ビジネスマッチングや、エンタメイベント企画などを業務とする企業を経営する山田大智さん(62歳)の履歴書には、唯一無二の経歴が記されている。小渕内閣では官房長官、また自民党の幹事長などを歴任した野中広務さんの秘書として永年仕えた過去があるのだ。

人柄に魅せられ、約30年の月日があっという間に過ぎた。難局を切り抜ける野中さんの姿を、黒子として目の当たりにした見聞は、何事にも代えがたい貴重な経験といえる。

今なお記憶に残る現場では何が起こっていたのかーー紐解いてみると、山田さんしか知りえない「野中さんの素顔」が浮かび上がってきた。

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野中さんとの出会いは学生時代にさかのぼる

――野中広務さんの秘書を務めるに至った経緯を教えてください。

山田大智:私の家は政治と全く関わりがなかったのですが、学生の頃から選挙に興味を持っていました。たまたま近所の母親の友人から依頼を受け、学生の選挙運動員として手伝いに行ったのが始まりです。

一番初めに選挙を手伝ったのは、京都府の自民党府議会議員の方。政治活動の個別訪問を通して、さまざまな人と出会えるのが面白かったですね。

その後、1983年7月に京都2区で衆議院の補欠選挙が行われることになりまして。その府議会議員の方から「野中先生が衆議院の補欠選挙に立候補するから、すぐに手伝いに行け」と連絡があり、行ったのが野中先生との出会いです。

「この人について行きたい」という感情が芽生えた出来事

「野中広務の秘書」を30年間務めた男が振り返る「全日空ハイジャック事件」での“覚悟”。村山元総理と「強行突入が失敗したケース」を想定していた
当時学生だった山田さんが、田中派の青年会に参加したときの一枚
――野中さんの第一印象はいかがでしたか?

山田大智:当時、右も左も分かっていなかった私からすると、元京都府知事という肩書きで来ているこの人は、優しそうな雰囲気はまとっていませんでした。むしろ「怖そうな人だな」って思ったんですね。いったい何をしている人なのか、と。

――その「怖そうな人」という第一印象から一転して、「ついていきたい」と思えたのは、立会演説会での体験がきっかけだと伺っています。


山田大智:当時は公職選挙法が改正されておらず、小学校の体育館などに各政党の候補者が集まり、一人ずつ演説をする「立会演説会」がありました。そこで野中先生の演説を聞いた時に、衝撃を受けたんです。

その演説は「盛者必衰、会者定離、生あるものは、必ず死す、愛のない社会は、暗黒であり、汗のない社会は、堕落である」という言葉で始まるのですが、言った途端に、会場に散らばっていた共産党系の支持者が騒ぎ始めたんです。当時はロッキード事件の田中角栄先生の二審判決前で、野中先生は、田中派で出ていましたので、「田中広務」とヤジが飛んだんですね。

対して、「ヤジを飛ばしたそこの君、それを君らが信奉しているソ連のクレムリンの赤の広場で政権党に向かって言ってみなさい。即刻銃殺だよ」 という感じで、一人一人に目を移しながら言い返したんです。

毅然とした姿を目の当たりにして、「この人について行きたい」という感情が芽生えました。政党に関心があったわけではなく、「人間・野中広務」という人を「もっと知りたい」という思いが強かったです。

「全日空ハイジャック事件」で“覚悟”を見た

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2003年には「毒まんじゅう」で新語・流行語大賞を受賞した
――野中さんが大臣を務めた村山政権時代は、阪神・淡路大震災、オウム真理教事件、全日空ハイジャック事件など、大きな事件が立て続けに起こりました。2025年10月17日に村山富市元総理が逝去されましたが、当時、国家公安委員長としてどのような動きをされていましたか?

山田大智:野中先生が大臣になるタイミングで、色々なことが起こるという印象があります。1995年1月17日の阪神・淡路大震災では、村山先生ともやり取りをしていましたし、オウム真理教事件も、国家公安委員長として担当していました。

中でも、村山先生と野中先生が「すごい決断をしたな」と思ったのは、全日空ハイジャック事件です。羽田から飛び立って函館の空港に降りた全日空機に対し、警視庁の部隊が「強行突入」をすることになったのですが、ハイジャック犯がサリンを持っているかもしれないという情報がありました。


夜中の2時か3時頃、「野中公安委員長と亀井運輸大臣が官邸に入った」と聞き、私は「もう強行突入するな」と思ったんですね。実は、村山先生とは、もし強行突入が失敗し、死亡者などが出た場合、「総理も議員も辞めて、遺族のところに巡礼するように回ろう」 ということを二人で話し合っていたとのことです。のちに聞かされました。

飾らない人物だった村山元総理

――村山さんはどのような方でしたか?

山田大智:ものすごく庶民的でした。総理になられた時、スーツを4着しか持っていなかったという話がありましたが、私も当時手持ちが2~3着だったので、「私とそんなに変わらないな」と思ったのを覚えています(笑)。

また、訪朝団に同行した際、村山先生の部屋にお邪魔したら、「ステテコ姿」 で出てこられたんですね。空調が暑すぎてどうにもならなかったそうで、「元首相がこういう格好されてるのか」 と思いました。

野中先生と村山先生は同世代で、村山先生は1924年3月3日生まれ、野中先生は1925年10月20日生まれです。どちらも地方議員から成り上がった「叩き上げ」 の議員でした。議論で対立することはほとんどなく、話し合いでお互いに合意点を見つける状況でした。

「根本的に人が好きだった」野中さんの姿勢

――「自社さ連立政権」の成立に関わる、歴史的な極秘会話にも立ち会われたそうですね。

山田大智:羽田政権の時に社会党が離脱し、政権樹立に向けて動いていた時のことです。野中先生が別の会合に出席しないといけなかったので、私が代理として、その会合の会場である都内のホテルに行くように指示されました。現地で集まっていたのは、自民党側は亀井静香先生や、社会党側は伊東秀子先生など、両党の先生方。


そこで伊東先生が「自民党さんが村山委員長を首班指名してくれるんであれば、社会党は連立を組む」という話をされたんです。亀井先生が「分かった。党内をまとめる」と応じました。「社会党の委員長を自民党が担ぐの?」と驚き、「聞かないでいいことを聞いてしまったな」 と背中から冷汗が。野中先生に車で報告した際、「先生本当に社会党の委員長をかつぐんですか?」と聞くと、先生は「うん。うん。おかしいか?」と言い出して(笑)。秘書の立場でしたが、そのような重要な情報を先に知ってしまうことがありました。

――野中さんは「野党でも与党でも全員と繋がっている」イメージがありましたが、その理由はどこにあると思われますか?

山田大智:「同じ人間として付き合いをしていた」というのが大きいかと。根本的に人が好きなんでしょうね。思想が違っても、どういう考えを持っているのかということに興味を持ち、話し合いで接点を見つけられれば、同じ目的に向かって進もうとするんですね。また、演説や説明では、中学生に理解できる程度の話をしていました。
その目線で話さないとだめだ、とよく言われたものです。

家庭を顧みていたらこの仕事はできない

――約30年の秘書生活で、最も辛かったことや緊張したエピソードはありますか?

山田大智:運転手をしていた時、派閥の秘書の集まりに行くことができない状況が続いていました。どうしても行きたくて、運転しながら、「新婚ですから、早く家に帰らせてもらえないでしょうか」という口実を使ったことがあるのです。その途端に先生の顔がパッと変わってですね、「君な、家庭を顧みていたらこの仕事はできないぞ」と言われたんです。

国を動かしている仕事ですから、プライベートは関係ない。その時、「そこまでやっぱり覚悟を持って責任持ってやらないといけない仕事だ」と思いました。実際、先生の奥様は、手術を8回も経験されていますが、6回は立ち会っていません。身をもってその覚悟を実証しているわけです。

もし野中さんが生きていたら、何を思うか

――現代の政治を見て、もし野中さんが生きていたら、自民党や今の政治にどのような発言をされると思われますか?

山田大智:「心を持って政治をやってほしい」ということと、今の政治には「遊びがない」「幅がない」という点を指摘すると思います。右か左かときっちり決めてしまい、間を取ることや、妥協点を見つけることが少なくなっています。
野中先生やそれ以前の政治家は、懐が深かったと思います。今の政治に対しては、「もっと丁寧にやりなさいよ」と言われるでしょう。国民の生活、生命財産を守ることなんだから、もっと丁寧な議論が必要だと。

最後に会った時の言葉は……

――有権者は政治家とどう向き合うべきでしょうか?

山田大智:政治家は有権者の代弁者なのですから、「有権者はもっと議員に色々と意見を言った方がいい」 と思います。
SNSなどで一方通行の発信をするのではなく、直接会って話し合いをされる方が良い。いきなり議員に会うのはハードルが高いと思うなら、地元に秘書を置いていますので、秘書に話を伝えてもらうべきです。有権者の要望を吸い上げ議会で代弁するのが選ばれた議員の役目で、それが民主主義のあるべき姿だと思います。

――野中さんからかけられた最後の、あるいは心に残る言葉はありますか?

山田大智:ある議員の秘書をしていた時期に、私が職を辞し、次の秘書に決まったことを報告に行った時のことです。その時、先生は私に「政治は生き物だから頑張れ」と言われました。これは「どのような流れになるか分からないから気を抜かぬよう頑張るように」という意味だと認識しています。

亡くなる4ヶ月前、最後に会った時の言葉は「君いくつになった?」。私が「54です」と答えると、「あ、そうか」とそれだけでした。

しかし、亡くなって四十九日を過ぎてからご自宅に伺った時、お嬢様から「お父さんが倒れる前、テーブルにずっと『山田君の履歴書』を置いてたよ」という話を聞いて「ああ、救われたな」と。なぜなら先生の性格上、見たくないものならすぐに片付けるはず。引退後も様々な仕事をしてきた私の履歴書をずっと目にしてくれていたんです。「自分はあまり嫌われていなかったかもしれない」 と最後に思えました。


<取材・文/菅原春二>

【菅原春二】
東京都出身。フリーライター。6歳の頃から名刺交換をする環境に育ち、人と対話を通して世界を知る喜びを学んだ。人の歩んできた人生を通して、その人を形づくる背景や思想を探ることをライフワークとしている。
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