『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送)をはじめとする複数の人気番組に取り上げられ、その名を広く知られた粉すけさん(@KONA_neruneru)。かつてSNSアカウントで名乗った“溶接ギャル”は“旧溶接ギャル”となったが、今もなおその派手な外見は健在だ。

 現在、粉すけさんは30歳。1年以上前に移り住んだ大阪府大阪市西成区で解体業に勤しんでいる。腕全体を覆う刺青に目を奪われがちだが、屈託のない笑顔で「NGないんで、何でも聞いてください」とこちらを気遣う。新生活と、これまでの道程について聞いた。

大阪・西成で解体業を営む“元溶接ギャル”の壮絶な半生。「裕福...の画像はこちら >>

「再婚」がきっかけで西成に

――西成での生活はいかがですか。

粉すけ:毎日刺激的ですよ。西成の存在を知ったときからずっと気にはなっていたんです。昨年6月に西成に転居したのですが、フレンドリーな高齢者が多いです。全然知り合いじゃないのに、「昨日でかいバッグ持っとったけど、あれ、何が入ってたん?」とか突然聞かれたり(笑)。あれ、知り合いだったかなとか思うんですが、喋ったこともないんですよね。あとは道端に人が「落ちてる」としか表現できない格好で寝ていたりとか……とにかく色んな人がいる街です。

 基本的に西成にいる人って、海外の人か、生活保護の人か、高齢者なんですよね。人生に紆余曲折があった人が辿り着く場所だとしみじみ思います(笑)。


――粉すけさんはどういう経緯で西成に行ったのでしょうか。

粉すけ:再婚ですね。私は24歳で初婚を経験してバツイチだったのですが、今年4月に交際していた方と入籍をしまして。現在の夫が西成出身だったんです。

ギャルに目覚めたのは「24歳のとき」

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“溶接ギャル”は“解体業ギャル”になっていた
――それはおめでとうございます。24歳が初婚だったんですね、勝手にもう少し早いと思っていました(笑)。

粉すけ:ありがとうございます。結婚が早そうというのはヤンキーのイメージですね(笑)。かつて“生涯ギャル”みたいなことを言っていましたが、実は24歳くらいで本格的にギャルに目覚めたんですよ。それまではロリータファッションをしていた時期もあるし、結構バラバラでした。

――意外です。しかも24歳からギャルに目覚めるというのは、なかなか遅咲きですね。きっかけはあったのでしょうか。


粉すけ:最初の夫がギャル好きだったからですね。16歳くらいのときも上下スウェットのヤンキースタイルだったりはしたのですが、日焼けサロンに行ったりしたのは初婚以降です。

「親との確執」で、素行不良だった学生時代

――学生時代は結構ヤンチャだったのでしょうか。

粉すけ:正直、悪いことは結構やっていたと思います。夜中にたむろして、何度も補導されました。よくない先輩と仲良くしていたので、その周囲も不良ばかりだったんですよね。このまま素行不良を続ければ、施設に送られて本当に仲のいい友人とも会えなくなると思い、自力で更生しました。

――不良の世界に入っていったのは、どうしてでしょうか。

粉すけ:一言で言えば、親との確執でしょうか。福井県で生まれた私の家は、父が地元で名前の通った企業の社長で、裕福な家庭だったと思います。私は両親の本当の子どもではなくて、いわゆる養子なんです。私の養母と産みの母が姉妹という関係です。簡単に言うと、妹の子どもを姉がもらった、という図式ですね。
姉妹ともに子どもができず、不妊治療をしていた矢先、妹(産みの母)が立て続けに妊娠したらしいのです。1年違いで先に生まれた姉は、産みの母の家庭で育てられました。

 従姉だと思っていた子が本当の姉だと知らされたのは、小学校4年生のときでした。実はこれまで、「叔母さんの家庭は自由でいいな」と思っていたんです。私は四角四面な両親から干渉されて息苦しい思いをしているのに、叔母と従姉は夜に一緒にゲームセンターに行ったりしていて、羨ましく思いました。それだけでなく、何も言わなくてもギャル雑誌などが買い与えられていたり、当時は憧れでしたね。心なしか、食べ物の好みも両親以上に叔母と合うとさえ思っていました。そうした謎が、小学校4年生で一気に解けたんです。

「養父母の教えが生きている」と感じる場面も

――「本来なら私はこの家庭で育てられていたはずなのに」という思いが、深夜徘徊などの逸脱行動につながったということですね。

粉すけ:そうした側面はあると思います。中学時代は、不良の先輩に気の合う人がいて、その人の家に泊まって3ヶ月くらい家に帰らないこともありました。その先輩は母子家庭だったので、お母さんが朝から晩まで働いていて滅多に家に帰ってこないんです。食べ物もほとんどなくて、私がたまに家にこそっと帰って冷蔵庫から調達してくる、みたいなこともありました。


 今にして思えば、養父母は不良に染まっていく私が心配だったのだと思います。でも当時は、付き合っている不良の先輩を悪く言われるのが許せなかったんです。親としての愛情を、過干渉だと嫌がっていました。そうしたなかで、産みの親の家庭は母子家庭ながら楽しそうで、光って見えましたね。

――育ての親と産みの親を比較して、ご自身はどちらに似ていると感じますか。

粉すけ:だらしないところは産みの親ゆずりで、血というものの力を感じますね。一方で、きちんとした両親に育ててもらったおかげか、環境で変わるようなものについては、養父母の教えが生きていると感じる場面もあります。一見何にでもルーズに見える私ですが、「枕に足をあげるな」「本を踏むな」みたいな小言を言う側なんです(笑)。

「養父母」と「産みの親」、現在の関係性は…

――現在、両方の親御様とのご関係はどのようになっているのでしょうか。

粉すけ:養父母に対しては、非常に尊敬の念を持っています。現在では、一般的な30代の娘とその親よりも全然仲が良いのではないかと思えるほど良好な関係性ですね。自分がいろいろな経験をしてわかるのですが、私が荒れていた時代に両親が懸念したことは至極真っ当だと思います。
衝突することも多かったけれど、親としてまともな人たちだと今では感謝しています。

 一方で、産みの親については絶縁に近い状態にあります。私が最初の結婚をした前後に金の無心をしてきて、何度も「働きなよ」と伝えても、「ろくでなし!」「お前に私の気持ちがわかるのか」という怒号が飛んできて、距離を置くことにしました。

――従姉さん(姉)のことも気になりますね。

粉すけ:母親と折り合いがよくなくなって、結婚して実家を逃げるように去ったと聞きました。自分が若くて未熟なときは、産みの母が非常に楽しくて魅力的な人に見えました。けれども金遣いが荒く、「旦那がいない私を誰かが養って当然」とする他力本願のスタンスには疑問を感じます。聞いた話では母たちの親である祖母のこともかなり頼っていたようで、かつて楽しい人に見えたのは、責任感がなくて幼稚なだけだったのだなと今は思います。

 正直、「私も産みの母の家庭が良かった」と思ったこともありましたが、今では養父母に引き取られたことを幸運だとさえ思っています。

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 人生はあみだのようで、どこに着地するか予測がつかない。それまで惹かれていた享楽さを嫌悪する瞬間こそ、生きることを真剣に考え始めた転換点なのかもしれない。若いエネルギーを持て余し、粉すけさんが反抗の限りを尽くしても、じっと待った養父母。
どんな人でも受け入れる粉すけさんの寛容さの根底に、彼らの教えが根付いている。

<取材・文/黒島暁生>

【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
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