―[貧困東大生・布施川天馬]―

 2025年8月15日、調味料メーカーのミツカンがネット上で炎上しました。
 X(旧Twitter)にて投稿されたポストには、同社の「冷やし中華のつゆ」を具なしの中華めんにかけた画像と共に「冷やし中華なんてこれだけでも充分美味しいです」との文言が。
これに対して一部ユーザーから批判が集まったのです。

 結果として、ミツカン側は謝罪文を発表することとなりましたが、さらにこの謝罪に対しても新たな批判が集まっており、もはや収拾がつかない事態に。

ミツカンが炎上した「そうめん論争」で日本人の“国語力不足”が...の画像はこちら >>

なぜミツカンが謝罪する事態に陥ったのか

 そもそも今回の炎上は、「そうめんをゆでるのは重労働か」から始まりましたが、さらに前提として料理を作ってもらう側が言う「そうめんでいいよ」に対する意識格差がありました。

 これは「○○“で”いいよ」という作る側の苦労や労力を全く考えず、妥協してやった感を一方的に醸し出す注文者の無神経さに対する怒りだったのに、何を取り違えたのか「そうめん調理は簡単か否か」が本流になってしまった。

 そこから、家庭内における家事負担の大きさや、その分担の難しさ、ともすれば不公平さに対する不満が口々に叫ばれたかと思えば、「そうめんだけでは成り立たない。付け合わせまで作るから大変だ」「付け合わせなんて無くたっていい」と話題は際限なく広がっていきました。

 そこで投下されたのがミツカンの「冷やし中華はこれだけでいい」。これに、付け合わせや具までこだわりたい人たちが「作り手の苦労をバカにしている」と反論し、炎上につながったのです。

ミツカンが炎上した「そうめん論争」で日本人の“国語力不足”が露呈。「ゆでるのも手間」投稿に「簡単だろ」と言い返す地獄絵図
謝罪文には8000件以上のリプライが
 当初の議論から明らかに離れたところに流れ着いている。見るべきところがズレているので、議論にすらなっていません。

 おそらく、これに参加したユーザーたちは、ただ日常の不平不満を愚痴に変えて何かに怒りたいだけで、特に議論を深めたいわけではないのでしょう。

 ただ、それは子どもの手本たる大人の姿ではないでしょう。この議論に加担した人々は、おそらく大多数が成人済み。


 大人たちがこの体たらくなのに、子どもたちに「口喧嘩ではなく議論をしなさい」とか「相手を尊重した話し合いが大事」とか伝えたとして、受け入れてもらえるでしょうか?

 今回のずれの原因は「日本語文法の知識・運用力不足」と「文脈の判断ミス」にあります。今回の騒動を例にして、国語を学びなおします。

助詞ひとつで大分印象が変わる

 まず、ネット上に流れる男女論争の話題のひとつに「○○“で”いいよ」の「妥協してやってる感」へのヘイトがあります。

「○○“で”」と「○○“が”」では、大分印象が違います。「で」のほうは、許可や許容を表わす際に用いられる一方で、「が」は希望を表わす際に用いられるからです。

 例えば、「いつ遊びに行こうか?」に対して、「明日でいいよ」と「明日がいいよ」の2パターンで返答した場合を考えましょう。

 前者の場合だと、「明日」以外にも様々な候補が浮かんでいる中で、『「明日」“でも”よい』と許可を与えていることになります。様々な候補が対等な条件で浮かんでおり、無作為にそれらのうちから一つを選び取った様子に近いかもしれません。

 ですが、「明日がいいよ」だと、様々な候補があるか否かに関わらず、唯一の答えとして「明日」を希望しているニュアンスが伝わります。

 相手の問いに対して、主体性をもった答えとして映るのではないでしょうか。

 つまり、「○○”で”いいよ」論争の根源は、返答に主体性が見られず、「なんでもいい」と丸投げするに近しい印象を相手に与えるためだと考えられます。そこに様々な外的要因が加わり、今回の騒動に発展したのでしょう。

 助詞ひとつをとっても、語順ひとつをとっても、相手に与える印象が異なる場合があることを認識することが重要。


 やはり日本語文法の基礎ですが、助詞の種類とそれぞれの働きについて整理しなおすだけで、こういった事故はだいぶ減るように感じます。

目の前しか見えていない人たち

 ですが、今回のそうめん・冷やし中華論争に関わった人たちは、知ってか知らずか問題の本質から目を背け、「そうめん調理の難易度」に着目してしまいました。

 人間は自分のわかる範囲から情報を読み取り、徐々に知らない領域へと手を伸ばしていくものです。例えば「代数多様体上の連接層の導来圏については~」などと言われても、全くとっかかりのない文章は、読めません。

 文脈というものがあります。どんな話だとしても、そこに至るまでの経緯があり、それらをすべて汲まなければ、正確な発言の意図は読み取れない。

 そのため、芸能人や政治家の一言を切り取ったスキャンダルには、あまり意味がありません。前後の発言やそこに至る経緯、発言した状況などを加味しなくては、意図が不明瞭だからです。

 逆に言えば、人は自分の知っている文脈の中でしか物事を捉えられません。今回の話だって、大本を辿れば『「そうめんでいい」と作らない側の人間が偉そうに言ってくれるけれど、そうめんだってゆでるのもひと手間あるのだ』という愚痴だったはずなのに、文脈理解が足りないがあまり「そうめんが簡単かどうか」と局所的かつ短絡的な見方しかできなかった。

 さらに、これに乗っかった多くの人々も、文脈理解が足りていない人の意見など検討するに値しないのですから無視すればいいものを、まともに取り合ってしまった。

 やはり大局的な視点が欠如しており、目の前の140文字を追いかけることしか考えられていない。

国語能力の欠如が騒動を大きくしていった

 私は、国語の問題を生徒に解いてもらうとき、必ず「傍線部だけではなく、傍線部を含む一文をまるごとチェックしなさい」と伝えます。
作問者に恣意的に切り取られた一部分だけでは、正確な意図を汲めないかもしれないからです。

 各発言やふるまいは、あくまで全体の中の一部分にすぎず、総体としての発言録の中でどのような立ち位置にあるかを精査しなくてはいけません。

 だからこそ、我々ライターや記者は取材に行く際に、対象者の発言や著書、インタビュー記録を総ざらいして、今回の取材で得られた情報との整合性や一貫性をチェックします。

 Xでは基本的に140文字までしかポストできません。その程度で、意図を余さず伝えきるのは、プロでも難しい。しかも、各ポストのつながりは、ユーザープロフィールに行かなければ明らかにならず、一人の人間の発言録が断片的にネットの海に浮かんでいる。

 断片化した発言だけで全体を把握したような気になって、スキャンダラスな断片に一喜一憂しては、誰しもが闘争の中に身を置いている。

 あまりにも不毛でしょう。

 助詞の勉強、ことばの知識、文脈の理解。今回の騒動に加担してしまった方々は、様々な国語的能力が足りていませんでした。

 ただ、それ以上に必要だったのは「全体を見渡す余裕」。勉強や知能の問題ではなく、一度リラックスできる趣味や場所、コミュニティを探して心の平穏を手に入れるのが先決かもしれません。


<文/布施川天馬>

―[貧困東大生・布施川天馬]―

【布施川天馬】
1997年生まれ。世帯年収300万円台の家庭に生まれながらも、効率的な勉強法を自ら編み出し、東大合格を果たす。著書に最小限のコストで最大の成果を出すためのノウハウを体系化した著書『東大式節約勉強法』、膨大な範囲と量の受験勉強をする中で気がついた「コスパを極限まで高める時間の使い方」を解説した『東大式時間術』がある。株式会社カルペ・ディエムにて、講師として、お金と時間をかけない「省エネ」スタイルの勉強法を学生たちに伝えている。(Xアカウント:@Temma_Fusegawa)
編集部おすすめ