―[貧困東大生・布施川天馬]―

「私は、バカと話したくないから医学部に行きました」
 以前取材した、ある現役医学部生の方から放たれた一言でした。

 彼の言う「バカ」とは「論理的思考力がなく、知識量も乏しく、知的好奇心もない上に、その場限りの感情に振り回されて生きる人」。


「感情的より合理的」とまとめれば聞こえはよくても、誰もかれもが合理的な判断を下し続けられるわけではない上に、感情と人間の判断は切っても切れない関係にあるのですから、実質的に叶えることは不可能な願望です。

 ですが、彼は中学受験で都内有名校に進学し、「バカのいない環境」を手に入れた。合理的な思考が根強い彼は、「この心地よい環境を維持したい」と考えて、都内の某国立医学部へ進学したそうです。

 しかし、そこで直面したのは「臨床医になれば、必然的に自分より思考力・知識量・対応力などが低い患者のケアに終始せざるを得なくなる」現実。

 現在、彼はより「バカ」の少ない環境を探して、toBビジネスを展開する大手企業の就活を考えているそう。

「別れる彼女への手紙を書け」医学部入試で出題されたワケ。ミス...の画像はこちら >>

2014年愛知医科大学の小論文問題

 頭がいいから医者を目指したのに、相手にする人はみな頭がいいとは限らない。

 そして、医者になれるほど優れた人のように、みんながみんな振る舞えるわけではありません。だからこそ、医者サイドに求められるのは「能力」ではなく「思いやり」なのではないでしょうか。

 実は、これを裏付けるような問題が、2014年愛知医科大学の小論文に出題されました。以下に問題文を貼り付けます。

 あなたにはこれまで3年間真剣なお付き合いをしてきて、来年くらいに結婚の約束をしている彼ないしは彼女がいるとします。ところが2カ月前にふとしたことで知り合った別の人が好きになってしまい、今付き合っている人と別れる決心をしました。600字以内でお別れの手紙を書いてください。


 まるで、入試会場に来ていることを忘れさせるような、エモーショナルな一場面。

 小説でも書けと言われているようですが、しかしこれが医学部の入学試験であることを鑑みれば、あまりにミスマッチと言わざるを得ません。

 そもそも、「別れの手紙」でいったい何をどのように評価できるというのか。

 そのカギこそが、前述した「バカと話したくない」奢りと、知能以上に求められる「医者としての資質」に隠されているように見えます。

「別れの手紙」が受験生に問いかけていること

 医者になれば、客として訪れるのは、大半が何か不調を抱える人々。病気、怪我、後遺症、障害……さまざまな「不調」を基に、医者は適切な対処法を指示して、患者の痛みや不安を和らげます。

 ただし、医者も万能ではない。現代医学では治らない、もしくは手遅れになった患者とも出会うでしょう。そうした時、医師にできるのは「ターミナルケア」程度。

 実際に、先述の医学生によれば、授業では「医者にできるのは、誰かを救うことではなく、精々いつ死ぬかを選んでもらうことだけだ」と語られるそうです。

 では、仮にあなたが医者だとして、余命数か月~数年の患者を前に、どのようにその事実を告げるでしょうか?

 ウソをつくことはふさわしくないでしょう。ですが、伝えて喜ばれるようなものでもない。むしろ、隠せるならば隠したい。


 自分以外の人に伝えてもらって、その罪を背負ってほしい。相手を絶望の淵に叩き込むのは、自分以外であってほしい。そんな重圧に苛まれるシーンも、珍しくないのでは。

 だからこそ、医者に求められるのは、単なる「事実の宣告」ではなく、「相手の気持ちに配慮した宣告」。

 どう伝えてもマイナスになることがほぼ確定しているのですから、せめてその衝撃を和らげたい。そのためには、伝え方を工夫しなくてはいけません。

 そう考えると、先ほどの問題の意図が浮かび上がってきます。問題の状況は、「3年付き合って来年結婚予定の人がいるのに、相手とは全く関係ないところで、別れる理由ができたので、関係を消滅させる」こと。

 すなわち、やるべきことは「全く悪くない相手に対して、どのように伝えれば、相手の気持ちに配慮しながら事実を宣告できるか」。

「どうしたって相手のマイナスになる事実を、極力傷つけないように配慮しながら伝える覚悟」があるかを問う問題だったのではないでしょうか。

医者こそ“感情の取扱い”に精通しなければならない

 医者は、そしてその卵たる医学部生は、みな苛烈な受験戦争や国家試験受験を制してきた歴戦の猛者。

 勉強で結果を出すためには、感情的になるよりも、機械的に結果と傾向を判定してトライアンドエラーを繰り返す合理性が求められます。


 その中には、きっと「感情的なバカと話したくない」とするような人も、少なくないのでしょう。

 ですが、合理性は人を生かしはすれども、人を元気づけることはありません。

 人間は体力があれば動けるわけでもなく、気力が揃って初めて行動に移れる。であれば、体力のみならず気力に対する、すなわち感情に対する取扱いまで学んで、初めて「真に合理的な選択」となるように見えます。

 私の好きな名言に、「怠惰を求めて勤勉に行きつく」というものがあります。

 麻雀マンガ『哲也―雀聖と呼ばれた男』の一幕で、楽して儲けたいばくち打ちとして勝ち上がるために、日夜賽の目を振る鍛錬を怠らない矛盾を形容した言葉ですが、これはどの分野にも当てはまるように感じる。

 この世で最も合理的な判断を下すべき医者だからこそ、この世で最も感情的な判断に関しても精通していなくてはならない。

 まずは、自分の感情の起伏を観察し、徐々に扱いをならしていくべきなのでしょう。

 冒頭の医学部生の文言も、もう少しかみ砕けば「バカと話すと感情が不用意に動いて疲れるから、話したくない」ということ。

 感情的な自分を守るために、合理的な人が多い環境を目指すという感情的な判断を下している。

 これは全く現実的に不可能ですから、あまりに非合理的な選択のように見えます。彼もまだまだ、勉強途中ということなのかもしれません。


<文・布施川天馬>

―[貧困東大生・布施川天馬]―

【布施川天馬】
1997年生まれ。世帯年収300万円台の家庭に生まれながらも、効率的な勉強法を自ら編み出し、東大合格を果たす。著書に最小限のコストで最大の成果を出すためのノウハウを体系化した著書『東大式節約勉強法』、膨大な範囲と量の受験勉強をする中で気がついた「コスパを極限まで高める時間の使い方」を解説した『東大式時間術』がある。株式会社カルペ・ディエムにて、講師として、お金と時間をかけない「省エネ」スタイルの勉強法を学生たちに伝えている。MENSA会員。(Xアカウント:@Temma_Fusegawa)
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