私小説『夫のちんぽが入らない』の衝撃から9年。著者こだまさんが初めて挑んだ創作小説『けんちゃん』が刊行されたばかり。
だが気になるのは、彼女がこれまで一貫して“完全匿名”の作家として活動してきたこと。なぜデビュー作がドラマ化もされた大ヒット作家は、匿名での活動を続けるのか。その理由に迫った。
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出会い系サイトの経験を書くとランクが上がった

――新刊『けんちゃん』が発売されましたが、改めて「こだま」というペンネームで活動するようになったのはいつからですか?

こだま 27歳ごろ。小学校教員をやめ、自分の時間が一気に増えた時期です。ちょうどブログ文化が広まってきていて、「私もやってみよう」と、家族や自身の体験について綴るようになりました。そのサイトではランキング機能があり、上位に入るのが嬉しくて、ほぼ毎日書き込んでいました。

――当時からファンが多かったんですね。

こだま 褒められたことではないんですが、出会い系サイトで男性と会っていた経験を書けばランキングが上がることに気づいて。こういう話って人の興味をひきやすいんだなと……。その後、2014年にネットで出会った仲間と文学フリマに参加したときも同じペンネームを使い、そこで発表した『夫のちんぽが入らない』が予想以上に話題になったんです。なので、あえて素性を明かして本名に変えようという考えもタイミングもありませんでした。

――こだまさんは家族にも書き手であることを隠されていますが、不都合はありませんか?

こだま むしろ匿名だからこそ、現実の人間関係などにとらわれず、自由に書けることが多いです。
ただ、締切に追われている原稿に頭を抱えているときなんかは、傍から見たら「なんで無職なのに、そんなに悩んでいるんだろう」と不思議がっていると思います。
 だけど、自分が書いたものを家族や知り合いになんて絶対に読まれたくない。幸いにも、彼らは本をまったく読まない人たちなので、いまのところは安心しきって、なんでも書いてしまっていますが……。なにより、『夫のちんぽが入らない』なんてタイトルを、夫の許可なく世間に堂々と出しているわけなので。この匿名性は絶対に守らないと、という気持ちは恐怖に近いかたちで強いです。

――とはいえ、『夫のちんぽが入らない』刊行から9年も経ち、ドラマ化までされています。夫にバレそうになったことはありませんか?

こだま 一度、関西の『そこまで言って委員会』という番組で、『「夫のちんぽが入らない」というタイトルはアリかナシか』という話題が取り上げられていたことがあり、私の住む地域でも放送されてたんです。録画すると夫の目に触れると思い、すべてを記憶するつもりで身を乗り出して観ていたときに夫が帰宅しました。急にチャンネルを変えても怪しまれるし、とはいえ観続けても怖いし……というピンチがありました。奇声を発するなどして画面に目がいかないようにして事なきを得ましたが、明らかにおかしかったと思います。

「お互いに秘密を抱えながら同じ家に住んでいる」匿名作家が築いた“植物のような夫婦関係”

秘密を抱えた夫婦は淡々と支え合う

――エッセイや連載の仕事も続けておられるなかで、普段の執筆時間はどうやって隠しているんでしょう。

こだま 夫には、「私がよくパソコンと向き合っているのは、ネット小説を読んでいるからだ」と伝えてあります。
もし「ブログを書いているから」なんて言ったら、たぶん見つけ出して読まれてしまうと思うので、それさえ言いたくありません。執筆は基本的に夫が仕事に出ている昼間と、夫が就寝する22時以降にひたすら。ただ、夫が夜中起きても気づかないくらい一心不乱にキーボードを打っているときも多いので、ちょっと危ういなという自覚はあります。

――ご苦労なさっていますね。夫はこだまさんが著者だと気づいているけど、そのことを隠してくれているという可能性はありませんか?

こだま たしかに、私が書き手だと知っている友人からそう言われることもあります。けど、もしそうなら、きっと私はもう家から追放されてると思うんですよね。
 それに、夫は人生の8割を教員の仕事のために捧げている真面目な人。生徒への接し方を見ても絶対に私にはできないことをしているなと尊敬しています。仕事とプライベートをきっちり分けていて、家族の行動にそれほど関心はありません。私が多少怪しげな動きをしても、踏み込んで詮索してこないんです。

――お話を聞いていると、とても絶妙な距離感で成立している関係だと感じます。ただ、それでも隠し事をしている後ろめたさは残るのでは?

こだま 夫に言えない本を出しているという罪悪感はあります。
だけど、そのおかげで、夫が風俗情報を調べた履歴が残っていても、「私には夫のことを悪く言う資格はないんだぞ」と思える。お互いに秘密を抱えながら、淡々と支え合いながら、同じ家に住んでいる。特別仲がいいわけでもなく、冷え切っているわけでもない。この植物のような関係性を続けていきたいなと思っています。

――そうした環境のなかで、構想から9年間かけて今回刊行されたのが『けんちゃん』。どういった人の手に届いてほしい作品ですか?

こだま 今回の舞台は特別支援学校に併設された寄宿舎です。作中の登場人物たちは、自分の生き方が分からなかったり、自立したいけど躊躇していたり、身体的なコンプレックスを抱えていたり……。なので、なかなか一歩を踏み出せない人にぜひ届いてほしい。ありのままに生きるけんちゃんを身近に感じてもらえたらいいな。読者を励ます小説というつもりはあまりないのですが、「あ、似たような人が出てくるな」と思いながら読んでもらえたらうれしいです。

「お互いに秘密を抱えながら同じ家に住んでいる」匿名作家が築いた“植物のような夫婦関係”
障害を抱える青年と人々の交流を描いた連作小説『けんちゃん』(扶桑社)
こだま
作家。私小説『夫のちんぽが入らない』(扶桑社)でデビュー。
同作はNetflix・FODでドラマ化されるなど大きな反響を呼んだ。また、エッセイ集『ここは、おしまいの地』(太田出版)は第34回講談社エッセイ賞を受賞した。その他著書に『いまだ、おしまいの地』『ずっと、おしまいの地』『縁もゆかりもあったのだ』(太田出版)がある。本作『けんちゃん』が著者初の創作小説となる

取材・文/田中 慧(清談社) 撮影/杉原洋平
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