大阪市の境界を抜けて、電車を数駅。街と名乗るには少しさびしい駅前に降り立つと、ラブホテルと焼き鳥屋とドラッグストアが渾然一体となって並ぶエリアに出る。
そこに、件のホテルはある。
建物はややくたびれたビジネスホテル風。看板には見慣れない書体で「ビジネス」「リラックス」などと書いてあるが、外壁の色褪せと雑な塗り直しが“努力の痕跡”を逆に際立たせている。

※本記事は、『大阪 不気味な宿』(青志社)の内容を適宜抜粋・編集したものです。

大阪にある「最低評価のビジネスホテル」に女性会社員が泊まった...の画像はこちら >>

安いのには理由がある

このホテルの名前をネットで検索すると、なかなか強烈な口コミがいくつかヒットする。例えば、「枕カバーに黒い粉がびっしりと付いていました」「禁煙ルームなのにタバコ臭がして、灰皿も置いていた」「バスルームが、駅の公衆トイレのような悪臭がする……」など、もはや宿泊レビューというより事故報告。

遠い国のバックパッカー宿ならまだしも、ここは日本だ。それも一応観光圏ギリギリに引っかかる地域である。なぜこれが、堂々と予約サイトに掲載されているのか。

とはいえ、価格を見ると相場より2000~3000円は安い。大阪市内では1泊1万円を超えるところが当たり前になりつつある今、このホテルは素泊まりシングルで6000円台。格安の西成エリアと並ぶ価格帯で、市内からもほど近い。安さに理由がある、というより、理由しかない。


なぜ「最低評価ホテル」に?

このホテルに宿泊した経験があるというのが、兵庫県在住の会社員、友田めぐみさん(仮名)。勤める会社の研修会のあと、あまりに疲れていたため宿泊を決めたというが……?

「もちろん、口コミも読んだんですけど……。市内だとお金がかかるし、もうあんまり電車で移動するのもしんどかったし。多少、汚くても寝るだけやし、ええかなって。それと、どんなホテルなんやろっていう好奇心もありました」

めぐみさんが、宿泊したのは大阪・関西万博が幕を開けた4月下旬頃。春を感じさせない暑い日が続いた夜、そのホテルに泊まったという。

ホテルは、飲み屋と風俗店が点在する繁華街のはずれに位置していた。大きな通りから一本奥に入った通路は、昼間でも空気がこもっていて、外壁の黒ずみがどの建物にも共通している。

あえて、ホテルの特徴を挙げれば、受付が二階にあるということか。外階段にはビニールの簡易屋根がついていたが、風に煽られたのか破れており、まるで脱皮途中のセミの羽のようにぶら下がっていた。

干からびたゴキブリと対面

めぐみさんは、ホテルに一歩足を踏み入れた瞬間、「想像以上のホテルかもしれない」と覚悟を決めたという。

「自動ドアを開けると、赤い絨毯の上で干からびているゴキブリを見つけました。ひっくり返ったお腹が照明に照らされていて、翅はパリパリ。いま死んだというより『ずっとここにいます』みたいな感じでした」もうひとつ気になったのが、ロビーの様子だったという。
建設現場の作業員らしき男性たちが、ロビーの椅子を占拠し酒盛りをしていた。ビールや一升瓶を傍らに置き、何かと配慮が求められる時代にタバコもスパスパ。

「喫煙スペースなのかなって思うぐらい、全員がタバコを吸っていて。吸い殻は空き缶にギュギュっと押し込まれる感じでした。受付にいたホテルの人も、なにも気にしていない様子で……なんか全然、違う世界に来てしまったようでしたね(笑)」

このホテルにして、この従業員あり。受付カウンターの奥に座っていた50代くらいの女性も不思議で仕方がなかったという。目の前のディスプレイを見ているが、どこかぼんやりとした表情で視線も合っていない。極めつけは、その服装。春先だというのに、真冬でも珍しいこたつ布団を羽織っているようなチャンチャンコを身に着けていたのだ。これは、さすがにおかしい。

「もしかすと、このホテルの人じゃなくて変な人かも? っていう不安もあったんで、聞いてみたんですよ。『それ、暑くないですか?』って。
すると、『腰が冷えるとダメなんで。暑いぐらいがちょうどいいんで』って……。でも、夜も半袖で平気なぐらいの気温でしたから、相当暑かったと思うんですけど、それ以上は質問できませんでした」

飯場か、建設現場の仮宿舎か?

案内されたのは四階の角部屋。エレベーターに乗ると、ほんのりと硫黄のような匂いがした。もちろん、温泉などはない。扉が開くと、空調のないフロアにじっとりとした熱気がこもっていた。どこかの空調が壊れているのか、それとも、もともとそういう設計なのかは不明だった。

気になったのは、ドアが開け放たれた部屋がいくつもあったことだ。中では下着姿の男がテレビを見ていたり、数人で集まって談笑していたりと、生活感がむき出しになっていた。いわゆるビジネスホテルの宿泊客というより、どこかの会社の仮設宿舎か、飯場のような雰囲気。

ちょうど隣の部屋で清掃作業をしている男性がいたので、声をかけてみた。

「ここって、企業の方の長期滞在とか多いんですか?」
「……どういう意味ですか?」
「いえ、皆さん、ドア開けたままくつろいでらっしゃったんで」
「暑いだけでしょ」
「でも、さっきから何組かが、普通に話してる感じだったので、同じ会社の方かなと」
「知らん」

と、会話として成立していないようなやり取りしかできなかった。謎は深まるばかりだ。


前の客の存在が残る部屋

部屋は、広さこそ一般的なビジネスホテルと変わらないが、禁煙ルームを指定したにもかかわらず、口コミ通りどこかに残る“タバコの残り香”が鼻をかすめた。シーツと枕は見た目こそキレイだが、顔を近づけると、うっすらとカビのような匂いもする。

「まぁ、これくらいは口コミ通りでしたから、なんとか我慢できるかと思ったんですけどね。でも、部屋の備品がかなりパンチが効いていて……」

冷蔵庫はテーブルの下に収納されていたが、扉を開けた瞬間、古い倉庫の奥から漂ってくるような匂いが。電源を入れても一向に冷える気配はなく、チェックアウトまでただの「箱」だった。

バスルームも一筋縄ではないかない。天井には黒い点々が多数。よく見ると虫の死骸で、それが乾ききっているせいか、天井に貼りついている。浴槽の底には、黒ずんだカビが“洗いきれなかった何か”として残されている。清掃済の体裁は整えているが、全体的に「前の客の残像」が消しきれていない。

エアコンもすごい。いまどき、据え置き型。スイッチを入れると、モーター音だけは元気に鳴る。
が、吹き出してくるのはぬるい風だけ。室温が下がる気配はなく、ただ「風がある」という事実だけが確認できた。窓は開かない仕様のため、部屋に熱気がこもり続ける。なるほど、さっきの住人たちがドアを開けっ放しにしていた理由が、ここに来てすべて腑に落ちた。

「あまりにも暑くて、喉もカラカラだったので、廊下にある自販機で缶ビールを二本買って、立て続けに飲み干しました。部屋は暑いし、汚いし。ホテルの雰囲気もなんか怖いしで、お酒でも飲まないと眠れないっていうのもあったんで」

そのまま、ベッドに横たわり、気づけば深い眠りに落ちていたという。

深夜に響く、男女の怒号

時間ははっきりしないが、ふと目を覚ましたのは、誰かの怒鳴り声だった。男女の怒号が混ざり合い、廊下に響いていた。内容は痴話喧嘩のようでもあるが、話があちこち飛ぶ。どうも議論が噛み合っていない。しかも、妙に“声の年齢層”が高い。声だけで判断するなら、明らかに中年以上、たぶん60代前後の夫婦だ。


「『なんで郵便局に行ったんや!』『あんたの兄貴が!』『ともこが悪いんやろ!』とか、知らんがなという内容が延々と続いていました。こんな夜中に何してんねんっていう」

気になって、部屋のドアを少しだけ開けてのぞいてみる。が、角を曲がったところにいるらしく、姿は見えない。ライトの反射で、壁にチラチラと人影だけが映っていた。

次の瞬間、「ともこぉぉぉ!」という男の叫び声が響き、それに続いて「ギィィ」という女の金切り声。廊下のカーブの先に、かかとだけがチラッと見えた。裸足の女の足。痙攣しているのか、ぷるぷると小刻みに揺れていたという。

「さすがに、誰か止めに入るだろうって思ったんですけど、誰もなにも気にしてない感じで。それで、暴力をふるわれたようだったんで、すぐにフロントへ内線を入れたら、例のチャンチャンコの女性が出て。『あー、ちょっと見に行ってみますわ~』みたいな気の抜けた返事がきて」

結局、一睡もできず。スタッフに尋ねてみたが…

数分後、エレベーターの到着音がして──すべての音が突然止まった。まったくの無音。さっきの喧嘩の怒号が嘘のように消えた。静まり返った廊下に出て、角からそっと顔を出してのぞくと、件の男女が並んで歩いている。後ろ姿しか見えないが、ジャケットを着た男と、上品なワンピース姿の女。怒鳴り合っていたような空気は皆無で、むしろ駅ビルのレストラン街を歩く老夫婦のような落ち着きぶりだった。

「エレベーターに入っていく二人を見送りながら、なんかたまらなく気味が悪くなって。ここだけ世界が違うんかなとか。あれはほんまに人間やったんかなとか。いろいろ考えたら胸騒ぎもしてきた。結局、朝方までうとうとするだけで一睡もできませんでしたね」

翌朝、早めにホテルを出ようと受付へ向かうと、昨晩とは別の女性が立っていた。チャンチャンコではなく、清潔な制服に身を包んだ、ごく普通のスタッフだ。

たまらず昨晩のことを、それとなく聞いてみたという。

「深夜に、廊下のほうで大きな声がして……どなたか揉めていたような……」

彼女は少し考える素振りを見せたあと、静かに答えた。

「そういったお話は、とくに聞いてないですね」

普通のホテルならちょっとした騒ぎになることでも、このホテルでは何事もない。いや、もしかすると本当に、なにもなかったのかもしれない。めぐみさんは、ホテルを出る直前、ふと足元を見ると、昨日と同じゴキブリがいた。裏返ったまま、同じ角度で。まだそこにいたのは確かだった。

<取材・文/鈴木朋子(怪談ライター)>
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