家賃滞納者が逆上し、1人が死亡
2026年1月、東京都杉並区で行われた建物明渡しの現場で、家賃滞納者が逆上し、刃物を振り回す事件が起きた。対応にあたっていたのは、いずれも60代の強制執行官ら2人。日常的に全国で繰り返されている業務の、ほんの一現場にすぎなかった。強制執行官は、家賃滞納や差し押さえといった“揉め事の最終局面”に立ち会う役割を担う。だが、その実態は危険度に見合わない低報酬、自己負担の多さ、そして命の保証もない現場の連続だ。
なぜ、この仕事はここまで過酷なのか。そして、追い出される側・追い出す側の双方を追い詰める構造は、どこにあるのか。
一件1万7000円で刃物で脅される恐怖
一件あたりの報酬は、一律1万7000円。その仕事の現場で、命が失われた――。2026年1月15日午前、東京都杉並区で建物明渡しの強制執行に訪れた“不動産執行官”と家賃保証会社社員が、居住者に刃物で襲われ、1人が死亡する事件が発生した。不動産執行官とは、各地方裁判所に所属し、判決などで確定した義務が履行されない場合に、強制執行を行う国家公務員(特別職)である。業務の大半が建物明渡しや差し押さえなど不動産関連に集中しているため、通称としてこの名称が使われている。
事件後、ネット上では「高収入の危険職」「修羅場慣れした仕事」といった言説が拡散した。しかし、関係者への取材で見えてきたのは、前述したように高リスクながら、報酬額はあまりにも低い。
「今回被害に遭った2人がともに60代だったように、定年間際の人材がほとんどです。首都圏は住居数が多いため、月に100件ほどの現場をこなさなければならない。案件数次第では年収換算で1000万円を超えることもありますが、移動費や車両維持費、小規模な事務所の賃料、開錠業者や搬出スタッフへの支払いなどはすべて自己負担。経費を差し引けば、正直それほど残りませんよ……」
地方ともなれば、案件は少なく、ほぼボランティアに近くなるのが実情なのだ。
部屋のなかで滞納者が自らの腹を切って……
では、命の危険が常につきまとう仕事なのか。実は、強制執行の現場で執行関係者が殺傷される事件は極めて稀だ。2001年に新潟県で起きた日本刀による殺傷事件が、長らく“最新例”だったという。ただし、現場が穏やかというわけではない。民間スタッフとして15年以上、不動産執行に携わってきたB氏(50代男性)は、日々の現場についてこう語る。
まるで映画、ドラマのようなやり取りが、日々起きている。ただ、そこには無情な結末を迎えることもある。
「冷静な滞納者が、『ちょっと待っていてほしい』と言われて外で待っていたのに、音沙汰がない。鍵を開けて入ると、包丁で腹を一文字に切り裂き、うずくまっていたこともありました……。また実害に近いものでは、資金繰りの悪化から統合失調症を発症した人に包丁を握ったまま『どうぞ』と迎えられたときは、生きた心地がしませんでしたね。ただ、『この後、自分はどうなるんですか?』と尋ねられ、刃物が使われることはありませんでしたが……」(B氏)
「私たちの報酬は時給制ではないので、現場が長引くほど割に合わない。だからトラブルが起きても、すぐ警察を呼んだり大ごとにせず、『危ない物はしまった方がいいですよ』『寒いから中に入りましょうね』と声をかけてなだめる。催告通知をポストに入れて、その日は引くのが普通です。何度も同じ説明を聞くうちに、『結局どうにもならない』と諦める人が多い」(A氏)
滞納者の母数は増加。出されても先はなし
今回の死傷事件では、家賃約5万5000円、滞納額は約60万円と報じられている。滞納期間は1年程度とみられるが、近年は半年を待たずに強制執行に踏み切るケースも増えているという。「2~3か月の未納で裁判所への訴えを起こす事例が、コロナ禍以降1.5倍程度に上がっている印象です。強制執行をかけるのに50万円ほどの出費と半年以上の期間が必要になるため、できるだけ早めに対処したい。建物維持管理費の高騰もあるので、賃料の値上げに踏み切りたいが、値上げ交渉どころか滞納者には出て行ってもらい、新しい賃料で優良な借主を見つけたいと思うのも当然でしょう」(B氏)
家賃滞納者は統計上も増加している。首都圏の管理物件を対象にしたデータでは、月末時点で1か月以上家賃を滞納している世帯の割合は2023年度に1.0%に達し、2か月以上の滞納世帯も0.5%まで拡大した。
さらに近年は、物価高の影響で家賃自体が上昇傾向にあり、実態としてはこのデータ以上に未納世帯が増えている可能性も否定できない。強制執行に至るまでの「母数」は、確実に膨らみつつあるのだ。
実際に“強制退去させられた側”のC氏(40代・無職)は、強制執行に至るまでの周囲の対応について、次のように語る。
「自分はメンタルが悪化して自宅療養をしていたのですが、体調が悪く、家賃の振り込みを忘れていました。すると家賃保証会社から電話で恫喝され、数日後に『市役所の者です』と嘘をついてドアを開けさせられました。『家賃払えこの野郎!』などと怒鳴られ、恐怖のあまり過呼吸になりその後、パニック発作が頻発するように。警察や弁護士に相談しても『事件化は厳しい』と言われました。精神科でも就労は不可能な状態と診断されているし、どうしていいかわかりません」
こうした制度の隙間で、実際に追い詰められていくのが滞納者本人だ。
「家賃保証会社の法規制、行政の介入をすべきだと思います。家賃保証会社は滞納者を追い出すのがノルマになっていて、もはや本来のサービスである『保証人がいない人が賃貸物件を借りるための機能』を果たしていないと思います」
滞納者らの訴える『どうにかならないんですか』『この後、私はどうなるんですか?』という声に、明確な答えは用意されていない。出す側も、出される側も、誰も得をしないまま、強制執行という摩擦だけが今後も増えていく。
取材・文/ニポポ イラスト/子原こう
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