奈良地裁刑事部(田中伸一裁判長)で審理が続く安倍晋三元首相銃殺事件の裁判員裁判は、12月4日の第14回公判で証拠調べを終え、18日の第15回公判で論告・最終弁論が行われ結審、来年1月21日に判決が言い渡される予定だ。弁護側は銃刀法(武器製造)違反などでは争うが、殺人の事実自体は認めている。
政治家が狙われた過去事件では死刑や無期懲役の求刑例があり、奈良地検がどの量刑を求めるか注目される。
前回記事以降、11月18~20日の第8~10回公判で、母親と妹、専門家らが証言し、11月20日の第10回公判から12月4日の第14回公判にかけて被告人質問(計5回)が行われた。捜査当局や報道各社は、統一協会への恨みから安倍氏襲撃に至る経緯に「論理の飛躍」があると強調してきた。しかし法廷で積み上げられた証言は、被告が抱えてきた認識と計画が、突然の思いつきではなく、長い時間をかけて固着していった可能性を示している。

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突然、統一協会批判に転じた母親

11月18日の第8回公判。母親は衝立で姿が見えないまま証言した。「献金し活動すれば家がよくなり幸せになれるという思いを利用したのが統一協会だ」と語り、「協会にチヤホヤされて有頂天になっていた。協会に責任がある」と踏み込んだ。事件後は教会に行かず活動にも参加していない、家で本などを読むだけだとも述べた。

検察官から「祖父の岸信介元首相に責任があるとしても孫にまで及ぶのか」と問われると、「どの程度か分からないが関係があると思う。三代にわたって統一協会、国際勝共連合に理解があった」と回答し、安倍氏を狙った動機の一端に触れた。さらに「徹也は優しい子で、統一協会の問題が社会に伝わると考えたのだと思う」と述べ、「私がちゃんとしていれば事件は起きなかった」と自責の言葉を重ねた。

休憩に入った時と閉廷の際、母親が「てっちゃん、ごめんね」と声を掛け、裁判長が「ここは対話の場ではない」と二度制止した。
法廷の空気が一瞬張り詰め、傍聴席のペンが止まったのが分かった。

「母は韓国に過去を謝罪する文章を半紙に毎晩書いていた」――妹が証言

続いて妹が証言した。母親と同様、衝立の向こうで語られた言葉は生々しい。「同室だった母は毎朝毎晩お祈りをして、夜中にろうそくの明かりだけで半紙に『戦争で韓国に申し訳ないことをした』と何度も写経みたいに書いていた。とても不気味だった」。泣きながら「小学校1年の時に母が入信し、私たちの家庭は統一協会に破壊された。合法的な方法では何もできなかった」と述べた。

安倍氏を狙ったことについて妹は「特に不思議ではなかった」と語る。母の部屋にあった統一協会系の新聞・雑誌の表紙に安倍氏の写真がよく載っていたこと、信者の叔母から2021年9月の関連団体「天宙平和連合」(UPF)イベントでの安倍氏のビデオメッセージ動画を見るように言われたこと、選挙のたび自民候補を支援するよう電話が来たことなどを挙げた。検察官に「教団への復讐を考えたことはあるか」と問われると、「復讐できるなら、していたかもしれない」と答えた。

妹の後、全国霊感商法対策弁護士連絡会(全弁連)事務局長の山口広弁護士が「2世の問題にもっと早く着手していれば、この事件はなかったと思う」と証言した。元信者の神谷慎一弁護士は、事件後に2世当事者から「私が山上さんだったかもしれない」と言われた例を挙げたうえで、妹が「母親を脱会させたい」と弁護士に相談し、教団への損害賠償請求も検討していると明かした。

よく通る声が印象だった―被告人質問

「本当に来たなあと思った」山上徹也被告が初めて語った犯行当日と長年の恨み【安倍元首相銃殺裁判、被告、母、妹の証言から】
筆者と共に全公判を取材しているフランス人ジャーナリストの西村カリン氏が法廷画を提供してくれた。西村氏は元漫画家で、AFP通信記者を経て現在はフリー。絵/西村カリン
11月20日の第10回公判。午後3時45分、田中裁判長が「被告人質問に入る。
被告人は証言席に」と述べると、山上被告は裁判長、裁判員、検察官席の方を順に向いて丁寧に一礼し、着席した。事件後、山上被告が公の場で事件について体系的に語るのは、これが初めてだった。

声はよく通り、質問には即答できるものと、沈黙を挟みながら言葉を選ぶものがあった。答えに詰まると、「申し訳ないが、もう少し考えさせていただければ」と前置きし、軽率な表現を避けようとする姿勢が一貫していた。

11月25日の第11回公判で、松本恒平弁護士の主尋問に対し、山上被告は安倍元首相をどう認識していたかを具体的に語った。「母親や地元の教団幹部から、安倍氏は統一協会の教義を理解し、味方になってくれているとよく聞いていた」「祖父の岸信介元首相、父の安倍晋太郎元外相の代から、統一協会に理解があり、深い繋がりがあると前から思っていた」と述べた。

「統一協会幹部や安倍氏ら政治家を襲いたいという漠然とした思いは、2003年ごろから頭の片隅にあった」とも語り、標的意識が事件直前に突然生まれたものではないことを強調した。2006年の福岡でのUPF集会で安倍氏のメッセージが読み上げられたことや、自殺未遂後に大阪で教団幹部をナイフと催涙ガスで襲おうとしたが実行できなかったことなど、過去の具体的な計画にも言及した。

山上被告は「ナイフは心理的に抵抗があった。一番いいのは銃だと思った」と述べ、2019年ごろから銃の製造を始めた経緯を説明した。その後、教団の公式サイトや、統一協会問題を継続的に報じていた『やや日刊カルト新聞』の記事をすべて読み、「第二次安倍政権以降、統一協会のイベントに多くの国会議員が参加していることを知り、非常に良くないと感じた」と述べた。

12月2日、4日の第12~14回公判では、事件前日の行動についても詳しく語った。
奈良市内の統一協会施設が入ったビルで手製銃の試し撃ちをした理由について、「母親と通ったこともある教会が入ったビルで、安倍元首相を襲うのは統一協会を許さないという意思表示だった」と説明した。

「本当に来たなあと思った」

事件当日については、商業施設のトイレで銃の安全装置の一つを外し発砲準備を整えたこと、到着した安倍氏を間近に見て「本当に来たなあと思った」と後方から撃つつもりだったが警備で近づけず、偶然生じた一瞬の隙で接近したことを淡々と語った。

発砲の瞬間に何を考えていたかと問われると、「射撃の心理学を扱った本に、撃つときは無心になれと書いてあったので、何も考えなかった」と答えた。裁判員から「事件を思いとどまることはなかったか」と聞かれると、「思いとどまることはなかった」とはっきり答え、「銃の製造に長い時間と費用をかけ、仕事も止め、経済的にも追い詰められていた。やめてしまうと、何のためにここまでしてきたのか分からなくなると思った」と述べた。

安倍氏に対する感情については、「表面に出る強い怒りではないが、困惑、失望、嫌悪感、敵意が頭の片隅や心のどこかに引っかかり続けていた」と表現した。「他の政治家ではなく、なぜ安倍元首相だったのか」という問いには、「統一協会と政治の関わりの中心にいる方だと思っていたので、他の政治家では意味が弱いと考えた」と答えた。

裁判員から「この事件によって目的は達成されたのか」と問われた際、10数秒沈黙した後、「非常にいろいろな問題が起きているので、今はお答えできかねる」と述べたのが印象的だった。最終盤、裁判員6人全員から追加の質問は出なかった。

精神鑑定医「説明は了解できる」/遺族へ初めて謝罪

「本当に来たなあと思った」山上徹也被告が初めて語った犯行当日と長年の恨み【安倍元首相銃殺裁判、被告、母、妹の証言から】
絵/西村カリン
第14回公判では、22年7月から23年1月まで大阪拘置所で21回面会し鑑定報告書を提出した和田央医師が、面談での供述をスライドで示しながら証言した。「被告の人柄・性格と家庭状況が事件を引き起こした」「教団への怒りに加え、挫折、兄の自殺への責任感、経済的困窮が重なり、時間的余裕がなくなって逼迫し、安倍氏と教団を関連付けていった」と述べ、被告の説明は「了解できる」と結論づけた。

弁護側の被告人質問の最後に、被告は遺族へ「私が安倍元総理を殺害し、3年半非常につらい思いをされてきた。弁解の余地はなく、非常に申し訳ない」と初めて謝罪を表明した。事件後に統一協会問題が社会化し、解散命令へ動いたことについては「ありがたい」と述べる一方、模倣犯や陰謀論が生まれた責任の重さにも言及した。


裁判長は倫理的歯止めについて問うた。被告は「人を死なせてはいけないというルールを超えてしまった部分」を認めつつ、安倍氏が「全く関係なかったわけではない」という認識が切り替わらなかったとも述べた。裁判員から最後の被告人質問で質問が出なかったのも印象的だった。

何が「飛躍」だったのか

検察や多くの報道では、山上被告が事件の5日前、2022年7月3日に安倍元首相を狙う決意を固めたとされ、統一協会幹部から安倍氏へと標的が「突然切り替わった」かのように語られてきた。だが、14回にわたる公判で被告本人、家族、専門家の証言を聞く限り、その説明だけでは法廷で明らかになった事実を十分に説明しきれないと、私は感じた。

山上被告は繰り返し、「安倍氏を襲いたいという気持ちは2003年ごろから頭の片隅にあった」と述べている。主たる標的が統一協会の組織や最高幹部であったとしても、安倍氏は「次に狙うべき対象」として、長年、被告の認識の中に位置づけられていた。これは、事件直前の思いつきや衝動だけで説明できるものではない。

また、母親や妹の証言からは、家庭内で安倍氏が「統一協会と政治をつなぐ象徴的存在」として、日常的に語られていた様子が浮かび上がる。統一協会系の媒体や関連団体のイベント、信者からの働きかけを通じ、安倍氏の存在は被告の生活空間の中に繰り返し現れていた。被告が安倍氏を「教団と政治の関わりの中心にいる人物」と認識していった過程は、断続的ではあっても、連続性を持っていたと言える。

確かに、教団幹部への直接的な襲撃が困難になり、経済的に逼迫する中で、最終的に安倍氏への襲撃を選択した点には、状況的な要因が重なっている。
しかしそれは、「標的の飛躍」というよりも、被告の中で既に用意されていた選択肢の中から、実行可能性の高い対象へと収斂していった過程と捉える方が、法廷での供述には整合的ではないか。

裁判員や裁判官の質問もまた、単なる動機の単純化を求めるものではなかった。「なぜ人を殺してはならないという倫理が歯止めにならなかったのか」「どこで考えが切り替わらなかったのか」という問いは、被告の内面の固定化や、長期にわたる思考の積み重ねを前提として投げかけられていたように思う。

14回の公判を通じて、少なくとも「なぜ安倍氏だったのか」という問いに対する被告なりの説明は、断片的ながらも相当程度言語化された。納得するかどうかは別として、それを「論理の飛躍」と一言で片づけてしまえば、この裁判が明らかにした構造的な問題ーー宗教2世の孤立、救済の遅れ、政治と宗教の距離の曖昧さを見失う危険がある。

<取材・文/浅野健一>

【浅野健一】
1948年、香川県高松市生まれ。72年、共同通信社に入社。84年『犯罪報道の犯罪』(学陽書房)を発表。ジャカルタ支局長など歴任。94年に退社。94年から2014年まで同志社大学大学院メディア学専攻教授。人権と報道・連絡会代表世話人。
『記者クラブ解体新書』(現代人文社)『安倍政権・言論弾圧の犯罪』(社会評論社)『生涯一記者 権力監視のジャーナリズム提言』(社会評論社)など著書多数。 Xアカウント:@hCHKK4SFYaKY1Su
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