長野県で公務員として勤めたのち、宮古島での民宿オーナーを経て、66歳でタイのパタヤへ移住した山本秀泰さん(仮名)。
今回は、彼が50代で選んだ「第二の人生」、さらに60代で選んだ「第三の人生」を紹介する。
公務員一家に生まれ…
長野県松本市で生まれ育った山本さん。家族も親族も“ほぼ全員が公務員”という家系で、子どもの頃から「長男の自分は地元に戻り、安定した仕事に就くものだ」と自然に思い込んでいたという。大学は関西の外国語大学へ進んだが、就職は両親の希望どおり地元の長野に戻り、公務員として働く約束をしていた。
「長男なんだから必ず帰ってくるようにと言われていましたし、当時はその言葉に逆らう気持ちもなかったです。ただ、僕が大学を卒業する頃になると、地方では長男や家族が有利に採用されることもあった昔ながらの慣習が急になくなったんです。制度としての世襲ではないのですが、親の口利きなどで就職するのが当たり前だった環境が変わったんです。結局、長野県の県立病院の団体職員として就職しました」
突然、パニック障害に…
「昼ごはんを食べていたら突然、意識がフッと遠のいて……病院で検査しても異常はなかったのですが、その後、パニック障害と診断されました。仕事は充実していましたが、知らないうちにストレスが溜まっていたのかもしれません」
それから3年間は、飛行機にも乗れず、人混みにも入れない日々が続いた。そんな何もできない状況だからこそ、色々挑戦してみようと思ったという山本さん。
ちょうどその頃、仕事の縁で知り合いが経営していた無認可保育園を手伝わないかと誘われた。
「最初は専務として任されていましたが、園の運営そのものを担う立場になりました。当時の松本市長が高校の先輩という関係もあり、補助金の相談をしたところ、『補助金は出すけれど、ビルの中じゃなくて土地を買ってちゃんとした園をつくれ』と言われたんです。そこでキャベツ畑を借りて園舎を建てました。外で泥遊びもできて、子どもたちにも親御さんに喜ばれましたね」
当時から、人が喜ぶことをするのが好きだったと語る山本さん。そんな山本さんが沖縄移住に興味を持ったきっかけは、ダイビングで初めて訪れた宮古島だった。
「35歳で病気克服対策のひとつとしてダイビングライセンスを取得し、宮古島に潜りに行ったときに海の美しさに衝撃を受けたのです。また、島の人たちの素朴な優しさにも触れ、『いつか宮古島で民宿をやりたい』と考えるようになりました」
しかし、現実は簡単ではなかった。38歳のときに妻の父が末期がんで倒れ、妻の家業を継いでほしいと頼まれたのである。保育園の運営は園長に任せ、山本さん夫妻は長野から大阪に拠点を移した。
「大阪は関空が近かったので、宮古島に通いやすくなったんです。そこからは毎年、夏は釣り、冬はゴルフ、ダイビングに通いました。
「いま動かなければ一生後悔する」単身で宮古島へ
「“いま動かなければ一生後悔する”と感じました。そこからは宮古島への移住に向けて、大阪での仕事を2年かけて整理し、妻に事業を引き継ぎました。最初は妻にもいずれ一緒に宮古島に住んでほしいと伝えたのですが、互いの生活スタイルや仕事の都合もあり、別々の道を歩むことにしました。『あなたのことを甘やかしすぎた』なんて冗談交じりに言われました(笑)」
山本さんは単身で宮古島へと渡り、30年の結婚生活を一区切りとした。移住直後はベビーリーフ農園やレンタカー屋でアルバイトをしながら、島の人との関係づくりから始めた。バーに通い、島民とお酒を飲みながら距離を縮めていったのである。
しかし、民宿オープンの計画はすぐにはうまくいかなかった。
「すでに土地も目星をつけ、設計図もあったのですが、インバウンドバブルが始まった頃で宮古島の土地も家賃も軒並み上がっていました。同時にホテル建設ラッシュで建築費も高騰し、新築で民宿を建てることはとてもできませんでした」
転機が訪れたのは、宮古島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋の開通だった。
「伊良部島に気軽にアクセスできるようになり、通ううちに築45年の古民家を見つけたんです。すぐに借りて1年かけて改装し、1階を自宅に、2階で2部屋だけの民宿を始めました。キッチンを自由に使えて、ゆんたく(沖縄の方言で「おしゃべり」)できる、昔ながらの家庭的な宿として、ついに念願のオープンを迎えられました」
とはいえ、離島暮らしで苦労はなかったわけではない。
「伊良部島の佐良浜はいわゆる漁村で周りは漁師さんばかり、なかなか馴染めませんでしたが、そこで漁協を取り締まっている女性と仲良くなったんです。伊良部島って観光客が来るのは夏のシーズンだけなんです。そこで冬をどうにか盛り上げられないかとなったとき、その人から『内地から修学旅行の高校生を受け入れたいのでやってくれないか?』と話を持ちかけられました。それを実行したら『私、ナイチャー(沖縄の方言で「本土の人」)は好きじゃないけれど、アンタは好き』と言ってくれたんです。そこから漁師たちの間にも評判が広がり、仲良くなれましたね」
タイ旅行をきっかけに第三の人生に「海外移住」を決意
「うちの民宿も例外ではなく、観光客は激減しました。ただ、ここでも思わぬチャンスが訪れたんです。近所のゲストハウスのオーナーが病気になってしまい、コロナ禍も重なったことで宿を手放すと言われたんです。それを買い取って、賃貸ではない自分だけの民宿をオープンできることになりました」
念願の“自分の宿”を手に入れたものの、当面の収入源は別に確保する必要があった。
観光客が徐々に戻ったのは2023年の春ごろ。それまでの間、山本さんは島の生活に慣れ、地元の人との交流も深めていた。そんな折、宮古島のゴルフ仲間とバンコク旅行に行ったことが、次の大きな転機となった。
「タイに行ったときに、YouTubeでいつも見ていたパタヤに行ってみたら、一目で惚れました。中心地は騒がしいイメージですが、少し離れると長期滞在者やリタイアメントした人が住むエリアもあって。そこで過ごしているうちに『ここで老後を過ごしたい』と思うようになったんです」
もともと、年金がもらえる年齢になったら引退すると決めていた山本さん。当時63歳、第三の人生へと向けての準備を始めたのである。
「パタヤ移住にあたってはビザ取得に少し苦労しましたが、現地在住のYouTuberや現地の日本人が集まる飲み屋でつくった知り合いを頼りにしました。そして今年、民宿を畳み、ついに念願のパタヤ移住を果たしたんです」
家賃収入を得ながら、パタヤで暮らす
「ある意味そっくりだと思います。パタヤも宮古島もいい意味で人がゆるくて。また、釣りもゴルフも宮古島とほぼ同じように楽しめます。それに困ったことも似ていて。コンドミニアムを借りて、最初の何ヶ月か宮古島に帰っていたら、マットレスがカビだらけになっていました。また、南国特有の湿気でエアコンのパイプが詰まったことも……。これらも宮古島で大体、体験したことですね(笑)」
最後に山本さんは、移住や第二の人生を考える読者にこんなメッセージをもらった。
「移住は、行きたいという気持ちだけでは叶えられないと思います。家族や仕事のしがらみをひとつずつ解消できる状況になったとき、初めて挑戦できます。でも、もしうまくいかなくても戻れる場所があれば、安心して一歩を踏み出せる。だからこそ、挑戦するタイミングだけは自分でしっかり選びたいですね」
<取材・文/カワノアユミ>
【カワノアユミ】
東京都出身。20代を歌舞伎町で過ごす、元キャバ嬢ライター。
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