柔和な表情を浮かべつつ、語り口調は上品そのもの。しかし、飛び出すエピソードの数々はどれも強烈で面白く、ついつい聞き入ってしまうーー村山陽子さん(60歳)が、北新地や銀座の高級クラブを切り盛りした経験を持つのも納得だ。

さて、村山さんが“夜の世界”の次に選んだ新天地は、まったく畑違いの場所だった。宮司である。ご存じの通り、神職や巫女をまとめる神社の最高責任者。いったい、なぜ“やり手ママ”は異色の転身を果たしたのか。本人の口からその顛末を語ってもらおう。

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10代半ばで夜の世界に飛び込み…人生いろいろ

ーー20代から北新地のオーナーママ、そして大学を経て起業し、銀座でお店を開くまで、どのような道のりを歩んでこられたのでしょうか。

村山陽子:家族を支えるために、夜の世界に飛び込んだのが、10代半ばのころ。当初はまだ若くお客様への臨機応変な対応ができなかったこともあり、仕事に馴染めず、3日で解雇されたこともありました。でも、「この仕事でお金をいただいている以上、中途半端な気持ちでいるのはお客様にも、この仕事そのものに対しても失礼だ」と考えを改めたのです。そこから仕事が好きになり、29歳で北新地に自分の店をオープン。念願がかなったこともあり、嬉しかったですね。オーナーママとして精一杯やりくりしました。

24歳のとき、結婚を機に夜の世界を引退するつもりでしたが、婚約破談を経てその後しばらく休息しました。
27歳頃に再び夜の世界に戻り、クラブをオープンするつもりで戻りましたが、10カ月で辞めると言う条件で、北新地の老舗のクラブに入店しました。その後、29歳でクラブ榑沼をオープンしました。その後に出会った現在の夫のおかげで、大きな転機が訪れて。仕事に追われて忘れていた「家族が独立したら大学へ行く」という若いころからの夢をふと思い出し、お店を閉めて大学受験に専念。経営の傍ら取得していた大検を経て、早稲田大学に合格しました。

大学では国際教育を学び、卒業後はドバイで中古車輸出の会社を起業。しかし、事業はうまくいかず約3年で2000万円ほどの赤字が出たため、諦めました。そこから御縁があった日本企業の代理店となり、日本とアフリカを7年間行き来し、マラリア対策の仕事をしておりました。ここでもかなり赤字を出してしまい、完全に日本に拠点を移す事にしました。「50歳で自分のお店を持ちたい」という新たな夢を胸に、銀座でクラブをオープンし、再び経営者としてのキャリアを歩み始めました。

常連の一言がきっかけで宮司を目指すことに

「銀座の高級クラブのママ」が“夜の世界”の次に選んだ意外な新天地。「不安はなかった」無報酬でも働き続けられるワケ
何気ない会話に、思いもよらぬ展開が待っていた
ーー大学卒業、起業、そして銀座で店を経営……この時点でかなり順風満帆なような気がします。にもかかわらず、なぜ宮司になろうと思ったのでしょうか。

村山陽子:銀座のお店でのお客様との会話がきっかけでした。
常連の方が「神社検定を受けに行く」と話しているのを耳にし、純粋な好奇心から「私も受けます」とその場で宣言して(笑)。

そこから勉強し、3級、2級と合格しました。1級は2回落ちましたが、試験会場が神職養成で知られる國學院大學だったのです。何度も通ううちに「こんなに勉強するなら、神職になれるのではないか」と、心が動いていきました。それまで全く別の世界だと思っていたわけですが、少しずつ身近な存在になっていったのです。

多くのハードルがあったが、不安はなかった

ーー神職という全く異なる世界に飛び込むことへの迷いや葛藤はなかったか。

村山陽子:むしろ、非常に自然な流れでした。もちろん、簡単な道ではないことは分かっていました。受験には神社本庁の推薦や奉職先の内定が必要など、多くのハードルがありましたが、幸いにもご縁に恵まれ、なんとか乗り越えることができました。これまでの人生も常に挑戦の連続でしたから、新しい世界へ飛び込むことへの不安よりも、学びたい、知りたいという気持ちの方が圧倒的に強かったのです。

神職になろうと決意してから、國學院大學に通い始めたのですが、神職について学ぶ授業は、天皇陛下に宮中祭祀でご奉仕される先生が教鞭をとることもあり、非常にレベルが高く、毎日が感動の連続でした。知的好奇心が満たされる心地よさと、これまで経験したことのない厳かで奥深い世界への魅力が、迷いを打ち消してくれました。

現在はボランティア。
神社の将来を模索

ーー実際に宮司として勤めてみて、想像と違った点や特に大変だったことは何でしたか?

村山陽子:最初に奉職した神社では、なかなか地域に溶け込めず、「よそ者」という感覚が常にありました。受け入れてもらえていないという、見えない壁を感じたのは想像と違った点です。

また、現在奉職している神社は、東京から通っておりますので、その分の経費を考えますと、今の時点では100%ボランティアです。最初の3年間はしかたないと納得して決めていますが、給料はなく、むしろ持ち出している状態です。まずは神社運営が軌道に乗り、せめて交通費だけでも捻出できるようになることが当面の目標です。そして何より大変なのは、後継者探しです。小さな神社の担い手は全国的に不足しており、この神社を100年、1000年先まで残していくために、どうすれば次の世代にバトンを渡せるか、日々模索しています。

今までの仕事に未練はない。今後の目標は?

ーー夜の世界、そして経営者として「未練」のような感情はありますか?

村山陽子:現時点では、全くありません。銀座のお店は、自分の理想を形にすることができ、コロナ禍で閉めることになった時も後悔はありませんでした。「やり切った」という清々しい気持ちです。70歳か80歳になったら、お洒落なバーでもやってみたいと漠然と思ったことはありますが、今はないですね。
それ以上に、神職という仕事に大きなやりがいと魅力を感じています。

ーー今後、神職として「こんな活動をしてみたい」と思う夢があれば教えてください。

村山陽子:一番の目標は、次の宮司を育て、この神社を未来へ繋いでいくことです。そのために、地元の中から神職を目指す人を支援し、地域内で神社の担い手が育っていくサイクルを作ることが私の大きな役目だと考えています。出来れば、5年以内には次の宮司にバトンタッチしたいですね。

個人的には、来年から神社での仕事をしながら1~2年ほど休息の時間を増やし、国内外を旅して見聞を広めたく思っています。その経験を経て、神職としてさらに道を突き詰めるのか、あるいはまた新しい挑戦を見つけるのか。今はまだ分かりませんが、自分の心に従って進みたいです。神職という仕事の魅力や、選択肢の一つであることを、もっと多くの人に知ってもらうための発信も、いずれはしていきたいですね。

<取材・文/菅原春二>

【菅原春二】
東京都出身。フリーライター。6歳の頃から名刺交換をする環境に育ち、人と対話を通して世界を知る喜びを学んだ。
人の歩んできた人生を通して、その人を形づくる背景や思想を探ることをライフワークとしている。
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