だんな松丘さんは90年代お笑いブームのきっかけとなった『ボキャブラ天国』(フジテレビ)や『爆笑オンエアバトル』(NHK)に出演し人気を博した。だが、相次ぐトラブルに見舞われ、お笑い界で“デスノート”と呼ばれたことも……。今回は、その波乱万丈な人生を振り返る。(記事は全2回の1回目)
お笑い芸人になるために上京、気づけば「坂道コロコロ」に
松丘:親父から『お前はおもしろいからお笑いをやれ』って言われて、大阪にあった松竹芸能の養成所に入学したんです。そうしたらネタもやらないし台本も読むのでおかしいなって思ったら、俳優部だった。結局、事務所を辞めて東京に行きました。
――そこから本格的にお笑いを目指すのですね。
松丘:そうです。コンビを結成してオーディションを受けて、ホリプロに所属しました。当時はよほどひどい人じゃなければ合格したんじゃないかな(笑)。僕らの先輩にはさまぁ~ずさん、フォークダンスDE成子坂さんがいましたね。大阪と東京では、出番前のあいさつの仕方が違って、さまぁ~ずさんに「お先に勉強させてもらいます」って挨拶をしたら「なにを勉強するんだよ」って言われました。
――坂道コロコロというコンビ名はどうやって決めたのですか。
松丘:最初はエンドレスフィニッシュっていうコンビ名で、事務所からわかりづらいとすごく怒られた。事務所の怖い人に「ライブの出番までにコンビ名を考えてやる」って言われて、出番になったら「坂道コロコロです」って紹介された。ええー、俺たち坂道コロコロなんだって思いました。
――コンビ名を変えようと思わなかったのですか?
松丘:できないです。めちゃくちゃ怖かったんで。でも改名ブームでいうと、さまぁ~ずさんがバカルディさんからコンビ名を変えて売れたじゃないですか。僕らも、事務所の偉い人が光GENJIの歌詞で出てくる「しゃかりきコロンブス」が好きで、「お前ら、坂道コロンブスにしろ」って言ってきた。 またそこも命令なんですよ(笑)。ボキャブラ天国でも、ヒロミさんから「お前らもっと明るい名前にしろ」って言われて、「エンヤコラさ」っていうコンビ名になったり。大人の事情で色々変わりました。
――『ボキャブラ天国』は、最高世帯視聴率が24.5%(ビデオリサーチ調べ)という人気番組でした。
松丘:ボキャブラは、同じ事務所から成子坂さん、アリtoキリギリスさん、つぶやきシローさんが出ていたからもう枠がなかった。それでも諦めずに毎週、制作会社に20本くらいネタをFAXで送っていました。何度も繰り返していたら、やっと2、3か月後に連絡が来た。
――自力でつかんだチャンスだったのですね。
松丘:当時はスタッフさんもめちゃくちゃ怖い人が多くて、本当にもう地獄でしたよ(笑)。でもスタッフの前でネタを披露したら、すごく笑いが起きた。本番でもめちゃくちゃ笑いが起きて、メジャーにランクインできた(注:番組内では11位以下はチャレンジャー扱い)。翌週からはネタを送らなくても出られるようになったので、ラッキーでしたね。テレビに出るようになって通帳を記帳したら「えええ」っていう金額が振り込まれていた。こんなに入るんだって驚きました。
空前のお笑いブーム。女子高生があとをつけてきたことも
松丘:ブームの頃は、毎週営業に出ていました。千人クラスのホールも客席が満杯でした。ボキャブラ芸人が出演したファンイベントに、ファンを乗せたバスが10台も来たり。なかでもネプチューンさんの人気がすごくて、道を歩けないくらいの出待ちがいた。異常な熱気でしたね。
――まだSNSがなかった時代ですが、だんな松丘さんは実際どうでしたか?
松丘:モテましたね。普通に買い物に行っても、女子高生があとをついてくるぐらい。僕らレベルで、ですよ(笑)。お店に行くと写真を撮ってくださいとかもよくありましたね。
そこからボキャブラブームが落ち着いた時に、今度は『爆笑オンエアバトル』が始まった。出るか迷っていたら、先輩芸人の成子坂さんが出るって言ったので僕らもやるしかないって思いました。
――『爆笑オンエアバトル』でもほぼレギュラーのような扱いでしたね。
松丘:でも合格と不合格を繰り返したんですよ。お笑いブームも落ち着いてきて、だんだんピンの仕事もやるようになった。僕は単独でラジオのレギュラー番組を始めました。
――その矢先に、坂道コロコロ時代の相方の不祥事が起きましたね。
松丘:相方が捕まったのが地獄の始まりでした。もう地獄の一丁目ですよ。事務所からは「1週間、謹慎してくれ」って言われた。「えっ、俺は何もしていないのに」って。ちょうど捕まったタイミングで、ラジオの生放送があった。ニュースになっているのに、プロデューサーから「事件には触れないでくれ」って言われた。だから「今日は良い天気ですね」みたいな話をして必死にごまかしながら喋りました。
人気芸人から一転、相方の逮捕で奈落の底へ
松丘:決まっていた文化祭の営業が25校くらいあったのに全部キャンセル。しかも事務所からは「家から一歩も出るな」と言われた。家でずっとテレビを観ていたら、ワイドショーで事件を取り上げていた。僕が変な客のコント映像が流れたんですが、どう見ても捕まったのが僕みたいじゃないですか(笑)。給料も営業で100万のはずがゼロになった。「うわぁ、まじか。生活ができない」って思いました。
――まさに芸人存続の危機ですね。
松丘:1週間後に、事務所から『マネージャーにならないか』って打診があった。まだ芸人をやりたいって思いがあった。そんな時に、フォークダンスDE成子坂さんを解散していた渚さんから「一緒にコンビを組まないか」って誘われた。本当は事務所に残るつもりだったけれど、新人と一緒の扱いで、ライブの椅子出しやチケットのもぎりからって言われて辞めました。
――またゼロスタートになるので、大変ですよね。
松丘:仲が良かった泰造さんから、ネプチューンさんの元マネージャーが始めたSMA(ソニー・ミュージックアーティスツ)を紹介してもらった。今は錦鯉さんとかハリウッドザコシショウさん、バイきんぐさんとかいるけれど、当時はもうクソでしたね(笑)。“こんな奴、売れないよ”っていう芸人しかいなかった。
――事務所やコンビが新しくなることで、結局はキャリアが一からになってしまう後悔はなかったですか?
松丘:なかったですね。よく芸歴を言う時に“吉本で言うと何期”っていうのを基準にしているらしくて。もう僕は何期かわからないですけれど(笑)。
――お笑いの仕事以外の副業を始めたのは、いつ頃からですか?
松丘:相方が捕まって給料がゼロになった時からです。事務所からいくらか貰えないかなって思ったけれど、まったく貰えなくて(笑)。芸人仲間がポスティングのバイトをしているって聞いたので、僕も始めました。顔が知れ渡っていても帽子を被ってできるし、人と会わないから良かったですね。
村田渚さんと新コンビ結成。M-1で高評価も今度は相方が急逝
松丘:渚さんと組むなら、未来は明るいかなって思っていました。新しい事務所でネタを見せてもすごく褒められた。しかもコンビを組んで半年で、『M-1グランプリ』の準決勝まで進んだ。そこからは自信をもってやっていました。
――そこで、村田さんが急逝してしまうのですよね。
松丘:準決勝に進んだ翌年はシードで2回戦からだったのですが、その時の点数が全国1位だったらしいんです。会場でも過去最高にウケていました。『さあ、これで決勝まで行くぞ』って意気込んでいた時に、彼が3回戦の1週間前に亡くなったんですよ(注:2006年11月11日、くも膜下出血のため逝去)。
――周りから見ていて予兆とかありましたか?
松丘:じつはありました。 亡くなる1か月前によく「頭が痛い」って言っていた。亡くなる2週間前には、白目の部分に針でポンって刺したみたいな血の塊みたいなのがバーって出てきたんです。渚さんから「これ、目立つかな」って見せられた。「なんですか、それ」って驚いたけれど、「大丈夫じゃないですか」みたいに返しました。それが亡くなる3、4日前に、その赤い部分が消えた。「ちょっと見て。治ったわ」って言っていた。後で聞いた話ですけど、それがサインらしいです。
――それは知らなかったです……。
松丘:普通は知らないですよね。その時、目が赤いだけって思わないで、病院に行けば良かったかもしれないですけれど。彼とは金曜日に仕事で会ったのが最後で、会わなかった土曜の夜に亡くなったみたいでした。日曜日に仕事に来ないからおかしいなって。何度も電話しても出ない。管理人さんに部屋を開けてもらったら、すでに亡くなっていた。そこからまた地獄ですよ。地獄の二丁目です……。
松丘:相方が亡くなったのでもう無理だって思って、今度は芸人を辞めようと決意した。でも渚さんのお母さんから「渚が亡くなったからといって辞めないで続けてくれた方が嬉しいし、渚も喜ぶと思う」って言われて。そうか、辞められないなって思いました。そこからピン芸人を半年くらいやって、実力がないから辞めたっていう言い訳を作ろうって考えた。
不幸が重なっても“バカポジティブ”でいられる秘訣
松丘:僕がピン芸人でやっている時に、ヒロシさんも僕と組んでM-1に出たかったけれど、デスノートだと思ってやめたらしいです(笑)。赤プルと結婚が決まった時に、芸人の先輩たちが真顔で「赤プル、死ぬなよ」って言ったんです。僕は「いやいや。僕はそういうのじゃないですから」って返したら、「本当に死ぬなよ」って念を押されて。これはマジだなって思いました。
松丘:基本的にプラス思考なんです。相方が捕まった時は、本当に落ち込みました。でも、気持ちを切り替えるのが得意なんですよね。考え方がアホみたいに前向きなので、さまぁ~ず大竹さんからはバカポジティブって言われています。芸人を続けているのも、やっぱりお客さんがいっぱい笑ってくれた経験が大きかった。
――だんな松丘さんにとって、お笑いが天職なのですね。
松丘:人を笑わせるのが好きなんでしょうね。不幸な話ってつらいけれど、芸人はあとでネタにできる。さすがに相方が亡くなった時はつらかったけれど。3日くらいで立ち直って、4日目には笑顔になっていましたね。
――どのようにすれば、バカポジティブでいられますか?
松丘:僕が明るいのは、周りの人たちのおかげなんですよ。自分が明るく振舞っていると、周りの人たちも気を遣わずにいてくれる。ずっとふさぎ込んでいると、声をかけづらいじゃないですか。嘘でも笑顔でニコニコしていれば、「大丈夫?」って聞かれる。そういうのがコミュニケーションで大事なんじゃないですかね。だから笑顔でいるようしています。
* * *
笑いを交えながらも、自身のつらい過去を語ってくれただんな松丘さん。さまざまな経験をしたからこそ、バカポジティブという武器を手に入れられたのかもしれない。
<取材・文/池守りぜね、撮影/藤井厚年>
―[だんな松丘(松丘慎吾)]―
【池守りぜね】
出版社やWeb媒体の編集者を経て、フリーライターに。趣味はプロレス観戦。ライブハウスに通い続けて四半世紀以上。家族で音楽フェスに行くのが幸せ。X(旧Twitter):@rizeneration
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