“本指名客”と交際し、包丁を突きつけられて結婚を迫られ、そのまま婚姻届を書いた経験を持つ現役の風俗エステ嬢がいる。とーこさん(@name_of_105)、37歳だ。
くるくると表情が変わり、朗らかで魅力的な笑顔の絶えない彼女はなぜ、人生の大切な選択を場当たり的に決めざるを得なかったのか――。
「包丁を突きつけられて」婚姻届を書いた37歳女性の仰天人生。...の画像はこちら >>

結婚してしまったほうがいいなと…

――風俗店のお客さんと結婚をされたことも驚きですが、包丁で脅されて婚姻届を書いたというエピソードに度肝を抜かれました。

とーこ:極めて珍しい体験ですよね。大学を卒業してすぐに、納棺師として勤務していましたが、生来涙もろい私はご遺族以上に大泣きしてしまうことが多く、自分でも「この仕事は向いていないな」と思っていました。入社した会社は先輩からの叱責もきつく、精神的にも限界に来ていた私は、事務所でパニック発作を起こして倒れ、結果的にそのまま退職に至りました。

 ちょうど納棺師としての勤務の傍ら、性風俗店でもアルバイトをやっていました。本指名客のなかに、誰もが知る有名企業の管理職を経験した、20歳近く年上の男性がいました。いわゆる“水揚げ”だったのでしょう、比較的すぐに同棲が始まり、私は風俗も納棺師も辞めることになったんです。

 彼は非常に猜疑心が強く、束縛をしてくる男性でした。くわえてパーキンソン病を患っていたため、同棲している間、ほとんど働かなくなっていました。そろそろ同棲を解消して人生を考えなければと別れを切り出したタイミングで、包丁を突きつけられて「出ていくなら刺すから、一緒に死のうね?」と言われたんです。殺されるくらいなら、結婚してしまったほうがいいなと思い、結婚したんです。

離婚後も苗字を変えないワケ

――その方とは、どのくらい一緒にいることになるのでしょうか。

とーこ:22歳から同棲を始めて、結局、離婚が成立したのは29歳の頃だったと思います。
病気の影響なのか、出会ったときから人格がずいぶん変形してしまっていて、束縛は年々ひどくなりました。たとえば「僕がいるから友だちなんていらないよね?」と言われて、電話帳の友人を全部消されたこともあります。あるいは、女友達と遊びに行く場合も、「じゃあ僕も行くよ、僕がいたらできない話があるの? ないでしょ? できない話があるならそれは浮気だから」というふうに、一方的にまくし立ててくるようになってしまって……。

 ちょうど私が26歳くらいのとき、パーキンソン病の主治医が彼に手術を勧めました。彼は実家に一旦帰ることになり、そのすきに別居を決行して、交渉をしました。3年近くかけて、最終的には彼を納得させることができました。その際、「一度は離婚してあげるけど、また必ず迎えに行くからいで」と言われたんです。その一言が妙に心をざわつかせて、実は未だに彼の苗字を名乗っているんです。

――結構な不快感がありませんか。

とーこ:本当は内緒で苗字を変えようと思ったのですが、弁護士に相談した時点では「変更するのに30万円近くかかる」と言われてしまって。自分への戒めのために、そのままにしてあるんです。私は実家が嫌で福岡県から東京都へ出てきた経緯があります。
ままならない自分の人生を他人に委ねてしまった結果だと追っています。そのことを忘れないために変更を辞めたというのもあります。思い返すと、「病気の彼を捨てられない」という共依存に陥っていた部分があるのかもしれません。

暴れる父、天真爛漫な母、切れ者の兄

――実家が好きになれずに上京されたとのことでしたが、とーこさんにとってあまり居心地はよくなかったのでしょうか。

とーこ:私が21歳のとき、父が自死をしました。がんを患っていて、闘病を苦にしたものでした。父は非常に自分の感情に従順な人で、気に入らないことがあると大人とは思えない暴れ方をする人でした。たとえば、ストーブを家のなかで投げ、家族を萎縮させたこともあります。

 母は天真爛漫な人ですが、反面、子どもの意図を汲み取ってくれることが少ない人でもありました。たとえば私が「今日こんなことがあってね」という報告をしても、「お母さんはこうで~」みたいな自分の言いたいことを延々と話して、平行線になるんです。

 兄は昔から切れ者で、いわゆる神童タイプの子どもです。学力別クラスを設置している進学校の、最上位クラスから東京の名門大学へ軽々入学しました。昔から討論が強くて理屈っぽい子どもで、高校時代にあまりにも生意気な兄の態度に業を煮やした教師が「代わりにお前が授業をやってみろ」と挑発した際には本当に授業を行い、クラスから喝采だったと聞いています。
大人から「可愛くない」と思われるタイプだったのは間違いないと思います。私は兄の可愛げのなさだけを受け継いだような長女で、家族のなかにいつも馴染めない思いを抱えていました。

「死ぬ気が失せた」母からのメール

――とーこさんは何か具体的な問題行動をするのでしょうか。

とーこ:小学校から高校まで、ほぼ不登校で過ごしました。高校は兄と同じ進学校に受かったのですが、半年ほどで退学したのち、通信制高校に編入しています。その後、東京にある多摩美術大学の夜間に通うため、上京したという経緯です。

――とーこさんが家庭で感じていた辛さの正体は、どのようなものだったのでしょうか。

とーこ:ひとつは、両親が私に対して「どうか普通の子どもになってほしい」という願いを持っていたのが辛かったと思います。実際に、口に出してお願いされたこともあります。あるいはたびたび、「そんなんでどうやって生きていくの」と言われていて、自分の感性が大きくズレていると意識して生活するのもきつかったですね。

 その一方で、私は母に対して「どうしてわかろうとしてくれないんだろう」と思っていました。母は自分のしたい話しかせず、こちらが何かを聞いても「いやわからん」と直接的な言葉でぶった切るようなところがありました。 きっとコミュニケーション能力があまり高くなかったのだと思いますが、当時は母からの拒絶感として受け取っていたんです。


 今でも思い出すのは、中学生のころ、家が高台にあったこともあって、「飛び降りたら楽になれるかも」という希死念慮に襲われたことがありました。夜中に母に「いままでありがとう」とメールを打つと、翌日、「可愛いメールをありがとう! 今日は学校に頑張って行こうね」みたいなメールが返ってきました。私の気持ちをまったく察知していないことに落胆し、それ以上に脱力して、死ぬ気も失せてしまいました。

「奨学金を生活費として使っていた」母の言い分

――その後、お母様とのご関係はいかがですか。

とーこ:大卒後1年経って連絡して以降、2024年まで音信不通でした。私は奨学金を借りて大学を出たので、その返済が卒後1年くらいで始まります。そのとき、母が奨学金を当時の生活費に流していたことがわかったんです。問いただすと、母は「うちがどれだけ大変だったか、あんたもわかってるでしょう」と開き直りました。私はそのときすでに風俗で働いていましたから、「私がいまどんな仕事をしているか知ってる?」と聞きました。母は言葉を濁していましたが、雰囲気から、なんとなくの察しがついているのだろうと思いました。そのとき、私は「母から捨てられたんだ」と思ったんです。

――絶縁状態から、2024年にまた交流が復活したのはなぜでしょうか。

とーこ:自分の生きづらさについて考えていたとき、ADHDの気質があることに気づきました。
結果的にASDとADHDがあると診断されました。そのとき頭に浮かんだのは、母のことでした。母の無理解に悩まされたこともあったけど、もしかすると彼女もまた悩んだのではないか――そんなふうに思って電話をしてみたんです。

雪解けはかなわなかったが、気づきも

――久しぶりの交流はどのようなものでしたか。

とーこ:母も自らの特性に気づいていて、「自己診断だけど、書籍に書いてあることが当てはまるなとは思っていた」と言っていました。やっぱり母も苦労したんだなと思って、親近感がわきました。「いままで大変だった者同士、これから頑張っていこうね」、そんな言葉をかけたと思います。

 少し心を許したのもつかの間、母がどうしても兄と私を引き合わせたいのが伝わってきて、昔を思い出しました。母は兄のことをとても気にかけていて、幼少期の私でさえその愛情の差異が理解できるほど露骨でした。私は論客タイプの兄が苦手で、「兄には会いたくない」と母にも伝えていましたが、私の意向を無視した押し付けに辟易しました。

 結局、電話で口論になり、母の「昔からあんたの言いよることは何にも理解できないし、理解する気もない」という一言を聞いて、決別しました。

――雪解けが叶わなかったわけですが、その出来事からどのようなことを感じましたか。

とーこ:その瞬間はやはりショックでした。
私は根本では、母から認めてもらうことを望んでいたのだと思います。ただそれは無理だったんですね。思えば、私は自分の自己肯定感の立脚するところを、母に委ねていたと思います。これまでの経験で学んだことは、「自分が幸せになることを誰かに委ねてはいけない」ということです。極論、自分で自分を幸せにするしかないんです。それができないのに幸せになろうとするから、誰かに幸せにしてもらおうと思って魔が差して、包丁を突きつけられて結婚してしまう(笑)。母から肯定してもらえなかったなら、他の誰でもなく自分で自分を肯定してあげればいいのだなとようやく気づくに至りました。

人生、無理なときは無理でいい

――性風俗店に勤務する女性のなかには、自分を肯定してあげられないと悩む女性も多いですよね。

とーこ:そうだと思います。私の場合、常に「幸せになりたい」と「私が幸せになっていいはずがない」がせめぎ合っていました。そうなると、誰かに奉仕をすることでしか、自分を認めてあげられなくなってしまうんです。お客様のどんな無茶な要求にも応えなければいけない、お休みなんてもらっていいはずがない――どんどんそうした思考回路に陥っていきます。

 私が知る風俗嬢のなかにも、とても可愛くて、人の意図を敏感に察知できて気配りができ、人を楽しませることのできる子たちがいます。けれども彼女たちが内面でどれだけ泣いているか、誰も知りません。逆説的ですが、母との2度目の絶縁によって、たとえ家族でもわかり合えないことはあるし、無理なときは無理でいいということを学んだように感じます。

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 母親からの承認が欲しくてもがいた日々を、時折涙を見せながらとーこさんは振り返った。母親からはついぞ欲しかった言葉も愛情ももらえなかったが、人生の教訓が残った。人生は常に能動的でなくてはいけない。口を開けて愛情を待つ雛の時代は終わった。自らが自らを愛し、誰かに癒やしを届けられる存在になるまで、とーこさんの歩みは続く。

<取材・文/黒島暁生>

【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
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