広陵の事案にいち早く切り込んだのは、保守メディアだった
2025年夏の甲子園は広陵野球部の部内暴力と大会途中での辞退が大きな話題となった一方、大会自体は例年通りの盛況となった。「高校野球の季節」は終わったが、落ち着いたタイミングで改めて考えたいのが「メディア企業と野球との距離感」の問題である。今回の広陵の事案は、部内暴力の被害を受けた部員の関係者が、今年7月末にInstagram上で告発を行ったことがきっかけだった。
では「夏の甲子園」を主催する朝日新聞はどうかというと、産経や『週刊文春』の記事が掲載された後、被害者(SNS上で話題になった事案とは別の生徒)への取材記事を大会期間中の8月15日に掲載した。ところがその内容は『週刊文春』の記事と比べ、被害のディティールがほぼ描写されないものだった。そして大会期間中、朝日・毎日では例年と変わらず「高校野球にまつわる美談」の報道量が圧倒的であり、広陵の問題は進んでは報じられなかった。
一般に朝日新聞や毎日新聞は「リベラル」と位置づけられ、今回のような人権侵害事案に関しては大きく問題化して報道するはずである。ところが広陵の問題に関してまず切り込んでいったのは産経、文春など、一般に「保守」とされるメディアの側だった(なお文春を「保守」と位置づけることには異論もあり得るが、少なくとも月刊誌『文藝春秋』は戦後日本の保守論壇の代表的存在と位置づけられる)。
この背景にはメディア業界における「野球利権」とも呼ぶべき問題が横たわっている。朝日・毎日はそれぞれ夏・春の甲子園の主催企業である。そして高校野球を土台に成り立っているのが、伝統的に読売新聞が主導権を握ってきたプロ野球だ。そのため甲子園野球を「社業」とする朝日・毎日は特に高校野球の不祥事報道には消極的にならざるを得ず、高校野球の土台によって成り立つプロ野球を主導してきた読売も多かれ少なかれ似た状況にある。
もちろん、こうした「野球利権」的なものの有無によってメディア企業が報道機関としての役割を果たさなくなることは大きな問題なのだが、私が今回指摘したいのは、報道する際の「優先順位」のつけ方についてである。
「野球利権」批判に反応した媒体、黙殺した媒体
拙著『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』では、先に述べたメディア企業と野球との距離感を批判的に考察している。興味深いのは、各社の反応だ。なお拙著は株式会社文藝春秋が発行するスポーツ誌『Number』に対しても批判的に言及しているが、同社の運営するWebメディア『文春オンライン』では本書の内容が紹介され、YouTubeチャンネル『文藝春秋PLUS』でも、広陵問題で私がゲストとして招かれた。文藝春秋社は自社刊行物に対して批判的なことを書いている人間ですら必要とあれば呼び、議論する姿勢を見せたのである。
一般に「議論に対してオープンなのは保守よりもリベラル」というイメージがあるが、この問題にかぎっていえば、ふだん「保守」とされるメディア企業のほうがオープンであり、「リベラル」のほうがむしろ保守的であると言わざるを得ない。
この構造は筆者が’23年に故・ジャニー喜多川氏による性加害問題が持ち上がった際のメディアの反応を思い起こさせた。当初、多くのマスメディアはこの問題を積極的に報道できなかった。広陵の問題でも、朝日や毎日といったリベラルメディアは自社事業である「甲子園野球」のあり方そのものを自らの紙面で徹底的に問い直すことはしていない。
一方、ジャニーズや高校野球の問題を積極的に追求してきた『週刊文春』の報道姿勢はスキャンダルジャーナリズムとみなされることもある。しかし少なくとも彼らは「ハードなテーマは重視するが、ジャニーズや高校野球の暴力などエンタメ・スポーツ分野は軽視する」という姿勢は取っていない。
スポーツやエンタメを軽視する「オールドメディア」
朝日・毎日などの「リベラル」メディアは、「冤罪」「紛争」「環境問題」のような“ハード”なテーマには積極的に声を上げる。しかし、ジャニーズや高校野球などの「エンタメ」「スポーツ」といった“ソフト”な分野における人権侵害を軽視する傾向にあることがこの2年であらわになった。もちろん誌面・尺の制約があり、社会的な緊急性も当然考慮されるべき要素なので、報道する内容に優先順位をつけること自体はやむをえない部分がある。問題なのは、それらのメディアが話題の選別を、意識的にというより“無意識”に行っているように見えることだ。そもそも日本国憲法第14条「法の下の平等」の精神に照らせば、冤罪や紛争などの人権侵害と、エンタメやスポーツの現場で起きる人権侵害のあいだに何らの差異はないはずである。
「スポーツ」「エンタメ」などの“ソフト”な分野における暴力や搾取を軽視することについて「なぜそこに取材リソースを注がないのか」という基準を示さないままでいると、「人権問題の序列」が社会に刷り込まれ、ひいては「法の下の平等」という憲法理念の形骸化へとつながりかねない。
リベラルメディアが高校野球の不祥事を進んで報じない背景には、二つの異なる論理があると筆者は考えている。ひとつは甲子園という「社業」を守るための沈黙。もうひとつは「クオリティーペーパー」を自認するエリート意識から生じる、スポーツやエンタメを“軽い”と見下す態度だ。前者は自己防衛の論理、後者は高尚さを演出する論理であり、動機は異なっても、どちらも人権問題を矮小化する結果をもたらしている。
しかし実際には、スポーツやエンタメの現場は「軽い話題」などではない。むしろ私たちの生活世界に身近な場だからこそ、社会の矛盾や権力構造が露骨に表れる。甲子園やジャニーズの問題を「周縁的」な出来事として処理することは、社会の中核を覆い隠すことに等しい。だからこそ、スポーツやエンタメを「軽い」と切り捨てるのではなく、「社会の本質を照らすフィールド」として捉え直す必要がある。
旧来の新聞社が自らの既得権益やエリート意識から自由になれないのであれば、私たちはそろそろそれらのメディアに「本質的な批判報道」を期待すること自体をやめて、市民自身の成熟と、新しいメディアのあり方を模索すべき時に来ているのかもしれない。
【中野慧】
編集者・ライター。1986年、神奈川県生まれ。一橋大学社会学部社会学科卒、同大学院社会学研究科修士課程中退。批評誌「PLANETS」編集部、株式会社LIG広報を経て独立。2025年3月に初の著書となる『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』(光文社新書)を刊行。現在は「Tarzan」などで身体・文化に関する取材を行いつつ、企業PRにも携わる。クラブチームExodus Baseball Club代表。