いわゆる“弱者男性”を社会の中でどう扱うか。これは日本だけではなく、世界的に問題です。

 いまネット上で議論が二分している『男磨きハウス』(ABEMA)は、そんな状況に一石を投じる番組だと言えます。

共同生活で“いい男”に?賛否を呼ぶ番組構造



 番組の内容は、女性経験のない無職や子供部屋おじさんなどの男性陣が、イケメンのコーチ、ジョージの指導の下、共同生活を通じて自らの弱さと向き合い、“いい男”へと生まれ変わるというリアリティーショーです。

 勝負服チェックでジャケットのインナーに下着のTシャツを着たり、ただひたすらに女性に対して「夕飯行きましょう」としか声をかけられない姿だったりを、コーチやゲストの女性タレントが観察して笑うというバラエティ的な側面もあります。

 こうした、非モテの挙動不審ぶりを面白がるという構図に批判が集まっているのです。“彼女を作りたくて必死な人たちを笑うのはイジメと同じ”だとか、“コンプレックスを克服しようと頑張る人たちをバカにしているようで不快”といった声がSNS上で多くの共感を集めています。

 一方、好意的な反応もあります。“参加者たちに自分の欲望と向き合わせて、叫ばせるシーンがよかった”とか、コーチのジョージが彼らを冷ややかには扱わず、真剣に応じているので、番組として面白いという意見です。

“男の教育”が欠落したまま社会に放り出される現実

 それらの両論を見た上で、筆者は『男磨きハウス』をアリだと思います。その理由は、どれだけ多様性や寛容であることを訴える社会であっても、現実にはキモいとかダサいとか判断する人々の感性を封じ込めることまではできないからです。みんな口に出さないだけで、冷徹にジャッジしています。むしろ、世の中がそういうことを言ってはいけない空気になればなるほど、残念ながらより残酷に見極めるようになります。

 非モテの男性は、その現実を見て見ぬふりしているのではないか、という問いこそが、『男磨きハウス』のコンセプトなのです。

 また『男磨きハウス』は、教育の盲点をも突いているように思います。それは、“男の教育”の不在です。
番組の中で、何を着たらいいかわからず、女性にどう話しかけたらいいかわからずに迷走する姿は、まさに“男の教育”が欠けていたことの証拠に見えるからです。

 結果として、彼らは社会とつながる術を誰からも教わることなく、社会に放り出されてしまったのです。

女性の社会進出と“取り残された男性”の構図



 現代では、小学校から、みんな仲よく、勉強もスポーツも頑張って、いい職業に就いて、自分の望んだ人生を実現させましょう、ということが教えられます。

 当然のことながら、その考え方自体には何も問題はありません。けれども、それは主に女子の活躍を後押しする方向に働いており、学業や雇用のデータにおいても顕著にあらわれている。イギリスのベストセラー『Of Boys and Men』という本は、“男”であること自体が、肩身の狭い思いを強いられる世の中であることが数字の上でも明らかになってきていると指摘しています。

 また、アン・ハサウェイとロバート・デ・ニーロの映画『マイ・インターン』では、ハサウェイ演じるオンラインファッションのCEOが自社のいかにもオタク、服もヨレヨレで非モテな男性社員に向かって、酔っ払いながらこう言い放つシーンがありました。

<私たち女は何者にもなれるし、したいことは何でもできると教わってきた。でも、そのせいで男の子たちのことがおろそかになってしまったのかもしれない。>

 この映画の監督と脚本を手掛けたナンシー・マイヤーズは、まさに女性の視点から男性に対する教育が不十分であることを訴えたのです。

『男磨きハウス』にここまで深刻な問題意識があるかはわかりませんが、少なくとも時代の空気を一定程度すくい取っていることは言えます。

“弱者男性”を笑う構造に潜む、視聴者側の陰湿さ

 非モテ男性という異物をモチーフにここまで過激に面白い番組が作れるということは、男という概念が時代に放置され、手つかずのまま劣化したインフラになっていることの裏返しでもあるからです。

 しかし、一方で気になる点もあります。それは、経済的な閉塞感に見舞われている日本人が、安心安全に憂さ晴らしできる対象として、弱者男性にターゲットを絞った可能性です。
これは番組自体というよりも、視聴者側の抱える問題です。その現代的な陰湿さのひとつの象徴として、『男磨きハウス』を消費する態度にあらわれているのではないかということですね。

 彼らは何を言われても反撃しないし、反撃しようとしたところで、根拠となる力を持っていません。弱者男性には手持ちのカードがないと見切った状態の上に、『男磨きハウス』の乾いた笑いは成立しているのです。

番組の構図にいまの日本の脆さがある

 そう考えると、これは彼らを笑う人たち、マウントを取る人たちの意気地のなさも映し出していると言えるのではないでしょうか。自分より強い者には歯向かわず、絶対に負けることがないとわかっている人に対してしか、自分の優位性を示すことができないように見えてしまうからです。

 つまり、『男磨きハウス』の出演者も“弱者”ならば、彼らを憐れみつつ軽蔑して笑う勝者も形を変えた“弱者”である。

 この番組の構図自体にいまの日本の脆さがあると考えるのは、少しおおげさでしょうか。

 表面的には、強者男性・女性が弱者男性を教化していく形でありながら、どちらも本質的には弱さと不安を抱えている。

『男磨きハウス』が問いかける現代の闇

 ゲテモノという珍味を味わうバラエティ番組の形を保ちつつ、「男」という置き去りにされたインフラの現状を如実に映し出してしまう。

 そんな劣化して錆びついた「男」の残骸を見て笑う視聴者も、同じぐらい追い詰められた脆弱な存在なのかもしれない。

『男磨きハウス』が問いかけるものは、思ったよりも深い漆黒の闇なのです。

文/石黒隆之

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。
『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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