる教養書」だの、大層なお題目が。

「世間のエリート」がどう思っているかは、私にはわかりませんが、少なくとも私の知り合いの東大生たちは、みんな一歩引いたところから冷めきった目線でこの「教養ブーム」を観察しています。

 先日彼らは、「『○○(難読書)を代わりに読む』がテーマの本って、あまりにも結果にしか目が行っていないことがわかってしまって、ダサすぎる」と話していました。

「教養がない人が、見せかけの教養を手にするために買いに行くバカのためのファスト・ナレッジ」「バカ証明書」だという人もいます。

 東大生は、みんな入学直後に「教養学部」と呼ばれる学部に進学します。ここでは、いわゆる「教養本」とは正反対の観点から学びを得ることがよしとされる。東大教養学部の学びも踏まえつつ、世に溢れる「教養本」の意義を問います。

東大生が「バカ証明書」と冷笑している“本のジャンル”とは。「...の画像はこちら >>

教養とは

 世の中にあふれる「教養本」を、私も2冊買ってみました。すると、ある1冊の最初の50ページほどは「世界のエリートが呼んでいる教養書」として100以上の古典や名著のタイトルと、2行程度のあらすじ・もしくは筆者の感想が書き連ねられているだけ。

 もう1冊の方は、各ページに1~2ページで収まる様々な雑学コラムが書かれているだけ。さすがにこれは、教養とは呼べないように感じられました。

 そもそも、教養とはなんでしょうか。インターネットで辞書を引いてみると、以下のように出てきました。



教え育てること。
「君の子として之これを―して呉れ給え」〈木下尚江・良人の自白〉


㋐学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。
㋑社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。

※コトバンク「教養」 2025年8月13日閲覧

 おそらく、「教養本」の読者が求める「教養」とは、2番目の項目が言及している意味の言葉でしょう。

 たくさん勉強をした人が持っている知的な余裕を漂わせ、かつユーモアを持ち合わせたような豊かな心を求めて、誰もが「教養本」を手に取ります。

「勉強法」が知りたいなら、「勉強法に関して書かれた本」を手に取ればいい。では、なぜ「教養」を求めて「教養本」に触れるのがダメなのでしょうか?

筋肉があれば「強い」というわけではない

 世間で考えられているところの教養は、上記のような「知的な態度」でありながら、それを身に着けるのは大変です。

 たくさん筋トレをして、ムキムキのマッチョになっても、強くなった気がしないように、筋肉があればあるほど「強そう」に見えますし、「強さ」に近づけますが、「強い」わけではない。

 同じように、教養も、知識があればあるほど「賢そう」に振る舞えますが、「賢い」わけではありません。

 では、どんな人が強いのでしょうか?

 それはおそらく、身体の使い方について、実践的な理解を深めた人ではないでしょうか。

 筋肉があるだけの人を「強者」と恐れないように、料理のレシピをたくさん知っているだけの人を「料理上手」と呼ばないように、同じくして、知識をたくさん持っているだけの人を、我々は「教養人」とは讃えません。

 なぜならば、集めた知識の使い方や発想の幅などを見て「教養がある」と認識できるのであって、知識を集めるだけで使い方の分からない人は、ただの知識マニアにすぎないからです。


 そして、ただの知識マニアは、現代社会においてどうあがいても機械に勝てません。

 インターネットで検索すれば大抵の情報が出てくる現代では、どれだけ計算が速くても「100円の電卓未満」ですし、どれだけ幅広い知識を揃えていても、ただ概要を知っているだけでは「辞書の劣化」に過ぎないのです。

 教養とは、おそらく知識そのものではなく、それぞれの知識に関する深い理解と、一見関連のなさそうな事象同士に関係性を見出して、グループ分けすることで身につきます。

 仮にこれがあっているとすれば、少なくとも私が読んだ限りでは、市販の教養本は、「劣化辞書人間」を量産するだけにしか見えません。

なぜ東京大学には「教養学部」があるのか

 ここで、「教養」を学部名に冠する東京大学教養学部についてみてみましょう。

 現役東大生ライターの碓氷氏の記事によれば、教養学部では文理を飛び越えた幅広い学びと、それを楽しむ好奇心豊かな人々に出会えるといいます。

 私がかつて東大教養学部に在籍していた時にも、私は文科三類から文学部に進学するガチガチの文系学生であったにもかかわらず、興味のある生物系の授業を受講できていました。

 むしろ、カリキュラム上、文系学生は理科や数学を、理系学生も人文系の科目を1つも取らずに卒業することは(少なくとも当時は)困難であり、東京大学教養学部は、学生に「枠にとらわれない知識」を身に着けさせる目的を持っていることが読み取れます。

 これは、東京大学が、「文系は文系」「理系は理系」と専門分野を絞ることで身に着ける知識の幅が狭まる事態を憂慮し、「文系だから理科は要らない」「理系だから古典は要らない」といったような安直かつ視野の狭い人間を量産しないように、このような教育カリキュラムを敷いているのではないでしょうか。

 そこで、東京大学教養学部の便覧を確認すると、「前期課程では特定の専門分野に偏らない総合的な視野を獲得させるリベラル・アーツ教育」を行うものと記されています。

 東京大学が「総合的な視点」「多角的な視座」に重きを置いていることがよく読み取れる一文です。

あくまで教養は「視座の高さ・広さ」にある

 教養というと、「シェイクスピアを何冊読んだ」だの「哲学書を何冊読破した」だの、そういったインスタントな発想を持っている方が多いのかもしれません。

 だからこそ、誰もが知っている世界的名著を100冊書き連ねて、50文字程度の薄いあらすじを添えるだけで「教養を身に着ける手引き」と胸を張れる人が出てきてしまうのでしょう。


 確かに、そういった本を100冊並べられて、中身について述べられる人は、様々な知識を持っているでしょうし、教養人なのかもしれません。

 ですが、それらをすべて読破しても、恐らく教養は身につかない。

 重要なのは、日々目にしたこと、耳にしたことを自分の中の知識と体系付けながら吸収すること。自分だけの知の大樹を育て上げ、ゆくゆくは大森林の広がりを持たせる努力が必要です。

 知識単体には意味がなく、それをどのように分析し、活用するのかが大切です。知識フリークになる前に、もう一度思いなおしてみるといいのかもしれません。

<文/布施川天馬>

―[貧困東大生・布施川天馬]―

【布施川天馬】
1997年生まれ。世帯年収300万円台の家庭に生まれながらも、効率的な勉強法を自ら編み出し、東大合格を果たす。著書に最小限のコストで最大の成果を出すためのノウハウを体系化した著書『東大式節約勉強法』、膨大な範囲と量の受験勉強をする中で気がついた「コスパを極限まで高める時間の使い方」を解説した『東大式時間術』がある。株式会社カルペ・ディエムにて、講師として、お金と時間をかけない「省エネ」スタイルの勉強法を学生たちに伝えている。(Xアカウント:@Temma_Fusegawa)
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