今では『口と足で描く芸術家協会』にアーティストとして所属し、21歳で念願の一人暮らしを叶えた。不自由を乗り越えて得た“自由”。そこに至るまでの、決して平坦ではない道のりを語ってもらった。
両親の方針は「できることは自分で」

六鹿香さん(以下・同):生まれたときから手足の関節がほとんど動かなくて、自由がきくのは、両手の人差し指と親指が少しだけ。「先天性多発性関節拘縮症」という病気と診断されて、物心ついた頃には、もう車椅子を押してもらっていました。
——ご家族はどのように接してきたのでしょうか。
2歳上の姉がいるんですけど、うちでは本当に普通の姉妹と同じで。ゲームしたり、口げんかしたり。障がいのことを意識することはあまりなかったですね。
親の方針はずっと「できることは自分で」でした。手足が動かない分、何をするにも時間がかかるけど、できる範囲は自分でやってみる。いつまでも一緒にいられるわけじゃないから、自立できるように、という思いだったと思います。
——それで小学校も支援学校ではなく、普通の学校に通っていたんですね。
家からの送迎やトイレは介助してもらっていたけど、授業はひとりで受けていました。
教科書を開くのも、ページをめくるのも、全部口を使って。紙はふやけちゃうから、教科書は一枚ずつファイルに入れたり、机の高さを肩より上にしたり、工夫していました。
先生や周りの子に助けてもらうこともあったけど、やれることは自分でやる。小学5年生からは電動車椅子を使えるようになって、できるだけ自分の力で過ごすようにしていました。
——ヘルパーさんなどは使わなかったのですか。
あの頃は、ヘルパーさんは使いたくないと思っていたんです。友達と対等な関係を築いて、その中でお願いして、やってもらうべきだ、と。あとは、ヘルパーさんに友達との会話を聞かれるのが嫌だったし、決まった時間にしか来てくれないから、自由を縛られるのも嫌だったんです。
「口にタッチペンをくわえて」絵に出合えた中学時代

高学年になると、女子はグループができるじゃないですか。私も仲良くしてくれる友達はいたけど、微妙な空気になったり、失礼なことを言われたりすることもありました。
ひどいいじめではなかったけど、「自分は特別なんだ」と意識させられる瞬間があって……。それでも朝になると両親が学校に送っちゃうから、休むっていう選択肢はなかったですね(笑)。
——中学校からは支援学校に通われたそうですね。
そこではiPadを支給してもらえたんです。タッチペンを口でくわえて操作できるようになって、一気に世界が広がりました。
当時ハマっていたのが『黒子のバスケ』。そのファンアートを描きたくて。口でタッチペンをくわえて一生懸命描いていました。最初はラクガキ程度だったけど、SNSにアップして、感想をもらえたときの嬉しさが大きかったんです。
高校で支援学校に進級してからも、ずっと絵を描き続けていました。
——高校を卒業してからは、どんな進路を選んだのでしょうか。
2017年の18歳から、地元の「放課後デイサービス」で働きはじめました。
そこを選んだ理由は、声をかけていただいたのと、外に出る理由にもなると思ったから。学校を卒業して、外に出るのが億劫になって、家に引きこもっちゃうのが怖かったんです。
デイサービスでは、パソコン作業を担当していました。口で棒をくわえてキーボードを押したり、右手の指先を少し動かしてマウスを動かしたり。
でも、コロナで状況が変わったんですよね。
在宅勤務で“将来の不安”と向き合うことに

それまで「家にいるだけじゃダメになる」と思っていたんですけど、いざやってみたら「意外と在宅でもいけるな」って(笑)。自分のペースで仕事ができるし、ちょうど人付き合いに疲れていたんです。
それまでは、ヘルパーさんを使わずに、友達や職場の人と対等に接することにこだわっていました。でも、やっぱり気を使うし、どこか行くにも、何をするにも「お願い」しなきゃいけない。
むしろ、ヘルパーさんを使う方が楽なんじゃないの? そもそも、一人でいる方が自由なんじゃないの? と、思うようになってきました。あとは、ずっと実家で暮らしていたので、将来のことを考えたときに、不安もありました。
——ご両親が高齢になったときですね。
親が面倒を見れなくなると、私たちみたいな障がいを持っている人間は、グループホームに移ることが多いんです。そこでは食事の時間とか就寝の時間とかが色々決まっていて、縛られてしまう。
ちょうどそのタイミングで、展示会で知り合った方から『口と足で描く芸術家協会』に所属して絵を描いてみないか、というお話をいただいたんです。私の描いた絵が、何度かコンテストで入賞していたのを見てくれていたみたいで。でも、今は自分の部屋もないし、絵を描く環境も整えにくい。
そこで、一人暮らしを本気で考えるようになりました。
21歳で叶えた「一人暮らし」という“自由”

もう21歳だったし(笑)、親からは「お金のことが大丈夫なら、反対はしないよ」と言ってもらえたので、自分で『SUUMO』を使って探しました。
どうしても譲れなかったのが、「ヘルパーさんとある程度距離がとれる空間があること」。だから、ワンルームとか1Kは全部除外して、キッチンと居室がドアで区切られている1DKに絞って探しました。あとは、車が運転できないから、交通の便がいいところ。エレベーターがあることも絶対条件でした。
——実際に暮らし始めてみて、どうでしたか?
思っていたより、ずっと快適でした。
もちろん自分だけじゃできないこともあるので、ヘルパーさんには料理やお風呂の介助をお願いしています。
——ヘルパーさんを頼んでみたのですね。
ヘルパーさんの中には年の近い方や、趣味があう方もいて、友達感覚で遊んでいる方もいます。今や一緒にイベントに行ったり、ライブに行ったりする仲です。
初めは「趣味は友達とじゃないと自由に楽しめない」と思い込んでいたけど、ヘルパーさんだと、何か頼むことに罪悪感もないし、むしろ楽しいって気づきました。
手足が動かなくても「なんとかなる」で生きていく

実家だと道具を広げるスペースも限られていて、両親という他者の存在もあって、集中しづらかったんです。でも今は、自分専用の机があって、画材も好きなものを揃えられる。細かい描写もごまかさずに描けるようになって、絵のクオリティも上がったと思います。
今は協会の他に、プライベートのSNSでも絵を投稿してます。そのアカウントでは、障がいがあることを発信していないので、障がいに関係ない活動もできています。

好きなことが仕事にできて、 ずっと目標だった「親から自立する」ということが叶ったから、現状維持かな(笑)。Instagram(@m.kaori_illust)のフォロワーさんが増えたらいいな、とは思います。
私は基本「なんとかなる」で生きてきたんです。そもそも生まれたときから障がいがあったから、深く考えてもしょうがないことが多かった。
だって、始めてみなきゃ分からないことばかりですよね。一人暮らしを始める前も、ヘルパーさんを頼む前も、どれくらい自由がきくか想像できなかったけど、なんとかなっています。
手足が動かなくても、自分の世界は自分で決められる。だからこれからも「なんとかなる」で生きていきます。
——教科書にファイルを挟んで口でページをめくり、できることを少しずつ自分の力でやってきた六鹿さん。その延長線上に、一人暮らしや絵の仕事が待っていた。自分だけの部屋は、彼女にとって「自由」の象徴。「なんとかなる」と信じて、これからも自分の世界で描き続けていくのだろう。
<取材・文/綾部まと>
【綾部まと】
ライター、作家。主に金融や恋愛について執筆。メガバンク法人営業・経済メディアで働いた経験から、金融女子の観点で記事を寄稿。趣味はサウナ。X(旧Twitter):@yel_ranunculus、note:@happymother