ジャーナリストの森田浩之氏は、五輪はもはや“無条件に熱狂を共有できる祝祭”ではなく、その意義そのものが静かに問われる段階に入った、と指摘する。(以下、森田氏による寄稿)
ミラノ・コルティナ冬季五輪が開幕
ミラノ・コルティナ冬季五輪が開幕した……はずなのだが、序盤戦の空気はどこか静かに感じられないだろうか。日本選手のメダルラッシュが、いまひとつだから? いや、盛り上がり切っていないのは日本だけではない。開催国イタリアでは観戦チケットが売れ残り、序盤の一部競技の分はセールに回された。開幕直前には新設工事中のケーブルカーが間に合わない見通しなど、準備の遅れが世界のメディアを賑わせた。
思えば、五輪はもっと威厳のあるイベントだったはずだ。どうしてこれほど熱量の低い凡庸な姿をさらしているのか。
五輪そのものへの「慣れ」が影響しているのは間違いない。東京、北京、パリと続いた近年の五輪は、新型コロナのパンデミックや政治的緊張、過度の商業主義への批判を抱えながらも、止まることなく開催されてきた。その結果、五輪は「止まらない巨大システム」と見なされるようになった。頻繁に開かれる巨大イベントなら特別感は薄れ、当然ながら熱も冷める。
おまけに今大会は欧州開催ということもあり、地政学の影がより色濃い。
大会序盤の静けさが意味するもの
ロシアの女子フィギュア選手アデリア・ペトロシャンも、中立選手の一人だ。18歳ながら国内選手権を3連覇している彼女が、国籍を消された形でいきなりメダル争いに加わる。この構図が五輪の「純粋さ」を損なわずに済むと言い切るのは難しい。冬季五輪にはつきものとなった気候変動の問題も大きい。今大会では240万㎥もの人工雪が用意される。アルプスに人工雪を降らせる光景は、冬を祝う祭典というより、冬という季節に別れを告げる儀式だ。
こうした現実と建前のずれは、若い世代ほど敏感に感じ取るようだ。アメリカのZ世代で、’22年の北京冬季五輪をテレビで見た人は、その直前の東京夏季五輪より実に36%少なかった。
大会序盤の静けさは、失敗を意味するのだろうか。
ミラノ・コルティナ大会は、五輪は何のためにあるのかという問いを、さらに強く突きつけている。
【森田浩之】
もりたひろゆき●ジャーナリスト NHK記者、ニューズウィーク日本版副編集長を経て、ロンドンの大学院でメディア学修士を取得。帰国後にフリーランスとなり、スポーツ、メディアなどを中心テーマとして執筆している。著書に『スポーツニュースは恐い』『メディアスポーツ解体』など
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