「いいからどけよ。俺、疲れてんだよ」
東京での出張を終え、夕方の東海道新幹線に乗り込んだ高橋雄也さん(仮名)。自由席はすでに半分以上が埋まっていたが、運よく通路側の席を確保できた。ノートパソコンを取り出して仕事をしようとした矢先、スーツ姿の中年男性が高橋さんの前に立ち止まった。男性は50代後半ほどで、ネクタイは少し緩み、顔には疲労感と苛立ちがにじんでいる。彼は高橋さんに向かってこう言った。
「そこ、俺の席なんだけど」
突然の発言に驚きつつも、高橋さんは「こちらは自由席ですよ」と穏やかに返答した。
しかし男性は引き下がらず、不機嫌そうにポケットから切符を取り出して見せてきた。確かにチケットには座席番号が記載されていたが、それは指定席であり、しかも隣の号車の番号だった。
「失礼ですが、お手元のチケット、指定席のようですし、ここは自由席ですよ」と高橋さんが説明しても、男性は全く譲らない様子。
「は? いいからどけよ。俺、疲れてんだよ」
語気を強め、高橋さんを睨みつけるような目つきで詰め寄ってくる男性。
だが、高橋さんは立ち上がることなく、「車掌さんを呼んできてもいいですよ」と冷静に返した。すると近くに座っていた20代くらいの女性が席を立ち、「呼んできますね」と小声で言って通路を歩いていった。
車掌が到着、真実が明らかに
しばらくして車掌が到着し、男性のチケットを確認した。車掌は静かに、しかしはっきりとこう告げた。「お客様、こちらは自由席車両でして、指定いただいたお席は一号車前方にございます」
一瞬で顔が赤くなった男性は、「……ああ、そう」とだけ呟き、周囲の視線を浴びながら無言でその場を離れた。
通路を歩く後ろ姿には、恥ずかしさと敗北感が表れていた。高橋さんは改めて席に腰を下ろし、中断していた仕事に戻った。
男性が去った後、乗客の一人が小声で「なんだったんだアイツ……」とつぶやいた。
就活用のスーツが台無し

もうすぐ目的地に到着するかと思っていたその時、後ろから口を押さえて走ってくる中年男性が現れた。
男性は嘔吐を我慢しようと手で口を押さえていたため、吐き出す勢いで両サイドに飛び散ってしまった。被害者は林田さんを含めてたくさんいた。
林田さんはスーツの左肩付近にかかってしまった。最悪だ。数日後には別の面接を控えている。「このスーツどうしてくれるんだ」と怒りが込み上げてきた。
嘔吐した男性はそのまま車両を走り去り、戻ってこない。車内は大騒ぎとなった。謝罪に来ない男性に対して、林田さんの怒りは増すばかりだった。ついに立ち上がり、男性を探しに行った。
男性は流し場で手や口を洗っていた。
林田さんはすぐに男性につかみかかり、怒鳴りつけたという。
男性は「すみません」と言うものの、それ以上のアクションを取ろうとはしなかった。
クリーニング代を支払うとか、すぐに戻って被害者全員に謝罪するといった申し出もなく、ただ「すみません」と繰り返すばかり。
「こんなボケた男とは話にならない」と思った林田さんは、車掌のところへ向かった。
相手が逆ギレして警察沙汰に
車掌の対応で被害者全員と嘔吐した男性は事務所に通された。すると突然、男性は態度を一変させた。「警察を呼んでください」
男性は林田さんに恫喝されたとして「被害届を出したい」と言い出したのだ。この急な態度の変化に林田さんはさらに激怒した。
「悪いのはおまえだろ!こっちの状況がわからねーのか!」
だが結局、男性の意向は変わらず、警察が呼ばれることになった。
警察が男性から事情聴取を始めると、断片的に会話が漏れてきた。男性は「年下に怒鳴られたのが気に入らない。
林田さんは「なんてやつだ」と思いつつも、自分が罪に問われるのではないかという不安も出てきた。
話し合いの末、最終的には男性が謝罪し、被害者それぞれにクリーニング代を支払うことで解決した。しかし、この一件で林田さんの帰宅は深夜になってしまった。翌日には汚れたスーツをクリーニングに出し、何とか次の面接には間に合わせることができたが、林田さんにとっては忘れられない苦い経験となった。
<文/藤山ムツキ>
【藤山ムツキ】
編集者・ライター・旅行作家。取材や執筆、原稿整理、コンビニへの買い出しから芸能人のゴーストライターまで、メディアまわりの超“何でも屋”です。著書に『海外アングラ旅行』『実録!いかがわしい経験をしまくってみました』『10ドルの夜景』など。執筆協力に『旅の賢人たちがつくった海外旅行最強ナビ』シリーズほか多数。X(旧Twitter):@gold_gogogo