記者が挙げた亡き名馬にうなずく形で明かしてくれたのは、競走馬の長距離輸送を手掛ける大江運送(北海道新ひだか町)の白川典人社長。同社は1969年の創業以来、半世紀以上にわたって競走馬を運び続け、長距離輸送ではトップシェアを誇るプロフェッショナル集団だ。
競走馬の長距離輸送とはどのような業務なのか。名馬を運ぶことにプレッシャーはないのか。ドライバーはどんなスキルが求められるのか。知られざる舞台裏を聞いた。
競走馬を輸送する「馬運車」
競走馬の輸送は「馬運車」と呼ばれる特殊な車両で行われる。高速道路などで「競走馬輸送中」と書かれたトラックやバスタイプの車を見かけたことはないだろうか。競走馬の98%が生産される北海道、JRA(日本中央競馬会)のトレーニングセンターがある茨城県や滋賀県、各競馬場の近隣に住む人にはお馴染みの光景だが、あれが馬運車だ。「競走馬の輸送は主に2種類あり、1つはトレーニングセンターから競馬場まで運ぶレース輸送車、もう1つが北海道の生産牧場や育成牧場から本州のトレーニングセンターまで運ぶ長距離輸送車です。私たちは後者を手掛けています」(白川社長、以下同じ)
知られざる馬運車の内部「馬の様子は常にカメラで確認」
現在の長距離輸送の主流は6頭積のトラックタイプで、ドライバー2人体制で輸送されている。「車両後部の馬房は『畳』と呼ばれる仕切りで区切られています。馬が暴れても傷つかないように、ある程度の強度を持つクッション性の高い素材を使っています。かつては本物の畳を使っていました」
馬はとても繊細な生き物だ。
「馬は人間よりも体温が高く、車内に熱がこもってしまうので、エアコンではなく、強力な冷気を出す冷凍機を搭載しています。特に北海道と本州の気温差が激しい春と秋は気を遣います。冷凍機と換気で微調整しながら、馬にストレスが掛からないよう緩やかな温度変化を心掛けています。輸送中も馬の様子は常にカメラで確認し、異変があればすぐに対応できるようにしています」
その他にも馬のストレスを軽減する工夫は枚挙にいとまがない。
「複数の馬を載せる時は牡馬を前に、牝馬を後ろにして前から後ろへ空気を循環させ、牡馬が興奮しないように配慮しています。また馬は光や音に敏感なので、車内の馬房はブルーライトを設置し、耳の部分に豚皮を使った独自のメンコで音を遮断するなど、さまざまな工夫をしています」
さまざまな設備が整った馬運車の価格は「6000万円以上」

「特注なので1台6000万円以上します。部材費が高騰しているので、数年後には1億円近くになっていると思います」
超高額な特殊車両、載せているのは競走馬。輸送にプレッシャーはないのか。
「新馬でも重賞馬でも、お預かりした大切な馬ですので常に緊張感は持っています。かつて9頭積み仕様の頃に1度に6頭G1馬を運んだ古株社員は『あの時はさすがに震えたよ……』と言っていましたが、普段はあまり意識しないようにしています。馬は好きでも競馬に興味のないドライバーもいますし、どんな馬か気づかないで運んでいることもあります」
競走馬輸送は「接客業」、ドライバーに求める意外なスキル
では、競走馬を輸送する上でドライバーはどんなスキルが求められるのか。白川社長から意外な答えが返ってきた。「“人間性”です。馬は本当に繊細な生き物ですし、もちろん動物なので言葉はしゃべれない。いわば力の強い巨大な赤ちゃんのような存在です。ちょっとした仕草から何を求めているか気づき、変化に前もって対処することが必要です。接客業と同じだと思います。かゆいところに手が届く人じゃないと務まらない。それにツーマン体制なので、いい年のおっさん同士が狭い運転席に20~30時間一緒にいなきゃいけないですからね(笑)。やっぱり人柄が大事です」
驚くことに、同社のドライバー採用では運転試験は行っていないという。
「ミスマッチを防ぐために体験乗務の機会を設けていますが、運転試験はありません。高度な運転スキルを求めているのは確かですが下手にドライバー歴が長いと馬輸送には向かないクセが染み付いている方が多いので、未経験のから育てる方が良いケースもあります。急ブレーキ、急ハンドルは厳禁ですし、柔らかい運転はもちろんですが普段は大型トラックが通らないような民家の間を通り抜けなければならないことも日常的ですので、やはりその様な技術も身に着けなければなりません。
それよりも難しいのは、馬を車に載せる技術・車の中でのトラブルに対応できる技術だと思います。
「競走馬を輸送中の馬運車」と事故を起こしたら…

「いやいや、昔からよく言われている話ですがもちろん人命が優先です。実際に私も先輩から言われたことはありますが、それくらいの心構えで急ブレーキは極力避けなさいという教えです」(白川社長)
ブラックジョークの類いだと分かり安心した。また世間では「競走馬を輸送中の馬運車と事故を起こすと、人生が終わるほどの賠償金を請求される」という都市伝説めいた話もあるようだが、実際どうなのかも尋ねてみた。
「対人対物無制限の保険契約ではない場合は、そうだと思います。休車損害だけでも相当な額になりますし、馬が死亡した場合は競りの落札価格をベースに、獲得賞金を加味された賠償請求になるはずです」
こちらは都市伝説ではなく、まぎれもない事実のようだ。どんな小さな事故でも起こすべきではないが、馬運車との事故だけは絶対に起こしてはいけないということだ。
原因不明の馬腸炎によって倒産の危機に…
しかし、どれだけ気を遣っても予期せぬ出来事は必ず起きてしまう。馬は言葉で不調を訴えることができないからだ。10年ほど前には原因不明の馬の病気によって倒産の危機に瀕したことがあった。「馬にはX腸炎という、現在も解明されていない死に至る病気があります。2013年に当社が輸送した直後に馬が死亡する事例が3件立て続けに起きてしまいました。死因はX腸炎だったのですが、X腸炎により免疫が落ちた状態で長距離輸送のストレスがさらに追い打ちをかけたことが影響したとみられます」
その後、他社の輸送でも同様の事例が発生したが、最初に問題が起きてしまった同社への風当たりは強かった。
「完全に信用が失墜し、売上は3割減少しました。かつて同業者は20~30社ありましたが、地方競馬の休廃止などによって現在は数社しか残っていません。その中で当社が生き残れたのは、馬への細やかな配慮を惜しまないサービス力が評価されてきたからです。失った信用を回復するには、より革新的なサービスを生み出すしかありません。馬をお預かりした状態そのままで、瞬間移動したかのように目的地にお届けする方法はないか。徹底的に考えました」
起死回生の策でシェア拡大に成功
起死回生の策として、事故の翌年から新たに導入したのが「ワンクッション輸送」だった。「これまでも車内を清潔に保ち、馬にこまめな給餌や給水を行ってきました。それでも輸送時間が20時間を超えると、馬が発熱して体調を崩す確率が急激に高くなってしまうのです。そこで2014年に福島県の牧場と契約し、北海道から関西地方まで輸送する間に提携牧場で馬を半日休ませて、目的地にお届けする『ワンクッション輸送』を開始しました」
ワンクッション輸送は馬のストレスを大きく軽減する画期的な取り組みとして注目され、同社は信用を取り戻すことに成功。現在は北海道から関東圏までの輸送はJRA所属馬の30%、関西圏までの輸送では70%のシェアを獲得するまでになった。
「先代社長の父の時代から『馬に良いことは何でも取り入れよう』という姿勢で事業を行ってきましたが、X腸炎の事故を機に経営コンサルタントにも入ってもらい、より外部の視点や発想を取り入れています。近年は業容を拡大するため、ドライバーも積極的に採用しています。
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こうした地道な取り組みが評価され、同社は「北海道を代表する企業100選」に選出されたほか、リモート勤務の事務スタッフ募集に約3200人が応募するなど、知る人ぞ知る専門企業として存在感を増している。
世の中には注目される役回りだけでなく、黒子に徹した縁の下の力持ちが数多いる。「競走馬輸送中」という馬運車を見かけた際は、これから大舞台に臨む馬のことだけでなく、プライドをかけて運搬を担う人たちの存在にも思いをはせてほしい。
<取材・文/中野 龍>




【中野 龍】
1980年東京生まれ。毎日新聞「キャンパる」学生記者、化学工業日報記者などを経てフリーランス。通信社で俳優インタビューを担当するほか、ウェブメディア、週刊誌等に寄稿