「文武両道などありえない」日本の野球界の信念
近年、日本の野球界では「文武両道」な選手が注目を集めている。2023年夏の甲子園で進学校である慶應義塾高校が優勝したのはもちろん、’25年のドラフトではスポーツ推薦での入学制度がない上智大学から正木悠馬投手が同大史上初の指名を受け、慶應義塾大学の主力打者・常松広太郎選手は世界的に有名な外資系投資銀行ゴールドマン・サックスに内定していながらシカゴ・カブスとマイナー契約を交わす見込みである。他にも昨年、全国有数の進学校である桐朋高校在学時にドラフト上位候補だった森井翔太郎選手がオークランド・アスレチックスとマイナー契約を交わしたり、今年は東京大学野球部の現役選手であるスタンリー翔唯(かい)選手が司法試験に合格している。
プロアマ幅広くスポーツ関係者から話を聞き、また自身でもスポーツの現場を経験してきた私の視点からすると、日本の野球界では長年タテマエとして「文武両道」が言われてきた一方、ホンネでは「文武両道=必敗」(スポーツ一本に集中しないと結果が出せない)という信念が、かなり広い範囲で共有されてきたと感じる。
高校野球の強豪として知られる下関国際の監督が、「文武両道などありえない。野球という一つのことに集中するから結果が出せる」という趣旨のコメントをし、SNSで炎上したことがあった。また拙著『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』(光文社新書)でも言及したが、同じく高校野球の強豪、PL学園野球部をモデルにした漫画『バトルスタディーズ』では、野球エリートの主人公が「勉強なんてガリベンにやらせとけ!」とカッコよく言い放つシーンがある。
私自身、中高大と「進学校」または「一流大学」とされる場所で野球をしてきたが、学力的に中堅以下の事が多い野球強豪校と対戦する際、強い敵愾心が自分たちに向けられているのを感じた。相手チームの指導者が選手たちに「お前ら、勉強で負けていて野球でも負けていいのか!」と檄を飛ばす光景も目にしたことがある。
進学校の生徒たちは恵まれており、彼らはやがて「いい大学、いい会社」という王道ルートを歩んでいく。そんな(実は昔からある)格差社会で不利な環境にいる自分たちは、一般社会と異なるロジックで動く野球界でなら一発逆転を目指すことができる。野球界やスポーツ界はそんなロマンのある場所だと信じられていた。
海外では名門大卒の選手は多い
しかし海外に目を向けると、このような日本の「文武両道=必敗」という信念のほうが、実は特殊なのではないかと思わされる。たとえばニューヨーク・ヤンキースなどで投手として通算270勝を挙げたマイク・ムシーナはスタンフォード大学で経済学の学士号を取得しており、’17年のWBCでMVPを獲得したマーカス・ストローマンも名門デューク大学で社会学の学士号を取得している。現役選手では、ロサンゼルス・ドジャースで大谷翔平の同僚であるトミー・エドマンはスタンフォード大学で数理・計算科学の学位を取得しており、今年横浜DeNAベイスターズでプレーしたトレバー・バウアー、そしてヤンキースのエースであるゲリット・コール(2025年シーズンは手術のため全休)はともにUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)出身である。
ここで名前が挙がった大学はすべて「世界大学ランキング(Times Higher Education)」で、日本のトップである東京大学と同等かそれ以上に位置している。
なぜなのかはいくつか仮説があり得るが、私としては「文武両道=必敗」という信念が大きいのではないかと考えている。野球強豪校出身のの選手やコーチは野球一本でやってきたことに誇りを持っている一方で、東大卒・京大卒のような選手が活躍されては自分の存在意義に関わる。すると「文武両道」を実現できそうな選手に対して必要以上のプレッシャーがかかる――これが基本的なメカニズムだったのではないか。
要するに、野球界では「文武両道いじめ」のようなことが起こってきたのではないか、というのが私の仮説である。これをプロ野球関係者に何度か問うてみたところ、明確に否定した人は今まで一人もいなかった。
“一発逆転”ロマンの中に抑圧があった
日本野球界では「野球道」という言葉がある。野球とは単なる遊びや気晴らしではなく、「生き方そのものである」という考え方だ。これは日本の伝統文化である武道の、いわば「道の思想」の影響を受けていると考えられる。「◯◯道」というと「一つのことを突き詰めることで真理に至る」というイメージを持っている人も少なくないはずだ。しかし「道」という言葉に含まれるニュアンスは「やり方」「技術」「ライフスタイル」などのもっと融通無碍なものである。そこには「野球以外、脇目も振らずに一つのことに集中すべき」という固定的なニュアンスはもともとない。
一直線に目的地を目指すのではなく、ときには寄り道をしながら自分なりの目標を見つけていく――スポーツだけでなく、語学や法律、異文化理解など別の方向性に目を向けるのも、本来の「道の思想」である。
現在の野球界の「文武両道」の潮流を、「昔のような、恵まれない者の“一発逆転”のロマンがなくなった」と捉える人もいるだろう。しかしその「ロマン」のなかに「野球以外に目を向けるな」という抑圧が少なからずあったことに、反省的に目を向けておくべきではないかと思う。
【中野慧】
編集者・ライター。1986年、神奈川県生まれ。一橋大学社会学部社会学科卒、同大学院社会学研究科修士課程中退。批評誌「PLANETS」編集部、株式会社LIG広報を経て独立。2025年3月に初の著書となる『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』(光文社新書)を刊行。現在は「Tarzan」などで身体・文化に関する取材を行いつつ、企業PRにも携わる。クラブチームExodus Baseball Club代表。
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