その田中製造所を設立したのは、「からくり儀右衛門」と称された発明家・田中久重。職人の子として生まれながら、その才覚によって久留米藩の士分を得た人物である。
万年時計をはじめ、蒸気船から製氷機まで、あらゆる発明をしては人々を驚かせ、八十歳を超えても生涯現役で発明を続けた。
ここでは、幕末~明治の動乱を生きた9人の人生を描いた文庫『侍は「幕末・明治」をどう生きたのか』(河合 敦著・扶桑社刊)より、田中久重の晩年を抜粋して紹介する。
久留米から東京へ移住。死ぬまで発明を続けた人生

翌明治五年、高弟の田中精助が工部省の役人に決まった。このとき久重は、「行け精助、我らの手腕を試すのだ。私もお前を追って上京するつもりだ」と励ましているからだ。
そんな矢先、佐賀藩で世話になった佐野常民から、上京を求める連絡があった。
久重はその要請を断らず、明治六年正月、養子の田中大吉や弟子の川口一太郎を伴って上京した。つまり、久留米を去って東京で生きる決意したわけだ。
この時期すでに東京―長崎間に電信線が敷かれ、新橋―横浜間に鉄道が走り、大火で燃えた銀座の地に西洋の煉瓦街が出来つつあった。
急速に近代化していく首都東京、そんな日本の中心で己の力量を試してみたいと考えたのだ。
齢75にしてなお意欲は盛んに
なお、理由は不明ながら、せっかく運んだ万年時計は万博に展示されることはなかった。ただ、工部省の役人だった精助は佐野に随行してウィーンに行き、西洋の進んだ技術を学んで帰国している。久重は上京後、しばらく麻布にある親類に厄介になり、やがて同じ麻布の大泉寺の二階や観音堂を借りて工場とした。
そして、各種機械の製造をおこなうとともに、工部省電信寮で勤務する精助のツテで、生糸試験器や電信機の試作の仕事を請け負いはじめた。
七十五歳のときのことである。また、翌明治七年には養子の大吉が工部省の汐留電信尞製造所に勤めることになった。
翌明治九年には鉄製旋盤の製作に成功した。官営赤羽製作所が開発するより一年前のことであった。
黒字経営にならなかった「意外」な理由

だが、すぐに元気を回復し、十一月には移転した自宅(神谷町)に「珍奇製造所」の看板をかかげ、発明を続けた。ただ、なかなか黒字経営とはいかなかった。
なぜなら、客からの発明品の依頼を予算を度外視して喜んで受注してしまうからだった。
そこで店の番頭で弟子の宮川某が、久重と話し合って採算の合わない注文は多忙を理由に断るようにした。
ところが、あるとき宮川が客に断っている場面を見ると、久重は店の外に出た客をこっそり追いかけ、笑顔で店に引き入れ、「番頭には内緒にしてくれ」と言って依頼を引き受けてしまったという。とにかく、発明が楽しくて仕方ないのである。
一方、電信機事業のほうは大変順調で、銀座の工場は二十人以上の職人を抱えるまで成長した。そこで工部省は「今後は電信機の製造は官営工場でおこなうことにする。
ついては、この工場の設備を買い取り、そのまま働いている社員や職人を雇用したい」と申し入れてきたのである。
すでに久重は八十歳を過ぎた老人。
遺志は弟子で養子の金子大吉に継がれ…
ただ、久重自身は工部省に所属することはなかった。職人が消え、機械が撤去された銀座の工場に残り、「万般の機械考案の依頼に応ず」という看板をかかげ、客の注文に応じて品物を発明しつづけたのである。
「人生には終わりがあるが、発明には終わりない」というのが久重の口癖だったが、まさに発明に賭けた人生であり、発明の鬼と言えるだろう。
それから二年の月日が過ぎ、明治十四年十一月七日の明け方、久重は八十二歳の生涯を終えた。久重の遺志は弟子で養子の金子大吉に引き継がれた。
大吉は二代目久重を称し、翌明治十五年、芝浦の地に田中製造所を設立した。それが芝浦製作所となり、やがて現代の東芝へとつながっていくのである。
〈文/河合 敦〉
【河合 敦】
歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。