ほかにも織田信長役を小栗旬が、徳川家康役を松下洸平が演じるなど豪華キャストではやくも話題を呼んでいる。
秀吉の天下統一を支えた人物でありながら、今まであまりスポットライトの当たってこなかった秀長とはどんな人物なのか?
歴史学者・河合敦編著の『1週間でわかる戦国時代』(扶桑社刊)より、秀長と秀吉の関係性や、豊臣一族について解説した箇所を抜粋して紹介する。
優れた宰相だった秀長と、豊臣一族
貧しい農家に生まれた秀長が、織田信長に仕えた兄の秀吉に誘われて武士となり、重臣に栄達していく兄を支え、信長の死後は太平の世をつくるため、兄弟力を合わせて突っ走るサクセス・ストーリーを描くそうだ。
弟・秀長を愛していた秀吉
ただ、残念ながら秀長の人柄がわかる一次史料(当時の手紙や日記、公文書)はほとんど残っておらず、兄に対する思いや目指した夢もよくわからないのだ。さらに、秀吉が秀長について詳しく語った記録もない。けれど、黒田官兵衛に対し「あなたを弟の小一郎(秀長)のように思っている」と記しており、弟を愛していたのは間違いないだろう。
秀吉が天下統一する過程で、秀長が果たした役割は極めて大きい。
秀吉が信長の重臣として中国平定を任されたころから兄を助け但馬国の平定に貢献しているし、山崎の戦いで明智光秀を倒したあとは、兄の居城・姫路城を委ねられ中国の毛利氏との外交を担った。
四国平定では総大将として長宗我部元親を下し、大和・紀伊・和泉・伊賀など百万石近い所領を与えられ、大和郡山に壮麗な城を築き、一時は秀吉の跡継ぎと目されるほどだった。
外交でも活躍し、大坂城や聚楽第に地方の大名が来るたび、接待するのは秀長の役目だった。九州平定では、千利休とともに大友氏や島津氏との交渉をおこない、合戦でも中心的な役割を果たした。
残念ながら病のために天正十九年(1591)に死去するが、秀長が長生きしていれば豊臣政権は長く続いたかもしれない。そう思わせるくらい、調整力を持つバランスのとれた宰相であった。
庶民階層から頭角を現す
ただ、比較的史料価値の高い『川角太閤記』には、秀吉が小田原北条氏を滅ぼし鎌倉の鶴岡八幡宮を訪れたさい、安置されている源頼朝座像に向かって「私もあなたも天下をとった。だから友達ですね。けれどあなたは、清和源氏の嫡流、天下をとって当然の家柄です。それに比べてこの私は、氏も系図もない草刈り童から身を起こしたのです」。
そう自慢したと書かれている。となると、秀吉の出身は士分ではなく、農民や足軽など庶民階層だったと思われる。
実父の弥右衞門は、秀吉が幼いころに戦争の傷がもとで亡くなってしまい、母の仲は竹阿弥という人物と再婚したとされる。そんな秀吉には、姉弟妹がいた。
姉は一般的に「智、とも」と呼ばれているが、その名は当時の史料では確認できない。秀吉より三歳年上だといわれるが、弥助(のちの三好吉房)と結婚して秀次、秀勝、秀保の三人の男児をもうけた。
秀吉の活躍に翻弄された親族の人生
長男の秀次は、秀吉の跡継ぎとして関白となった。秀勝は浅井三姉妹の江(のちの将軍秀忠の正室)と結婚して女児をもうけ、秀保は豊臣秀長の娘と結婚して婿養子となった。いずれも豊臣政権を支える重要な存在だった。
秀吉の弟というのは、すでに紹介した豊臣秀長のことである。秀長は秀吉をよく補佐し、やがて名代として秀吉の天下統一に大きく貢献する。その活躍ぶりについては、のちほど詳しく語っていこうと思う。
秀吉の妹も当時の史料では実名がわからないが、後世の史料では朝日や旭と呼ばれている。秀吉より六歳下の天文十二年(1543)生まれだといわれている。
彼女はのちに徳川家康の正室となったが、二人のあいだに子は生まれなかった。
弟の秀長と妹の朝日は、『太閤素性記』では、秀吉や智とは父親が異なるとしている。秀吉と智は弥右衞門の子で、秀長と朝日は竹阿弥の子だというのだ。いっぽう、四人とも仲と弥右衞門の子とする書もある。
いずれにせよ、秀吉の姉弟妹が秀吉の驚くべき栄達によって、その人生が大きく変わったのは間違いない。
秀吉とねねは恋愛結婚だった
ねねは、杉原家利と朝日の次女として生まれたが、母の朝日は秀吉が卑賤な出であることを理由に、結婚に強く反対したとか、秀吉が結婚前にねねと性交渉したことを知って怒り、結婚に同意しなかったという。
そんなこともあり、見かねた朝日の姉・七曲が手を差し伸べ、ねねを自分と浅野長勝(信長の家臣。弓衆)夫妻の養女にしたうえで秀吉に嫁がせたと伝えられる。
秀吉とねねのあいだには子供ができなかったが、秀吉は聡明なねねのことを全面的に信頼しており、正室の地位を保ち続けた。
妻妾は多かったが、実子は少なかった秀吉
なお、近年は南殿という女性のあいだに秀吉は石松丸(のち秀勝)という男児をもうけていたという説が有力になっている。が、秀勝は元服したものの若くして没したようだ。秀吉には多くの妻妾がいたが、子を産んだのは淀殿(茶々)だけである。淀殿は浅井長政とお市の娘で、妹に初と江がいる。
母子は浅井家が滅んださい、織田軍に小谷城から救出されたが、本能寺の変後、お市は娘たちを連れて北ノ庄城の柴田勝家のもとに嫁いだ。
しかし賤ヶ岳の戦いで秀吉に勝家が敗れると、北ノ庄城で夫と運命を共にした。このおり浅井三姉妹は救い出され、長女の淀殿は秀吉の側室になり、鶴松と秀頼を生んだ。
ところで、秀吉には譜代の家臣がいなかったので、急に強大化していくなかで、加藤清正や福島正則など実母の親戚を子飼いとして抜擢したり、ねねの親族を大名に取り立てるなどして豊臣一門を創設することになった。
〈TEXT/河合 敦〉
【河合敦】
歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965年生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も。近著に『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『逆転した日本史』、『逆転した江戸史』、『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社)、『知ってる?偉人たちのこんな名言』シリーズ(ミネルヴァ書房)など多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017年に上梓
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