やはり、“クルマ”という乗り物は私たちを別人格に変えてしまうのかもしれません。今回は、そんなあおり運転を受けた被害者が“今ふう”な方法で回避したエピソードです。
雨上がりの帰路に忍び寄った違和感
徳光さん(仮名・29歳)が取材中に最初に口にしたのは、「あのときの雨上がりの匂いは、いまでも覚えているんです」という一言でした。午後の仕事を終え、職場から自宅へ向かう片側二車線の道路。アスファルトはまだ湿り、前を走る車のタイヤが上げる水煙が薄く漂う夕刻だったそうです。
「左車線を制限速度の50キロで走っていたんです。特別急ぐ理由もなかったですし、いつも通りの帰り道でした」と彼は語っていました。
しかし、ふとルームミラーを見ると、いつのまにかトラックが異様なほど近い距離で後ろについていることに気づいたといいます。ライトを上向きにされたわけでも、クラクションを鳴らされたわけでもない。それでも“近い”。その距離感が決定的に不自然だったそうです。
信号で止まると、相手もピタリと停止。しかしバンパーが触れるほどの距離ではなく、あくまで一定の距離を保っている。
「なんか、じっと“観察されている”ような感じがしたんです。サイドミラー越しに、作業員の男性の影が一瞬見えました。顔までは分からないんですけど、じっとこっちを見ている気がして」
雨上がりの空気に混じる、説明できない不安。徳光さんの胸には早くも、言いようのないざわつきが広がり始めていたようです。
追い越さない“追跡者”の不気味さ
しばらく走っても、トラックは追い越す気配をまったく見せませんでした。徳光さんがアクセルを緩めても、相手は同じ速度でついてくる。「普通なら右車線から抜いていきますよね。なのに、ずっと真後ろにいるんです。ずっとです」
さすがに恐怖を感じ始めた彼は、なぜこうなったのかを必死に考えました。
と、そのとき一つ思い当たる出来事があったと話してくれました。
「コンビニを出るときに、ちょっと強引に右折してしまったんですよ。後続車がいて、もしかしたら、そのときの車がこのトラックだったのかもしれません」
ただ、その“もしかして”に確信はありません。相手はクラクションも鳴らさず、ただ黙ってついてくるだけ。
信号が赤に変わり、車列が止まる。徳光さんは深呼吸をして気持ちを整えようとしたものの、ミラーに映るトラックは微動だにせず、ただそこに佇んでいる。
「向こうの表情は見えないんです。でも、感じるんですよ、“離れないぞ”っていう圧を。あの感覚は本当に嫌でした」
逃げ切る方法も思い浮かばず、ただ走り続けるしかない。胸の鼓動は早まり、手のひらには汗が滲み始めていたといいます。
藁をも掴む気持ちで“Hei Siri”
そんな緊張の中、徳光さんはふと思い出したように、スマホの呼びかけ機能を使うことを試みたそうです。普段はほとんど使わない機能でした。「ダメ元でした。正直、声が震えてました。『Hei Siri、あおり運転を受けているので警察に電話して!』って。言った瞬間、自分でも驚くぐらい声が上ずってたのを覚えてます」
すると、スマートフォンが静かに反応し、画面には発信までのカウントダウンが表示されたそうです。
“3…2…1…”
その数字がゼロになった瞬間、自動的に警察へ電話が発信されたとのこと。
「警察の声を聞いた瞬間、少しだけ安心したんです。場所を伝えるのが必死でしたけど、なんとか冷静を装って説明しました」
その後も、トラックは追跡を続けていたらしく、徳光さんはただ前を見据えながら、助けが来ることを祈るしかなかったと語っています。
ルームミラーに映り込んだ赤色灯
やがて、ルームミラーに“赤い光”がちらついた瞬間、胸の奥の緊張の系がほぐれたといいます。「見えたんですよ。赤色灯が。あれほど安堵した瞬間はなかったです」
警察車両はトラックの後方に割り込み、その後もう一台のパトカーが徳光さんの前へ。前後を挟まれた形で車列が停止し、事態はようやく動き出しました。
トラックを運転していた男性は、その場で事情を聞かれ、結果的に検挙されたとのこと。
動機について徳光さんは詳しく聞いていないものの、警察によれば、やはりコンビニからの合流が原因の可能性が高いという説明を受けたそうです。
「普通なら一瞬イラッとして終わる程度だと思うんです。
取材の最後、徳光さんはこう締めくくりました。
「Siriには本当に助けられました。あの時思い切って声を出してよかった。もし躊躇していたら、どうなっていたか分からないです」
<TEXT/八木正規>
【八木正規】
愛犬と暮らすアラサー派遣社員兼業ライターです。趣味は絵を描くことと、愛犬と行く温泉旅行。将来の夢はペットホテル経営
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