明治政府で司法制度の近代化に尽力しながらも、征韓論争で西郷隆盛らとともに下野、不平士族を率いて「佐賀の乱」を起こし処刑されてしまったのが、江藤新平である。その最期は梟首(晒し首)というむごいものだった。
ここでは、幕末~明治の動乱を生きた9人の人生を描いた文庫『侍は「幕末・明治」をどう生きたのか』(河合 敦著・扶桑社刊)より、江藤新平の最期を抜粋して紹介する。
「佐賀の乱」で敗走、西郷隆盛に助けを求めるも…

こうしていくつかの陸戦を経て、二月二十七日には完全に佐賀県士族たちを瓦解させ、三月一日、佐賀城に入ったのである。
このとき、すでに新平は佐賀にいなかった。早くも二十三日には勝ち目がないと判断し、征韓党に解散を命じ、戦線から離脱していたのである。
ただ、逃亡したわけではなかった。彼が向かった先は、鹿児島県だった。多数の兵力を抱える西郷隆盛に援軍を求めたのである。
さらに逃げた理由は、仲間の命を守るためでもあったという。佐賀から離脱する際、新平は反対する同志たちに向かい「大勢は決した。いたずらに戦って死ぬのは、匹夫の勇である。
私は死を惜しんでいるのではない。平生の志を貫くのだ。それに、突然、征韓党を解散して私が佐賀から脱すれば、仕方なく兵たちは戦いをやめ、潜伏の準備をするだろう」と述べている。
こうして仲間数名と船で鹿児島県へ向かい、西郷が静養していた鰻(宇奈木)温泉へたどりついた。西郷は快く新平と会ってくれた。三時間ほど話し合いがおこなわれ、翌日も膝をつき合わせての密談は四時間に及んだ。
ときには西郷が激高することもあったようで、部屋の外まで声が漏れ聞こえてきたという。結局、西郷は新平の要請に応じなかった。
日記には大久保の喜びぶりが残されている
ただ、江藤のために船を仕立て、鹿児島城下で行くようすすめた。そこで新平は城下へ入り、西郷の右腕・桐野利秋と話し合った。桐野は新平の身を守ることを約束し、鹿児島にとどまるよう勧めたものの、挙兵には応じなかった。ここにおいて新平は、東京に戻って堂々と政府の参議たちに弁明することに決めた。
ところが鹿児島を発した船が途中で難破してしまう。
林有造をはじめ、ここには政府に不満を持つ士族たちがいたからだろう。しかし林有造や片岡健吉ら高知県士族たちは新平への協力を拒否した。
すでに佐賀の乱は完全に鎮圧されていたので、当然の判断だろう。結局、三月二十九日、新平は県内安芸郡東洋町で捕縛されてしまったのである。
新平が捕まったことを知ると、大久保利通はその日記に「雀躍ニ耐ヘズ」と喜んでいる。乱の首領をなかなか捕縛されず焦っていたので、心底安堵したことがわかる。
切り落とされた新平の首は獄門台に晒された

ただ、臨時裁判所といっても、実際は征討軍司令官と司法官を兼ねた大久保に隷属したような組織であった。すでに死刑は決まっていたようで、供述書なども内容が改ざんされていた。
だから押印を拒否する者がいたが、役人は彼らの手をとって無理やり拇印を押させようとした。それに抵抗しようとする同志を見た新平は、「いまさら小吏と争っても何の役もないぞ」とたしなめたという。
いずれにせよ、大久保利通の意向のもと、不公正な裁判がおこなわれたのである。
こうしてろくな弁明も出来ないまま、早くも四月十三日に新平に判決が出された。士族籍から除いた上で、梟首(晒し首)という罪状だったのである。
晒し首という刑罰は、近代国家として相応しくないと、新平が司法卿時代に禁じたものだった。
しかも死刑を執行するには、司法省を経て天皇の許可を得る必要があったが、全権を握る大久保の意向によって、このようなむごい殺し方をしたのであろう。
死罪は覚悟していたものの、まさか斬られた首を人前に晒されるとは、本人も信じがたかったはず。ゆえに判決を聞いた新平は顔色を変じ、「裁判長、私は!」と叫んだ。
即座に抗弁しようとした新平だったが、そのまま官吏によって法廷の外に引きずり出されてしまった。逐われる際の新平の眼光は驚くほど鋭かったという。
さらに写真を世間にばらまいた
刑は、その日のうちに執行された。佐賀の乱で斬首・梟首に処せられた者は十二名。刑場に引き出された新平は、おもむろに後ろの刑吏に「島は如何」と尋ねた。
刑吏は「島はすでに処刑されました」と答えると、新平は天を仰ぎ、「唯、皇天后土(天を治める神と、地を支配する神)の我心を知るあるのみ」と、三度も同じ言葉をとなえて死についたという。
辞世の歌は「ますらをの涙を袖にしぼりつゝ 迷ふ心はたゞ君が為め」とあるように、天皇への忠義心をうたったものであった。
罪状通り、切り落とされた新平の首は数日間獄門台に晒された。しかもその姿は政府の吏員が写真に撮り、これを公然と世間にばらまいたのである。
つい一年前までは参議として明治政府で重きを成し、近代化を進めていた大政治家は、反乱の首謀者として政府によって貶められたのである。
そうしたのはやはり大久保利通だったといえるだろう。政府の元顕官でありながら、政府に叛旗を翻した新平を許せないという義憤に加え、私的な恨みもあったと思われる。
〈文/河合 敦〉
【河合敦】
歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965年生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も。