「いくつもの仕事を行き来するのが好き」と語る彼女だが、かつては自由のない“塀の中”で暮らしていたという。
川原さんは12歳のとき、将来はシスターになるべく修道院に入り、祈りと勉学の日々を送っていた。当時の生活については、著書『不自由から学べること』(ダイヤモンド社)でも詳しく綴られている。
厳格な規律のもとで過ごした日々は、彼女にどのような影響を与えたのか。そして、どんな経緯で今の自由で創造的な生き方へとたどり着いたのか——。その歩みを本人に伺った。
“信仰”が日常にあった幼少期
——キリスト教文化の土壌がある、長崎市浦上地区のご出身なのですね。やはりそのことが修道院に入る大きなきっかけになったのでしょうか?川原マリア(以下、川原):はい。私の先祖は隠れキリシタンでした。江戸時代にはキリスト教の信仰が禁止され、見つかると島流しにされることもありました。それでも、代々信仰を守り続けてきた家系なので、私はいわば“隠れキリシタンの末裔”というわけです。6人兄弟の中にも聖職者を志す人かいて、“それが普通”という環境で育ちました。末っ子だった私は、当然のようにシスターに憧れたんです。
川原:貧しい家庭で、経済的な制約が多く、不自由な暮らしでした。いちばん古い記憶は3歳のころ。家族全員で父親から夜逃げをした日のことです。諸事情あって父のもとでは暮らせなくなり、着の身着のまま家を飛び出しました。それから母子家庭となり、欲しいものが買えないのが当たり前の生活でしたが、母は本当に愛情深く、懸命に私たちを育ててくれました。そのおかげで「お金はそんなに大事なものではない」と気づけたんです。
修道院で送った“塀の中の青春”
——12歳で修道院に入られたあと、今度は別の“不自由さ”に直面したのですね。川原:はい。長崎市にある修道会で、学校法人として幼稚園から高校まで併設されている大きな敷地でした。その中に小さな修道院があり、そばの志願院という寮で12~18歳の女子およそ30人が共同生活をしていました。個人の所有物は最低限で、塀に囲まれた敷地の外に出られるのは月に1回、たった3時間だけ。テレビも携帯電話も禁止です。修道院を出るまでの6年間で見たテレビドラマはたった1本だけでした。
川原:志願院や修道院での生活は、毎日やることがほとんど決まっていました。朝6時前後に起床の鐘が鳴り、一斉に飛び起きて10分ほどで布団をたたみ、洗面と着替えを済ませて点呼に向かいます。その後すぐに20分ほどのお祈り、終わったら場所を移して、ミサと呼ばれるカトリックの儀式に参加。ここでも1時間ほどお祈りを続けます。
それからようやく朝食。パンとミルク、果物が中心で、誰とも話さず静かに食べるのが決まりでした。合間に掃除をして、8時ごろには「ロザリオの祈り」という、別のお祈りを30分ほど。その後ようやく、一般の生徒と同じ授業が始まるんです。
放課後は志願院に戻り、洗濯や入浴、夕食、宿題をこなしますが、その間にもお祈りの時間があります。中学生は夜10時、高校生は11時が消灯時間。日々この繰り返しでした。
厳しい修道院生活で芽生えた“喜び”
川原:ドロップアウトしてしまう子は何人もいました。多いのは、夏休みや冬休みで帰省したまま戻ってこないパターンです。家族からの手紙は検閲され、志願院の固定電話で話すときも監督のシスターがそばにいるため、本音では話せません。そんな環境なので、心が窮屈に感じることもありました。
そして私はなんとか18歳まで辞めずに切り抜けました。ただ、不思議なことに、年齢を重ねるうちに淡々とした厳しい生活にも慣れてきて、やがてそこに“喜び”を見いだせるようになっていきました。
シスターの道を選ばなかった“本当の理由”
——18歳になり、高校を卒業して本格的にシスターを目指す段階で、その道を選ばなかったのはなぜでしょうか?川原:シスターになっても、社会に貢献するために職に就くことが求められます。ただ、許されているのは教師・看護師・介護士の3つだけでした。「どれかになりなさい」と言われても、どれにもなりたいと思えなかったんです。無理して選んでいたら、きっと苦しんでいたと思います。
自分は何をしたいのか——。そう考えたときに、「表現することで生きていきたい」という気持ちが芽生えました。姉がデザイナーだったこともあり、その道に惹かれたんです。
弟子入りから始まった“表現者”としてのキャリア
——塀の外に出て、初めてキャリアを意識したと思いますが、どのような仕事をしたのでしょうか?川原:名古屋に住む兄夫婦の家に間借りし、近所のケーキ屋でアルバイトを始めました。その後は大手企業の契約社員など、さまざまな職を転々としましたが、22歳のとき「私は表現する仕事がしたいんだ」と改めて気づき、考え直したんです。そして京都にある柄専門のデザイン会社に入社し、着物の柄を描く仕事を始めました。とはいえ即戦力ではなく、最初の3年間は“無給の弟子入り”という厳しい条件でした。
川原:3年も無収入では生活できませんから、最初の1年で正社員になれるよう必死に頑張りました。不安もありましたが、努力が実って社員に昇格し、給料をもらいながら働けるようになりました。
当時の会社では、マネジメントできる人材が不足していたので、そのスキルを磨くうちに社内でも認められるようになりました。5年ほど経って、着物の卸問屋に転職。新規ブランドの立ち上げを任され、全工程を1人で切り盛りする毎日でした。しかし、その無理がたたってか、次第に鬱っぽくなっていきまして……。「このままだと死んじゃうかも」と思い、退職を決意したんです。
その後は就職ではなく、独立の道を選びました。
不自由な過去が導いた人生訓
川原:悩んでいるときこそ、無理にでも気分を上げて“笑う”ことが大事だと思います。どんなに「もうダメだ」と思っても、笑えるうちはまだ大丈夫なんです。
私自身、子育て中に産後うつのようになったことがありましたが、そのときも「どうすれば笑えるか」を考え、周囲に助けを求めながら少しずつ立ち直りました。
もう1つは、「自分で自分を呪わない」こと。私は父の性格を引きずって「自分は幸せになれない」と思い込んでいた時期がありました。でも、それは関係のないことなんです。
家族や環境に縛られて、自分の可能性を閉じ込めてしまうのはもったいない。だからこそ、やりたいと思ったことはやってみてほしい。もしうまくいかなくても、必ず何かを学べます。
取材・文/鈴木拓也
【川原マリア】
X:@mariaria108_new
【鈴木拓也】
ライター、写真家、ボードゲームクリエイター。ちょっとユニークな職業人生を送る人々が目下の関心領域。そのほか、歴史、アート、健康、仕事術、トラベルなど興味の対象は幅広く、記事として書く分野は多岐にわたる。Instagram:@happysuzuki
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