04年9月、橋本真也はコンディションの悪化から長期休養に入った。その間、様々な確執がZERO-ONEで表面化し、結果的に橋本が立ち上げたZERO-ONEは崩壊。
選手・スタッフは、橋本抜きで新団体「プロレスリングZERO1-MAX」に移行していった。
この時期の蝶野正洋は、現場監督として新日本を取り仕切っている立場だったが、失意の渦中にいるであろう橋本を、プロレスのリングに復帰させようと動き始める。

※本記事は『証言 橋本真也 小川直也、佐山聡、蝶野正洋らが語る破壊王と「1・4事変」の真相』(宝島社)より、蝶野正洋のパートを適宜抜粋・編集したもの。

橋本真也の急逝から20年。蝶野正洋が振り返る「死の1カ月前に...の画像はこちら >>

俺を裏切ったヤツを成敗しないと俺は戻れない

「橋本選手が肩の手術をして、欠場が長期化しているという話は聞いてて、大丈夫かなとちょっと気になっていた。それが05年の年明けぐらいで、それなら5月(14日)に新日本の東京ドーム大会があるから、そこでプロレスラー橋本真也が復活するというのはどうか、というプランを考えたんだよ。回復が間に合わなくて試合ができなくても、とにかくリングには上がってもらおうとね。

この頃は新日本でも新世代が台頭してきて、「闘魂三銃士」も過去のものになりつつあった。だから、ここで武藤さんも呼んで3人で並んで、存在感をアピールしようという目論見だったんだよね。それで橋本選手にオファーの電話を入れたんだけど、コンディションが悪いというより、私生活がゴタゴタしていて、借金取りに追われて逃げ回ってるという話だった。なによりもZERO-ONEを外されたことを引きずっていて、『俺は今こういう形になっても許せないと。俺を裏切ったヤツを成敗しないと俺は戻れない』と声を震わせていた」

俺はまだ表に出れねえんだよ

「俺はもうそんなことにとらわれなくていい。報復したところで誰も喜ばない。今ファンが望んでるのはリングに立った橋本真也なんだから、とにかくリングに上がることだけを考えてほしい、と言ったんだよね。武藤さんもいるし、俺らの時代、まだまだ踏ん張るぞという画をつくろうよって。
いろいろ話して、最終的に橋本選手は『わかった、行くよ』と承諾してくれた。

5月の東京ドーム当日、バタバタと準備してたら橋本選手から電話がかかってきて、『すまん、蝶ちゃん、俺やっぱり行けねぇわ。今現場行ったら、会いたくないようなヤツらと会うかもしれないし、借金取りが来て迷惑かけるかもしれない。俺はまだ表に出れねえんだよ』って。俺は『オッケー、わかった。じゃあ今回はやめよう。また今度、あらためてメシでも食おう』ってことで電話を切った」(蝶野正洋、以下同じ)

死の1カ月前に橋本が蝶野に語った復帰プラン

こうして「闘魂三銃士揃い踏み」は幻となった。その1カ月後、電話で約束をした橋本と蝶野の会食が実現した。

「(05年)6月くらいに、麻布の焼き肉屋で二人きりで会ったんだけど、やっぱ顔色は悪かったね。こっちは大丈夫かよって思ったんだけど『肩のほうは順調に回復してる』『ハッスルのDSEともう1回組んで、再スタートするんだ』と今後のプランを語ってくれた。あとはZERO-ONE勢への恨み節もね。

でもその口調は決して暗いものではなくて、考え方そのものはしっかりしてたよ。復帰プランも含めて、また日本のプロレス界のトップに行くという具体的な話をしていた。
その話っぷりは政治家にでもなれるんじゃないかというぐらいの説得力があったし、なによりもプロレスのことをすごく考えてた。やっぱり好きなんだと思ったよ、プロレスが。

最後は『いろいろあるけど、まずはちゃんと体を戻すしかないね』と言って別れた。これが俺が橋本選手に会った最後の夜。訃報を聞いたのは、その1カ月後くらいだね」

橋本選手らしい、バタバタした亡くなり方だった

05年7月11日、橋本は脳幹出血で倒れ、救急搬送される。そのまま帰らぬ人となった。

「朝11時ぐらいだったかな。坂口さんから『橋本のこと、なんか聞いてるか?』という連絡があって、俺は『いや、何も聞いてないです』と答えて電話を切った。すぐに橋本選手の携帯電話にかけたら、女性が出た。その時はわからなかったけど、(冬木)薫さんだよね。それで『蝶野さんだけに言いますけど、橋本は今朝亡くなりました』と。薫さんは新日本関係者に知り合いがいなくて、誰に伝えればいいのかわからなかったんだろうね。俺はすぐに坂口さんに折り返して『橋本が亡くなったようです』と伝えて、(妻の)マルティナと一緒に病院に向かった。


この時点で橋本選手が亡くなったということは公表されてないんだけど、どこかで噂を聞きつけたマスコミがすでに病院に集まってきていた。それで病院の人に聞いたら、橋本選手の遺体は検死のために警察に向かった、と。それで俺も警察に行ったんだけど、着いたら駐車場にでっかいセンチュリーが停まっててね。そこから人相が悪い人が降りてきたから、借金の取り立て屋がもう来てるのかと思ったら、その人は橋本選手を晩年まで世話をしてくれていた社長さんだったんだよ。その社長さんが、橋本選手の遺体は検死が終わって安置所に行ってますと教えてくれて、そこでようやく手を合わせることができた。

橋本選手らしい、バタバタした亡くなり方だったよね。周りは右往左往させられるんだけど、なぜか憎めない。晩年はトラブルも多かったみたいだから、橋本選手に対していろいろ恨みを持ってた人もいたかもしれない。しばらくして、『ワールドプロレスリング』で追悼特集をした時に、関係者のコメントをもらったんだけど、なんて言っていいのか、言葉がすぐに出てこない人も多かったからね」

亡くなってから20年も経ったけど、話は尽きない

橋本真也の急逝から20年。蝶野正洋が振り返る「死の1カ月前に橋本が語った復帰プラン」
橋本真也の告別式での蝶野正洋、小川直也、武藤敬司
闘魂三銃士が揃い踏みすることは永遠になくなってしまった。しかし、橋本の存在感は今もプロレス界に影響を与え続けており、様々なイベントでも回想され続けている。

「橋本選手は同じ時代を生きた同志だった。闘魂三銃士の3人は、そこまで仲良くはなかったかもしれない。でも、変な足の引っ張り合いもしないし、みんなそれぞれ自分で自分の立ち位置をしっかりつくっていたから成立した。
ケンカすることも、ほとんどなかった。

あと、女のタイプもそれぞれ違ったから、それで揉めることもなかった。たまたまなんだけど、闘魂三銃士がみんな近場に住んでた時期があった。よくお互いの家に行ったり来たりしてたから、あの頃がいちばん関係性が近かったかもしれない。ただ、ウチに橋本選手を呼ぶとマルティナが嫌がってたね。あのひと、危ないことしか言わないからって(笑)。

亡くなってから20年も経ったけど、橋本選手の話は尽きないよね。その時々の行動一つひとつに、でっかい足跡を残してるから、いまだにいろんなエピソードが出てくる。そういう意味では、闘魂三銃士は、間違いなく橋本選手のおかげでここまで引っ張ってこれたんじゃないかな。その点については、あらためて感謝したいね」

武藤とともに橋本の墓参りに

19年、蝶野は「闘魂三銃士」の盟友、武藤とともに、岐阜県土岐市にある橋本の墓を訪れている。

「あれは土岐市で俺と武藤さんのトークショーが催された時に、せっかくだからと、俺から武藤さんに声をかけて墓参りに行ったんだよ。二人で足を引きずりながらお墓まで行って、手を合わせて、写真を撮って、ぽつぽつ歩いて帰ってきただけなんだけどね。その間、武藤さんとはとくに何を話したってこともなかったかな。


武藤さんは、もともと他人の話をしない。いつも自分、自分だから(笑)。でも、橋本選手については別だった。昔から俺と二人で会った時は、『またブッチャー(橋本のあだ名)がこんなことしたみたいだよ』とか、そういう話になってしまう。多摩川で鴨か もを撃ったとか、選手会費を使い込んだとか、ほぼ犯罪に近いような情報が入ってくるからね。

橋本選手が亡くなってからも、取材や対談、トークショーなんかで武藤さんと並んで話す機会はあるけど、最終的には橋本選手のエピソードばかりになってしまう。それは生前から話していたものもあるし、亡くなった今だから話せるものもある。時代が変わって、今はもう話せないようなものもある」

トークショーで話せるネタは、全体の10%くらい

「だから、そういう表のトークショーで話せるネタって、全体の10%くらいなんだよ。あとの90%は、とても人前じゃ話せないようなことばかり。某新弟子に『後楽園ホールの非常階段にぶら下がれ!』と命令した話とかね。後楽園ホールってビルの5階にあって、その外に非常階段がついてるんだけど、そこにぶら下がれ、と。落ちたら大ケガというか、下手したら死ぬ。
それを面白がってやらせようとする。でも橋本選手がすごいのは、新弟子がビビって躊躇していると、『俺がやる』と言って、本当に自分でぶら下がったっていうんだよ。

そんな話はたくさんありすぎるんだけど、正確に記憶しているのは俺だけのような気もするから、今でも思い出して話している感じだね。橋本選手の人生は、本人の意に反して短いものだったかもしれないけど、これだけのエピソードを残したんだから、やっぱり、さすがだなと思うよ」

<談/蝶野正洋>
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